ミミズの戯言78、不寛容の時代。  16,11,03

   ネット社会が全盛で、ツイッターなど不特定相手に寸時に情報を発信できる現代は、
  「不寛容社会」であり「不寛容の時代」だという。

   熊本地震で被災した人の支援を表明した著名人などが批判される“不謹慎狩り”や、
  「センテンス・スプリング!(注;文春のこと)」で人気タレントが“一億総バッシング”を
  受けるなど、このところ、1つの過ちや発言をめぐって、個人や組織が糾弾される事態
  が相次いでいる。ひとたび火が付くと、たちまちエスカレートする世論。身近なところで
  も、地域の住民から「子どもの声は騒音だ」という苦情が出るなど、息苦しい世の中に
  なったという声が多く聞かれるようになった。

   最近では二宮金次郎の立像が、歩きスマホを助長するとの批判から、坐像に変わ
  っているらしいし、父兄から、子供が虫が嫌いだからと苦情が入り、ノートの表紙から
  虫の絵が消えたそうだ。世間の批判に敏感になって委縮するのは行政側も同じよう
  である。

   まるで韓国や中国の国民性に似てきたようだし、米国大統領選の醜い中傷合戦に
  も当て嵌まる。日本だけではない世界の潮流のようにも思える。

   最新の世論調査では、今の日本社会は他人の過ちや欠点を許さない“不寛容な
  社会だ”と答えた人が半数近くに上り、“寛容な社会だ”という声を上回った。小泉首
  相の郵政民営化以来、白黒をつけたがる風潮が顕著になった。何かにつけて対立
  構造が浮かび上がり、主張が先鋭化する現代社会。専門家は「社会が萎縮してしま
  う」、「自由な言論が脅かされる」と警鐘を鳴らす。まさに批判→配慮→萎縮の負の
  連鎖だ。ツイッターに非難の書き込みが集まって「炎上」し、怯えるマスコミでさえ萎
  縮する時代になった。

   しかし不寛容の時代は現代特有の現象なのだろうか、昔から、あるいは私が青春
  を燃やした安保反対のうねりの時代にも不寛容の精神があった。それが脈々と連
  続的に続いているのではないかとの思いがあって、現代だけが不寛容の時代だと
  言い切ることには抵抗がある。

   6月のNHKスペシャルで放映された「不寛容の時代」には、首肯出来る部分と反
  論したい部分があって、自分の考えがまだ纏まっていないので本戯言の論旨はいさ
  さかあやふやな結論になっている。

   不寛容とは、自説に固執し他人の意見に耳を貸さない、直ぐに反論する、切れる、
  挙句の果てには罵倒するという自己中心的な特徴がある。他人の発言や意見の
  抹殺は昔だって存在した。
  
   ただ現代と違うのは、例えば安保改定のような危険な政治のうねりには不寛容
  だが、多少の失言や些細な過ちには、むしろおおらかで寛容すぎるというのが我々
  の時代の特徴だった様な気がする。

   若いころは、白か黒か、右か左かを議論し、正しいか間違っているかを探り、結論
  を出しては少数意見を切り捨てた。排除の論理がまかり通った。時に強者の恫喝に
  もなりかねない激しい意見の衝突もあった。不寛容の縮図がそこにはあった。
  今考えると身の縮む思いがする。

   ただし現代のツイッター社会と違って、相手と正面から向き合って議論をしたもの
  だが、ツイッター社会では自分の顔を見せずに無責任につぶやくことが出来る。
  現代は欲求不満が充満する社会でもある。社会から隔絶された孤立感が焦燥とな
  り、人前でしゃべれない腹いせにツイッターに走るのかもしれない。そして同調者の
  反応に気をよくして再びつぶやく「つぶやき全盛の社会」が生まれているのかもしれ
  ない。

   脳科学者中野信子氏は、「批判することで相手が反応するとドーパミンが出る。
  それが快感となる。」と云っていた。

   なぜ不寛容な空気が広がっているのか。昔だってあったのに昔と今と何が違う?
  現代のネット世代と我々アナログ世代の違いは、寛容と不寛容の振幅の差にあり、
  振幅の差が極端に狭いのが現代の特徴なのではなかろうか。たったそれだけの違
  いのように思われる。

   「不寛容の時代」は一面良い事だ。にやにや笑って適当にお茶を濁す無責任派
  よりもよほどましなことだ。ただすぐに切れたり激高する事だけは自重して欲しい。
  異説を尊重し耳を傾ける度量だけは失いたくない。私の平凡な結論だが、賢明な
  読者諸氏は如何であろうか。

   因みに私は昔から筋金入りの自民党政権に対する不寛容派を自認していて、
  多分それは終生変わることはない。