ミミズの戯言73、てんでんこ。  16,05,27

   朝日新聞に「てんでんこ」と題して、東日本大震災発生時の政府・行政・東電
  の対応と、その後の復興対策の検証記事が連載されている。

   「てんでんこ」とはなんとも久し振りに聞く懐かしい東北弁で、一般に「てんでん
  ばらばら」、つまり「てんでん」と 「ばらばら」に分解される「てんでん」に東北弁
  特有の、最後に「こ」を付けたのが「てんでんこ」で、「別々に」とか「自分勝手に
  」とかを云いたい時に使われる方言である。

   大津波発生を機に「津波てんでんこ」などと名前を付けてもっともらしい解説
  をする学者もいる。津波が来たら何はともあれ自分一人でも避難せよ!家族
  と一緒に避難を、等ともたもたしていると一瞬のうちに津波の被害に遭うから、
  まずはわが身第一に「てんでんこ」に逃げよという訳である。

   昔から伝えられた先人の教えだからとりたてて新しい教訓ではないが、大変
  難しい一瞬の判断だから、とっさに実践することができずに遭難してしまった
  方々が多かったようだ。

   これと対極にあるのが最近はやりの言葉の「絆」であろう。親子の絆、夫婦
  の絆、兄弟親戚の絆、仲間の絆、あらゆるところで「絆」の文字が躍っている。
  災害復興の時にいつも「絆」が登場するが、少々この文字も食傷気味で目障
  りに感じることが多くなってきた。

   大昔の事になるが空襲を経験した戦争体験者として思い出すのは、隣組の
  絆で、向こう三軒両隣、助け合って一緒になってバケツの水を手渡しで消火
  訓練をしたものだし、防空壕にも一緒に入ったし、戦後の食糧難の時には食
  べるものを分け合ったりしたもので、それは自然に育まれた当たり前の「絆」
  であって、今よく言われるような、同情的な響きのする「上から目線」の「絆」
  では決してなかった。親切や同情は時には有難迷惑であり往々にして反発し
  たくなるものだ。「絆」という本来美しい響きのある文字が安易で軽々しくなっ
  てしまった。

   津波に遭遇した時に、「絆」つまり人間が本能的に持っている人間愛と、何
  もかも捨てて命からがら自分一人で逃げよ、という「津波てんでんこ」の教え
  のどちらを一瞬のうちに選択するか、日頃心構えのない人にはかなり難しい
  問いを含んでいる。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に通じる問題提起である。

   古くて新しい問題提起を突き付けられて、さてどのような行動をとるか、学
  者先生は簡単に「てんでんこ」を選べというが、そう簡単な話ではないように
  思われる。自分自身どのような行動をとるか、はなはだ自信がない。諸氏は
  如何であろうか。

   話はまるで変わるが、先日の5月25日は、平成の年号になって丁度1万日
  なのだそうだ。思わず吹き出しそうになったが、世の中には何とも物好きな
  人もいるものだ。こんな突飛な発想をする人はきっと独創的な才能を持って
  いるに違いない。

   そういえば、ラーメン一杯の麺の長さを継ぎ足すと何メートルになるか等を
  真面目に調べた人もいるらしい。暇人もいるものだ。

   こちらも暇人だから触発されて自分が生まれてから何日たったかをざっと
  計算してみた、閏年が19回あったからそれも入れて正確に数えたら、5月25
  日で28,810日だった。3万日まであと1200日あまり。3年3か月後の2019年8
  月がその月にあたる。

   笑い話的だが、2020年の東京オリンピックまでは元気でいたいと思ってい
  たが、その1年前の3万日という、区切りのある新しい目標が出来た。

   死神との「絆」はしばらくご遠慮申し上げて、万一そんな不測の事態が起き
  そうになった時には、一目散にすたこらさっさと「津波てんでんこ」ならぬ「死
  神てんでんこ」を決め込む事にしようと暇な老人は思うのである。