ミミズの戯言57、過ちて改めざる、之を過ちと謂う。 14,09,09 「従軍慰安婦問題」についての朝日新聞社の報道に批判・反批判が飛び交い、ついには 池上彰氏の朝日新聞への寄稿を巡るトラブルに発展し、結局池上氏の寄稿は掲載された ものの、これがまたマスコミ各社の格好の餌食になり熱い報道合戦が起きた。騒動の顛末 はおよそ次の通りだ。 朝日新聞が8月5日と6日の朝刊で、自社の過去の慰安婦報道を検証し、32年前に報道し た「済州島で慰安婦を強制連行した。」 とする吉田証言が「虚偽」であると判断し、当時の 記事を取消し訂正した。 池上彰氏は毎週「新聞ななめ読み」というコラムを朝日新聞に寄稿して人気が高いが、 朝日は「慰安婦問題を考える」と題した池上氏の「新聞ななめ読み」コラムを不穏当な朝日 批判として不掲載にした。これを不服とする池上氏は今後朝日へのコラム掲載をやめると 通告したが、両者の話し合いの結果、結局当コラムは9月4日に掲載された。 コラムの概要は、「過ちがあれば訂正するのは当然。でも遅きに失したのではないか。 この証言に疑問が出たのは22年前の事。その時点で裏付け取材をして証言が信用でき ないと書くべきで、今回の特集ではその点の検証がなく検証記事としては不十分だ。 今回の検証では自社の報道の過ちを認め、読者に報告しているのに、謝罪の言葉がない。 勇気をふるって訂正したのにお詫びがなければ試みは台無しだ。新聞記者は、事実の前 で謙虚になるべきで、過ちは潔く認め謝罪する。これは国と国の関係であっても、新聞記 者のモラルとしても、同じことではないだろうか。」 と書いている。 至極ごもっとも。このコラムのどこが間違いなのだろうか。何故不掲載としたのだろうか。 自社の報道姿勢が批判され正されたのが気に入らなかったからだとすれば、朝日新聞社 の報道の基本姿勢が間違っていると云わざるを得ない。 朝日の弁明は 「今回のコラムは当初掲載を見合わせたが、社内検討の結果掲載する ことが適切と判断した。池上さんと読者の皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫びします。」 だけだった。 これに対し池上氏は 「過ちては改めるに憚ることなかれ」 という言葉を思い出している。 このコラムで私が主張した「過ちを認め、謝罪する」 が、今回に関しては実行されたと考 え、掲載を認めることにした。 であった。 これですべてが不問に処せられ万事めでたしめでたしならば、読者として甚だ消化不良 にならざるを得ない。何故なら、朝日は池上氏のコラムを不掲載にしたことだけを謝罪した のか、32年前の報道ミスも合わせて謝罪したのかが不明確だし、池上氏もその点を曖昧 にしていて、何のお詫びなのかを明らかにしていない。両者の玉虫色の妥結の産物と見え るから不満であり腑に落ちないのである。 慰安婦の強制連行の有無については意見を差し控える。本ミミズの戯言の主旨は朝日 の報道姿勢についての疑問である。一言でいえば「朝日も遂に地に堕ちたり。」というのが 率直な感想。訂正すれども謝罪せずの驕慢な報道姿勢は、戦中戦後を通じて朝日に一貫 して流れる忌まわしき虚勢の残滓であり、誤った誇り高きプライドだ。 かって私の敬愛した元論説主幹で政治部長だった故今津さんほか朝日の旧幹部達には 時に辛口の朝日批判を呈したものだが、御存命ならば今回の失態に苦言を呈したかった。 聡明な故人は間違いなく草葉の陰で頷いているに違いない。朝日の弱点は、東大出の エリート記者集団で主力を固めているためか、誇りと自己顕示欲が強い記者が多く、この 衣を纏っているがために、しばしば暴走したり不遜な記事を書くことがある。 これが最近特に顕著になっている。私はかって朝日新聞から蒙った苦い思い出がある。 一方では、週刊新潮と週刊文春の悪意に満ちた朝日攻撃の掲載広告も見るに堪えない。 筆法鋭い攻撃にも節度があるべきで、罵倒に終始する論評はあまりにも品位に欠ける。 あたかも北朝鮮や中国政府の報道のような反朝日一色の罵詈雑言のキャプションで埋め 尽くされていては朝日が掲載広告を拒絶するのも一面頷ける。 世界的に非難を浴びている人種差別のヘイトスピーチが日本でも起きているが、これに 等しい下品極まりないヘイトスピーチといえる。朝日の虚勢に叱正を送ると同時に、文春や 新潮の報道にも厳しい「喝」をいれたい。 それにしても32年前の朝日の誤報道の余波はあまりにも大きかった。これが河野談話に も国連人権委員会の所見にも影響したとも思われるし、韓国国民の反日感情の火に油を 注ぐ起爆剤になったとも思われる。 「吉田証言は誤報でした。取り消します。」では済まされないあまりにも大きなミスだった。 中国の故事に「過ちて改めざる、之を過ちと謂う。」というのがある。論語・学而にあるもの で、「己に如かざる者を友とするなかれ、過ちては則ち改むるに憚るなかれ」と続く。 池上氏は今回の騒動の感想を 「過ちては改めるに憚ることなかれ」 と述べているが、 その冒頭が 「過ちて改めざる、之を過ちと謂う。」である。 即ち「過ちを改めないのが過ち なのだから、過失をおそれるより、過ったらそれを是正しない態度の方が問題です。」という 意味なのだが、池上氏はきっとこれも言いたかったに違いない。 いずれにせよ今回の朝日×池上論争は、両者の曖昧な妥協に不満が残るものの、池上 氏に軍配が上がるし、朝日は遅ればせながら、謝罪広告ないしは社長又は編集トップの 謝罪会見でけじめをつけるべきだろう。それが良識ある新聞社の見識というものだろう。 虚栄が虚偽を生み、虚偽が隠蔽を生み、隠蔽が犯罪を生む、そんなプロセスを踏むべき ではない。 過ちはどんな時に起きるのだろう。 身近な我々庶民の人生に照らしてみると、一般的な心情からいえば、人生行路のなかでは、 失敗しないということがまずあって、次には失敗したら人に知られないように隠して処理しよ うと思うものだ。 また、自分の欠点に気付いても、これを正すことは難しいようだ。小さな メンツにこだわったり、体面上の理由で頑固に自説を曲げない人もしばしば見受けられる。 このような態度は、結局は自分の度量を狭め、人間関係がスムーズにいかない原因とも なるのではなかろうか。この点中国の哲人は「過ちについての哲学」をいろいろの角度から 考えていた。 失敗しても隠せるものなら、人に知られないで過ごしてしまいたいという心理がおきるのは 判らないでもない。私が間違っていましたと詫びるのはなかなか難しいものだが、過ちを正 すに「遅きに失した。」ということは決してない。勇気を出して素直になるべきだろう。 心に留めたい朝日新聞社の出来事だった。 注;近日中にプロバイダーのOCNの都合により、OCNからYAHOOに変更になります。 |