ミミズの戯言64、頂門の一針。 ![]() ふと北海道の奥尻島の事を思い出した。 今から22年前、北海道南西沖地震による津波で、この島が甚大な被害を受けた事は、 もう忘れられたように報道されなくなってしまった。新しい事件が起こると古い事件は次 第に記憶の彼方に消えてしまう。いわゆる風化であり悲しい人間の業でもある。 聞くところによると奥尻島の稲穂地区では被災した後、堤防前の土地が海抜5mに かさ上げされ、高さ9,1mの防潮堤が392mにわたって築かれているそうだ。漁民は 国が出す高額な補償金に目がくらんで防潮堤の工事に労力を提供し、漁業の権利を 明け渡した。観光と漁業の島は一転してコンクリートで囲まれて海が見えない要塞と化 した。工事終了後は勿論観光客は激減し、昔沢山獲れたホッケも姿を消し、若者はこ の島に見切りをつけて離島し、今は高齢化と過疎化が進んで、老漁師が数所帯細々と 生計を立てている限界集落だという。人がいない島に異様な防潮堤だけがそびえる姿 は想像するだに恐ろしい。これが為政者の選んだ「最良の方策」だったのである。 今、東日本大震災の復興と称して三陸海岸一帯に奥尻島と同じ護岸工事が行われ ている。陸前高田市要谷(ようがい)集落の海岸では震災前より7mも高い12,5mの 防潮堤が建ちコンクリートで固められた。気仙沼小泉地区では防潮堤14,7mの工事 計画に住民の賛否が入り乱れている。宮城県ではすでに県発注の防潮堤275カ所、 総延長163キロのうち、岩沼、石巻市など52カ所で着工が始まった。奥尻島よりも巨 大なコンクリートの塊が姿を現しつつある。海と陸を隔てる「ベルリンの壁」が現出する。 1000年に一度の巨大津波に、巨大防潮堤で対抗するのが上策とは思えない。 安政・明治・大正・昭和にかけて三陸を襲った過去の津波と対処の歴史を調べると、 人間はそもそも「自然」というものを「推し量る」事が出来ない生き物ではないのかと思 ってしまう。(吉村昭著;三陸大津波参照) 自然を「神」として祀る姿勢のほうがはるか に人間らしいのではなかろうか。 「力には力」ではなく「力には知恵」で対処するのが上策と考えたい。巨大なコンクリ ートに巨大予算を投じるよりも、いち早く逃げ延びるための拡幅道路の整備や、秒を 争そう避難を手助ける移動手段(避難車)の準備、高齢者や病人の避難を迅速に行 う救急隊員の育成と避難・救助訓練、などのソフトウェアに活動の重点を置くべきなの ではないだろうか。 横浜国大の恩師の宮脇教授が提唱し、細川護煕元首相が理事長になった「瓦礫を 活かす森の長城プロジェクト」の設立時に、細川さんからパンフレットを頂き、その考 えに賛同して、私が紹介活動と500円募金活動と植樹祭への参加要請のお手伝いを 始めたのは3年前の12,09だった。 この活動の趣旨は、震災で生じた瓦礫を資源として活用し、青森から福島までの 300`にわたって瓦礫を埋め立ててマウンド(盛り土)を造り、そこに9000万本のシイ ・タブ・カシなどの照葉樹の苗木を植え、10年かけて巨大津波から街を守る森の防潮 堤・防潮林を造ろうという壮大な構想のプロジェクトである。 この活動こそが人間らしい知恵の活動で、人間と自然との調和だと信じて、親戚や 地域住民、趣味の仲間、仕事仲間、学生時代の友人知人たちに紹介し、幸い一定の 成果を上げている。政府・地方自治体も一定の理解を示し予算面でのバックアップを しているが、コンクリート防潮堤の建設の縮小や中止には及んでいないのが歯がゆい。 先日、学生時代に同じ釜の飯を食べ青春時代を共に過ごした学生寮”蒼翆寮”の仲 間達の集まりがあった。卒業以来50年を超えているが60余名の参加者が集まった。 渦中の沖縄から駆け付けた女性がいた。福島の飯館村から病を押して参加した先 輩もいた。皮肉にもその先輩と同期の東京電力原発推進役だった先輩もいた。被災 地に巨大な防潮堤の建設が進む行政に疑問を呈した仙台の友人がいた。 多士済々、それぞれ歩んできた世界の隔たりはあっても、それでも寮生活を共にし て苦楽を分かち合ったという一点で繋がっている仲間の確かさがあった。互いに年を 取ってしまって云いたいことの半分も言えぬもどかしさはあったが、「お墓と病気」ばか りが話題になる老人の集まりと違って、話題は多岐にわたり濃密な数刻を過ごせた。 流石だ。何度も”暁の寮生大会”で沸騰した議論を経験した強者の面影が50余年を 経た今も色濃く残っていた。2次会から3次会になり、世界中で合気道の普及に努め ている伝道者の語るスポーツ界の男女差別の話題、沖縄から駆け付けた仲間が語る 普天間基地問題の実相、そして教育者が語るいじめ問題と教育現場の荒廃、さらに 現代の若者像、戦争責任論、東日本大震災、福島原発、民主主義、政治の貧困、 日本人気質の特質、など重い話題が相次ぎ、時間の過ぎるのを忘れる程であった。 平均75歳の老人とは思えぬ気迫のこもった慨嘆と気概だった。 ”頂門の一針”という言葉が頭をよぎった。鉄槌を下すべき対象は政治家や官僚達 なのか、行政組織やシステムなのか、あるいは付和雷同型の無責任な日本人気質 なのか、あるいはそれらすべてに対してなのか。そして我々にできることは何か。 それにしても50年を経た後でも、我々はやっぱり心の繋がった仲間だった。 我々には”命の日めくりカレンダー”の残り枚数は少ない。道半ばにして去って行った 仲間も多い。時間のある限り仲間たちと細い糸でも繋がりあい、「碩学の謦咳」に接し 続けたいものである。そして身の丈の範囲で背伸びせずに若い世代に語り継ぎたい ものである。 |