ミミズの戯言65、小糠雨(こぬかあめ)。 15,07,04 夏を迎える恒例の儀式なのか連日雨が降り続いている。田畑は潤い野菜の高値も 一段落するだろう。以下は、我が家の居間で断続的に降る雨を見つめながら、とりと めもない想いにふける78歳の老人の回想である。 フト脳裏に「小糠雨ふる〜」から始まる歌謡曲が浮かんだ。小糠雨とは、雨粒が霧 の様に細く音もなく静かに降る雨の事だが、季語を調べてみたら、季節を問わず使 えるらしく季語としては使えない。今日の雨は時々叩きつけるような雨なので小糠雨 とは程遠い。 台湾出身の歌手欧陽菲菲が歌う、たどたどしい日本語の「雨の御堂筋」は、「小糠 雨降る御堂筋〜♪」 から始まる中年の歌謡曲ファンお馴染みの歌だった。私のよう なカビの生えた老人には、渡辺はま子の「雨のオランダ坂」が思い出される。菊田一 夫作詞、古関裕二作曲、という懐かしいコンビの作である。 「小糠雨降る 港の町の 青いガス灯の オランダ坂を 泣いて別れた マドロスさ んは 縞のジャケツに オイルのコート 煙に咽せてか 泣いていた 泣いていた〜」 歌手渡辺はま子は数奇な人生を歩んだ昭和の歌姫である。彼女が歌う情感のある 歌が発禁となり投獄されたこともある。昭和27年には 「ああモンテンルパの夜は更 けて」 が大ヒットした。 私の回想はさらに続く。 「ああモンテンルパの夜は更けて」は、マニラ郊外のモンテンルパの刑務所に収容 されていた日本人B級戦犯死刑囚のうちの2人が作詞作曲した歌である。その曲を ある縁で渡辺はま子が知り、2人の死刑囚の事を知るに及んで驚愕し、レコーディン グ化に奔走して遂に大ヒットした。当時渡航が禁止されていたフィリピンに渡り、日本 人戦犯達の前でこの歌を歌い、涙と歓喜の声が上がった。昭和27年の事である。 前年の昭和26年、サンフランシスコ講和条約によってA級戦犯は次々に釈放され た。A級戦犯容疑で巣鴨刑務所に3年半拘束されていた岸信介も満面笑みを浮か べて出所した。しかしその陰ではフィリピンはじめアジア各地でBC級死刑囚は次々 に処刑され続けていた。モンテンルパの死刑囚たちも正に処刑寸前だった。 渡辺はま子がフィリピンを訪れた翌年の昭和28年、フィリピンのアキノ大統領は 彼女から送られた「モンテンルパ・・」の歌の入ったオルゴールを受け取り、この歌を 聞いた。日米の市街戦で妻と娘を失った大統領は「すべては戦争が悪い。憎しみを もってしても戦争は無くならない。どこかで愛と寛容が必要だ。」と述べ、死刑囚を含 むすべてのBC級戦犯を大統領特赦とし、釈放・帰国が決まった。翌年、横浜の埠頭 で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があったそうである。 数奇な運命的な経緯のある「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌詞は次の通り で死刑囚の郷愁の念に溢れている。 「モンテンルパの 夜は更けて つのる思いに やるせない 遠い故郷 しのびつつ 涙に曇る 月影に 優しい母の 夢を見る。」 ー2番以下略ー。 余談だが、A級戦犯容疑者の岸の釈放は、731部隊の毒ガスと人体実験の資料を アメリカに渡して死刑を免れた、との疑惑が終生ついて廻ったきな臭い釈放である。 今日もテレビでは安保法制を巡る国会論戦で、安倍首相は「国を守るため・・」との 答弁を繰り返しているがその声がむなしく聞こえる。ーこの祖父ありてこの孫あり。ー |