ミミズの戯言80、南部一揆。  17,01,18

   江戸時代後期、南部藩は財政難から、三閉伊地方(岩手県北東部の三陸沿岸地域)
 の農漁民に過酷な重税を課しこれに耐えかねた農民が2度に亘り一揆を引き起こし
 た。これを三閉伊一揆、又は南部一揆という。

   昭和42年から48年まで、朝日新聞に連載された大仏次郎の「天皇の世紀」は、
 激動の明治時代を生きた明治天皇と時代の興亡を、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の
 ような大衆受けする物語的文体ではなく、あくまで「史実は何か」を追求した学問
 的大作だが、惜しくもこの大作は大仏次郎の病のため未完のまま絶筆となっている。

   膨大な大作「天皇の世紀」を読み進むと、南部一揆の記述に出会う。南部藩の財
 政窮乏と過酷な重税、三閉伊地方に起きた一揆のことを今まで知らなかったのは、
 岩手県を父母のルーツとする私にとって不覚な事であった。

  かって調べて整理した我が家の家系図によれば、父方の祖母は一揆の主力になっ
 た野田村の豪農(亡母の言によれば“野田の殿様”)の娘だったらしい(真偽の程
 は闇の中だが)ので、興味を持って他の文献も調べてみた。

   南部一揆は3万人に近い大人数の農民が、田畑を捨て、集団となって雪崩のよう
 に、領内を横断し、隣国の仙台領に入って、保護を求めた事件である。

   最初の一揆は、弘化4年(1847)牛方弥五兵衛が指揮して1万数千人が蜂起
 した弘化の一揆。続いて嘉永6年(1853)田野畑村の畠山太助が指揮して2万
 数千人が蜂起した嘉永の一揆と続いた。

  弘化の一揆では遠野南部家に強訴する。要求はその場では認められたが、一揆が
 沈静化すると、すぐさま公約は破棄され、さらなる新税をかけている。さらに一揆
 の首謀者の弥五兵衛は捕えられて打ち首になっている。

  嘉永の一揆では、はるばる藩境を超えて仙台藩領の気仙郡唐丹村(現釜石市)への
 越境に成功し仙台藩に直訴に及ぶ。主に田野畑村、野田村などの農民が参加してお
 り、その中から交渉団として弁のたつ45名を仙台藩に残し、残りの農民は帰村し
 ている。

   仙台藩、南部藩、農民代表の三者による交渉は、「三閉伊を仙台藩に」という願
 いは却下されたが、租税撤回など農民側の要求を全面的に認める裁定となった。
 しかし後日、再犯を恐れた南部藩によって一揆の首謀者畠山太助は捕えられ、盛岡
 で入牢自刃するという結末になっている。

   農民が土地を捨てる、いわゆる「逃散」は極刑に値する大罪だった時代である。
 封建制を成り立たせる最も基本的な仕組みが「土地と農民」だった時代である。
 この一揆は農民が人間として最低限の生きる自由を求めて、自藩による秩序を拒否
 した初めての事件で、封建体制の急速な自壊作用を招く遠因となったといえる。

  黒船が封建制崩壊の「外的要因」だとすれば、一揆は「内的要因」であり、
 維新の知られざる一面である。

   畠山太助が指揮した嘉永6年(1853)の一揆には、佐々木万吉という26歳の若者
 が畠山太助を助けて活躍している。

   万吉は田野畑村出身で、若くして木太刀、棒、柔術など「石尊真石流」を学び、
一揆のあった嘉永6年に免許皆伝となっている。文武に優れ、率先して農民に一揆
の必要性を説いていたらしい。

   ここからは私の空想、ルーツを探るロマンの夢物語だが、この佐々木万吉は、
 私の先祖と何らかの繋がりがあったのではないかと思わせる節がある。

  前述の家系図によれば我が家の父方の先祖は、定吉、金吉、才吉、勝吉、貞吉と
 「吉」が続き、名前からして万吉との縁を感じさせる。万吉と定吉は年齢が近く、
 兄弟だったかも知れないとの大胆な仮説にたどり着く。
仮説が成り立つには1,2の
 難点があるが、難点があるからかえって想像が逞しくなる。

   一揆の時、万吉は指導者として野田村の農民と接触しており、野田村の有力者の
 芋田家とは当然接触していたはずで、芋田家の娘のナカ(私の祖母)を後年、定吉
 の孫金吉(私の祖父)に嫁がせたとしてもあながち不思議ではない。
 もし万吉が両家の縁結びをしたなら私にとっては他人事ではない。
ナカと金吉夫婦
 の息子の3男貞吉は私の父である。

  即ち私のルーツの一人は南部一揆に繋がっていた?

   私の父方の先祖は造り酒屋で、私も幼少の頃、酒造りに各地から集まってきた
 南部杜氏さんをよく見かけたし、大きな酒ダルの周りで遊んだ記憶があるが、誰が、
 いつ、どこで、造り酒屋を始めたかは聞きそびれていた。未だに謎のままであり
 ルーツの解明は今では不可能である。そこに万吉という新しい謎解きのカードが
 加わった。

   万吉と定吉の兄弟説は、勿論推測の域を出ないし、真偽のほどは確かめようも
 ないが、もし仮説通りだとすると、私の家系の縦糸に、万吉という横糸が加わり、
 ふくらみのある家系図に書き換えることが出来る。想像をかきたてる新しいロマ
 ンの芽生えだった。

  万吉の墓は「滝の万吉の墓」として岩泉町乙茂の共同墓地にあり、墓石には、
 中央に黙峯良念禅士、左に佐々木万吉、右に大正五年旧二月五日、とあるらしい。
 
享年89歳。



   もし私に小説を書く構想力と文才があり、しっかりした時代考証をする根気と
  若さがあったら、万吉の生涯を我が祖先と絡めて、一大スペクタクルに書きあ
  げるのだが・・・と夢想した。

   万吉は一揆を経験したし、9歳上の兄彦右衛門(熊の助)がマタギの頭を務
  めていたので、兄を助けてマタギの経験もあったであろう、一方では堀熊
  鉄山の鉄を盛岡に運ぶ牛方でもあったようだ。一揆の時に仙台藩に残って
  談判した45人の中には文武に優れた万吉がいたに違いない。想像は膨らむ。
  
我が祖先の定吉が造り酒屋のルーツだと想定して、その経緯も書きたい。
   定吉・万吉兄弟の波乱溢れる若者の生涯も描けるし、故あって姓が別れた
   経緯もフィクションなら自由に描ける。我が祖父母の縁結びもネタになる。

   江戸末期の一揆や維新などの田舎ならではの時代背景も描写出来る。きっと
  面白い物語になるだろう。
       ・・・ 小説のネタはあり過ぎるほどあるのだが。・・・
 

 「天皇の世紀」を枕元で読みながら、ロマンと空想の世界に浸って眠り込んだ
 新春の初夢だった。