ミミズの戯言51、「断・捨・離。」 13,12,31 昔は年末ともなると仕事上や友人関係で忘年会が続き、毎夜夜の巷をさまよっていたもの だが、さすがに最近は落ち着いた年末になっている。今年は会社釣り同好会の忘年会、町 の釣友会の忘年会、友人夫妻との忘年会だけになり、それが終わったのであとは帰宅した 息子と娘を迎えて我が家の年越し忘年会、来春早々の文化財研究会の新年会だけになった。 今年は数えで喜寿だったので今ひとつピンとこなかったが、来年はいよいよ正真正銘の喜 寿になるので、心新たにそろそろ身辺を整理して、さらに昔の人のように歳相応の威厳と振 る舞いを見せたいものだが、急に思い立っても今更そんなことができる訳がない。 論語の一節には、「七十にして心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず。」という のがある。70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外す事が無くなった。と いう意味だが、70をとうに過ぎても孔子のような自在な境地には到底及びもつかない煩悩 の塊である。 最近 「断・捨・離。」という言葉が流行しているが、いざ実行となるとなかなか難しいものだ。 「断」は入るを断つこと、「捨」は家にある要らないものを捨てる。「離」は物への執着から離 れることで、出典はヨガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」 にあり、人生や日常生活に不要なものを断ち、モノへの執着から解放されて身軽で快適な 人生を手に入れようとする処世術の事のようだ。 自分の身辺を見ると、手持ちの古い書籍や写真、背広やネクタイの類の不要なものが沢 山あるが、いざとなると未練が残ってしまい捨てる勇気がわかない。儀礼的な付き合いには 極力出席せず、年賀状も随分整理してかなり絞ってはいるがなかなか全廃する勇気がない。 つまりはモノやヒトへの未練が多分に残っている証拠である。 モノやヒトへの執着から解放されたら素晴らしいと思うのだが凡人にはなかなかその境地 には達しない。 徒然草第75段にいわく、〈 ただ一人有るのみこそ良けれ。縁を離れ、事に与(あずか)ら ず>と。だが、そんな兼好も友を求めた。同じ心の人としみじみ話ができればいいのに、と 書いている。兼好にして然り、まして凡人においておやである。 ある調査機関の調査だが、人は普段どれ位の頻度で人と話をするかを調べたところ、電 話を含め、毎日する人がもちろん圧倒的だが一方で、2週間に1回以下しか話をしない人が 全体の2%いて、65歳以上の男性に限ると17%もの人がほとんど人と接していないそうだ。 一般論として男性は人間関係を職場に頼りがちなので、退職後に新たな関係をなかなか 作りにくい。そこが地域に密着しつつ生涯を送る人が多い女性との違いではないか、と耳の 痛い指摘をしていた。 小生とて同じ。妻が外出した日などは一日中口を開いた事のない日がままある。そんな日 は炬燵で昼寝かテレビ、パソコンか読書が唯一の友である。無聊にも慣れてきた。 私とて退職後に趣味を通じて出来た新しい友人は沢山いる。その人たちとの付き合いの 極意は、「決して自分の過去の肩書や仕事の自慢をしないこと。」に尽きる。鼻持ちならない 自慢話を聞かされると、すぐに友達でなくなるのが老後の付き合いの掟(おきて)と云える。 つまりは少々だが、過去の自分の世界からの「断・捨・離」をしているつもりなのである。 「春風駘蕩」 「七十にして心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず。」 改まって明日から新年を迎えるにあたっての現在の心境はこんな所だろうか。 |