ミミズの戯言70、蕎麦とお酒と・・・   16,02,06

  池波正太郎の蕎麦好きは有名で、かって彼の著作に出てくる店には随分探検に出掛け
 たものだ。浅草並木、神田連雀町、池之端の「薮」、日本橋室町の「砂場」、神田須田町の
 「まつや」は近くの連雀町の「薮」の名声にかくれてしまい地味にやっているが、「知る人ぞ
 知る・・」名店だと私は思っている。

  数年前に信州上田に行ったときには「池波正太郎記念館」を訪れ、彼のお気に入りの
 「刀屋」にも行った。もっともこの店の蕎麦は私の好みとは若干違ってはいたが・・・。

  池波正太郎に言わせれば、東京の蕎麦汁は濃いので、蕎麦を少しだけ汁につけるの
 であって、汁が薄ければどっぷりつけて食べればいい、それが「通」というものだと言い
 切っている。意を強くした私は以来、蕎麦汁が辛かろうが薄かろうが、他人の眼にはど
 っぷりと見えるくらい汁の中に蕎麦をつけて食べる習慣がついている。ただしワサビだけ
 は汁に溶かさない。蕎麦に少しなすりつけて風味を味わう。海苔も別にする。

  私の家内の従姉の連れ合いに無類の蕎麦好きがいる。地元の千葉や東京はもとより
 広く全国的に蕎麦を食べ歩き、蕎麦の本を作って自家本として発行している位の「通」で
 ある。彼のブログには、なんと775店もの蕎麦屋の写真と蕎麦の評価が掲載されている。
 半端な蕎麦好きの仕業ではない。私は「蕎麦好き」だが、彼のような「蕎麦通」ではない。

  3年前に巣鴨の本妙寺で行われた「秀哉忌」に出掛けた時、彼の推薦で、地蔵通りに
 ある「菊谷」という蕎麦屋で蕎麦を食べた。腰のある10割蕎麦で、推奨通り久しぶりに満
 足した味だった。香り豊かな蕎麦で、風味の効いた鰹節の出汁も濃い目の江戸好みで
 蕎麦によく合っていた。

  最近彼の夫人から、横浜の日ノ出町に隠れたいい蕎麦屋があるという知らせがあり、
 彼のブログを覗いたら、確かに載っていたので家内と出掛けてきた。

  日ノ出町は最近頻繁に旧友と飲み歩いている馴染みの界隈だが、駅裏には足を延ば
 したことがない。駅裏の高台にある閑静な住宅地に、ひっそりと1軒だけ場違いの様に
 推奨の店があった。「司」という店である。一戸建ての古建物で、隠れ家のような雰囲気
 がある。靴を脱いで上がる。テーブル席の周りは明かりを絞っていてやや薄暗い。悪く
 言えば何故か昔の遊郭の女郎部屋を連想させる。赤い蹴出し風の少しよれた布がスタ
 ンドの明かりを覆ってあるからだろう。

  店に入った瞬間には少し薄気味悪い店だなと感じた。雰囲気を出そうとして少々凝り
 過ぎで、それでいてやや乱雑に椅子が並びこれも無造作に雑誌が置いてある。奥座敷
 には常連と思しき若い会社員数人が酒と蕎麦を静かに楽しんでいた。

  蕎麦は手打ちの九割、今日は秋田の玄蕎麦とのこと。細くて短い。九割だとグルテン
 が少ないからどうしてもこうなる。「天せいろ」を頼んだが、蕎麦には星が見え、ざらつき
 感があって腰の強いやや硬め。私の好みの味だった。汁も鰹だしの程よい濃さ。

  蕎麦を待つ間の酒は、目移りするメニューから福島の「中将」を選んで常温で頼んだ。
 きりっとした辛口で家内は旨い旨いと私と同量も飲んだ。ツマミには、卵焼き、里芋の
 煮っ転がし、ゴマ油で揚げた天ぷらもしつこくなく上品に揚がっていた。

  やや無口だが気さくな感じの女将、雰囲気も慣れればそれなりに許容できる。何より
 も美味しい蕎麦、天婦羅、ツマミ。いい店を紹介してくれた。