ミミズの戯言60、”je suis charlie”15,01,25
もはや8500キロ離れた他国の出来事ではない。イスラム過激派組織(ISIS)
通称イスラム国を巡る二つの大事件が世界中を震撼させている。遂に日本もその
渦中に巻き込まれた。
1つはフランスで起きた連続テロとイスラム教の預言者を風刺する週刊誌記事で
あり、ふたつ目はイスラム国の兵士が邦人2人を人質にとり、72時間以内に2億
ドルの身代金の支払いを要求する衝撃的なシーンがインターネット上に放映され
た事である。邦人2人の人質事件は現在微妙な交渉過程にあるので所見は後日に
譲り、フランス問題について感想を述べたい。
パリにある風刺週刊誌「シャルリー・エブト」本社をイスラム過激派組織が襲い、
編集記者達12名を射殺した。イスラム教の聖なる予言者ムハンマド師を冒涜する
風刺画を掲載したことに対する報復だという。
フランス国民はフランス革命で勝ち取った「自由・平等・博愛」の精神を受け
継ぎエスプリを信条とする国民である。たとえ神聖な宗教への風刺であっても
「表現の自由」はいかなる場合でも守られるべきだと考える。シャルリー・エブ
トは痛ましい犠牲者を出した後でも再び同様の風刺画を掲載してその勇気はパリ
っ子の共感を得た。
多くのフランス人が”je suis charlie”(ジュスイシャルリ/ 私はシャルリ
ー)のプラカードを掲げて、テロに屈しない意志と犠牲者追悼の大規模なデモを
した。参加者は44か国の国家元首や政府代表も加わりパリだけで150万人、全仏
で370万人が集まる歴史的な行進となった。
「私はシャルリー」の標語は週刊誌シャルリーへの支持という意志表示から
転じて、次第に「自己表現の自由」を意味するものとなった。一方、表現の自由
にも一定の限度があるべきで、シャルリー・エブト紙のイスラムに対する侮蔑的
風刺画は行き過ぎだとする識者も多い。
彼らは”je ne suis pas Charlie”(私はシャルリーでない)を表明しており、
表現の自由の在り方を巡る意見が対立した。世論調査によればパリ市民の意見は
真っ二つに分かれている。
ローマ法王は、「神の名をかたって行われる非情な暴力は断じて正当化できない」
としてテロを厳しく非難する一方で、「他者の信仰を侮辱したり、もてあそんだ
りしてはならない」との声明を出した。
フランス国民の信条である「表現の自由」はいかなる場合でも権利として容認
されるべきなのか、ローマ法王のいう「表現の自由は無制限の権利ではない」と
考えるべきか、フランス革命を経験して表現の自由を勝ち取ったフランス国民は
今その狭間で揺れている。
この事件で提起された問題について改めて考えてみると、軽々に一方に組する
見識を私は持たないが、表現の自由は無制限の権利ではないと考える後者のほう
に共感したい気持ちが強い。賢明な読者諸兄は如何であろうか。
翻って日本で議論を巻き起こした「特定秘密保護法」と「国民の知る権利」、「報道の
自由」を改めて思うと、フランスの風刺画騒動と類似した争点がある事に気が付く。
昨今の防衛・外交・武装テロやサイバーテロ防止等の観点から機密保護の法整備を
急ぐ政府と、国民の知る権利を守る視点からこれに異論を唱える勢力が対立した。
しかし 「特定秘密保護法」は憲法21条で保証された国民の知る権利を侵害するという
重大な危険を内包したまま成立した。つまるところ憲法が保証する「国民の知る権利」
「表現の自由」は無制限の権利なのか制限されるべきかという点について、政府とマス
コミ・知識人は意見を異にしたのである。
少なくとも政府は次の点で国民の不安を払拭させる丁寧な説明を繰り返すべだった。
1、国民に秘匿すべき国家機密の保護の法整備を急ぐ理由と背景。
2、憲法に保証された表現の自由、知る権利に関する政府見解。
ローマ法王の言う「表現の自由は無制限の権利ではない」と同様、国の特定機密
も「知る権利は無制限の権利ではない」と考えるのが妥当ではあろう。国家機密は国
家の管理の下で一定の条件下で秘密にされるべきではあろうが、国民の知る権利を極
端に侵害することのないよう、「一定の条件」については慎重にも慎重を期すべきであろう。
知る権利とは言い換えれば「報道の自由」という事になる。報道の自由は国家権力で
一方的に制限されるべきではなく、国民の納得の上で報道制限はなされるべきだろう。
フランスのテロ事件から得た教訓を活かし、多くの意見が生まれることを期待したい。
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