ミミズの戯言76、中秋の名月。 16,09,15

   今日9月15日は十五夜の中秋の名月。相変わらず不安定な天候が続いていて、
  今日も曇り時々小雨だから名月を鑑賞できない。百人一首の紫式部 ”雲隠れに
  し夜半の月かな” である。

   星空なら我が家の二階のベランダに食卓を置き、ススキと果物、それに月見団
  子を供えて、月見酒と行くところだが、曇り空ではそんな風情は味わえない。

   昔、酒好きで物識りの友人が、月見酒を飲む資格があるのは花見酒を飲んだ人、
  花見酒を飲む資格があるのは雪見酒を飲んだ人、だから風流の酒を味わうには
  正月の雪見酒は欠かせない、と煙に巻くような薀蓄を聞かされたことがある。
  何のことはない。何でもいいから理由をつけて正月から欠かさず酒を飲もうという
  魂胆だっただけのことである。

   「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」 世阿弥の「風姿花伝」に書かれ
  た有名な一節である。能の世界での表現の極意を述べた言葉で、すべてを見せ
  ずに、ほんの少しのことを象徴的に表現することによって、観客の想像の翼を活
  用し、表現に膨らみを持たせようとする一種の術(テクニック)だと解釈されている。

   「意外性の感動」と言い換えることもできる。観客が予想もしていなかったことが、
  突然演者によって表現され、その意外性に観客は感動する。「秘すれば花」は能
  の演者の秘中の秘の業だから、観客は驚きと感動に魅了され、その後も意外性
  見たさに足繁く劇場に足を運ぶことになる。世阿弥の演出の極意である。

  下世話な例えだが、加藤茶の「ちょっとだけよ!」もこれに近い発想かもしれない。

   月見だって同じこと。露わなあばただらけの月を見るよりは、朧月夜か雲に隠
  れた月の方が色んな想像を楽しめる。”見えないのが月見だよ”などと負け惜し
  みを言うのが年寄りの年寄りたる真骨頂というものである。

   ところで、十五夜には団子の数は15個、十三夜には13個飾るらしいから、お
  猪口の酒も15杯、なんて小理屈を言って、「秘すれば花」ならぬ 「秘すれば月」 
  と洒落こみ、雲に隠れた月に想像の翼を広げて、今宵も老夫婦で侘しい小宴を
  楽しむことになるだろう。

   もしかしたら、突然、雲間に十五夜の月がほんの少し顔を見せるかもしれない。
  世阿弥の仕組んだ意外性、”秘すれば花”の感動の出現が・・・!

   釣り好きの友人が、昨日カツオを3本揚げてきたと意気揚々と4`もあるカツオ
  1本を持参してきた。これを母の遺品の出刃で捌いて5枚におろしたが、脂の乗っ
  た見事な切り身だった。スーパーのカツオの柵とは段違いの脂の乗りだった。

   血合いを削いで半身をさらに半分ずつ4つの柵にして、背身と腹身1柵ずつに
  は串を打ち、コンロで炙ってタタキを作った。大皿に盛りつけ、ミョウガ、青ネギ、
  ショウガ、ニンニク、を刻んでふりかけ、その上におろしポン酢をかけて豪華な
  タタキ一品が完成した。

   残りの半身のうちの背身は刺身にして生姜醤油を添え、残りの半分の腹身は
  竜田揚げにして甘酢餡をかけた。料理途中で試し食いをしたが舌がとろける旨
  さだった。本来なら頭をカブト焼きにし、中骨は中落ちにするところだが、疲れた
  ので勿体ないが諦めた。カツオもマグロも捨てるところがない魚なのである。

   釣って2日目の新鮮なカツオ料理が今宵の十五夜の小宴のツマミになる。