ミミズの戯言41、小千谷・慈眼寺 13,02,15

   岩村誠一郎高俊という人物がいる。慶応4年(1868年)の北越戦争で官軍(薩長軍)の
  軍監を務めた土佐藩宿毛出身の人物である。
   北越戦争とは、会津藩擁護を掲げ奥羽列藩同盟に加わった越後長岡藩と官軍(薩長
  軍)の戦いだが、長岡藩はこの戦いに敗れ、さらに会津藩はじめ奥羽列藩もことごとく
  降伏して戊辰戦争は終結する。このくだりは司馬遼太郎の「峠」や大仏次郎の「天皇の
  世紀」、星亮一(私の高校の2年先輩)の「奥羽越列藩同盟」に詳しく載っている。

   1967年から6年間、朝日新聞朝刊に連載された「天皇の世紀」では、長岡藩家老の河
  井継之助が左股を鉄砲で撃たれ重傷を負う場面を最後に大仏次郎の病気休載により
  絶筆となっている。 大仏と司馬の両作者に共通しているのは河井継之助という人物を
  高く評価していることである。

   河井継之助は、米百俵で有名な小林虎三郎の親類で、戊辰戦争勃発時から薩長の
  非を断じて長岡藩の藩論を幕府擁護に統一した藩切っての論客であり、当時ありがち
  な世襲の凡庸な家老ではなかった。また最新式の銃の調達や軍組織の近代化など先
  見の明のある軍師でもあり、長岡藩の中立を企図していた智謀家でもあったようだ。

   官軍が長岡に攻め寄せたとき、河井は官軍の奥羽への進軍停止を求め、旧幕府軍
  と新政府軍の調停役を果たすべく新政府軍との談判に及んでいる。これが有名な小千
  谷の慈眼寺の談判(慶応4年5月)で、この談判破裂によって河井は奥羽列藩同盟への
  参加と官軍との開戦やむなしとの決心に傾斜していく。

   この時河井は41歳、談判に臨んだ官軍の軍監が岩村誠一郎で当時弱冠23歳。まだ
  河井の人物を観察する眼もなく進言を理解する胆力もない岩村は河井の嘆願を「時間
  稼ぎ」と一蹴してわずか30分で談判は破裂したという。この談判に、もし河井が会見を
  望んだ山縣有朋か黒田清隆が列席していたら北越戦争そのものを回避できたであろう
  と後の多くの歴史家は述べ、「戦争の責任は岩村誠一郎」と一様に断じている。

   散々酷評されている岩村誠一郎高俊だが、後に京都府知事やその他数県の知事を
  歴任していて、愛媛県知事時代の功績・人物を高く評価している識者もいる。晩年、慈
  眼寺の談判に触れた高俊翁は、「若さゆえの判断の誤り」と自らの未熟さを率直に語
  っている。

   この岩村誠一郎高俊の係累を述べれば、3人兄弟の末っ子だが長兄・次兄ともひと
  かどの人物で、長兄は通俊(みちとし)氏といい西南戦争時に大久保利通に懇望され
  て鹿児島県令を務めた。

   西郷が非業の死を遂げた時、死体にいかなる侮辱を加えられないとも限らない情勢
  にあったが、県令通俊氏は参軍山縣有朋、川村純義の了解を得て、南州の屍を長持
  ちに納め、他の39人の将兵の屍は菰包みにして県令自ら筆を執って墓標に刻み、浄
  光明寺に手厚く葬むったので県民が挙って感謝したという。
  南洲神社境内には「岩村県令記念碑」が今も残っている。のちに農商務大臣・男爵に
  叙せられている。

   次兄有造(ゆうぞう)氏は林家に養子に入るが、林有造といえば知る人ぞ知る板垣
  退助の側近として2度の大臣を務めた人物で、有造の長男の林譲治は戦後衆議院議
  長、吉田内閣の副首相を務めている。そして3男が誠一郎高俊ということになる。

   長兄通俊氏の長男が元法務大臣の岩村通世(みちよ)氏。つまり慈眼寺談判の当
  事者である岩村誠一郎高俊の甥にあたる人物だが、この通俊氏は不肖私の家内の
  伯父で逗子に住む90歳のK翁のご尊父信憲氏と65年に及ぶ刎頚の友だったそうであ
  る。

   互いに土佐に生まれ共に東京帝大で学び、法曹と医学と道は異なったが終生変わ
  らぬ交友が続いたそうである。エリート出世コースを進んだ通世氏が法務大臣に就任
  した日、大勢の新聞記者が信憲氏の病院院長室に押しかけ、「新法相が自分の事な
  ら何でも「加用」に訊けと云うのでやってきた。」と云ったそうだから、まさに肝胆相照
  らす仲だったのだろう。

   信憲翁の遺稿集「洗心余滴」には、同じ土佐出身の岩村家との交友が事細かく述べ
  られていて実に興味深い。

   岩村家の3兄弟のご子息は皆多方面にわたって活躍され名を成しているが、皆さん
  敬神崇祖、親切で慈悲心に富んでいたという。若き日の官軍軍監岩村誠一郎高俊も、
  後年、県知事時代は血気盛んな面影が消えて温厚篤実な晩年だったそうである。

   一昨年高校の先輩の作家星亮一氏の「奥羽越列藩同盟」を読んで、僅か140年前
  の痛ましい戊辰戦争の実相に触れ衝撃を受けた。かって読んだ司馬遼太郎の「峠」、
  今年読み終えたK翁の遺稿集「洗心余滴」、最近読み始めた大仏次郎の「天皇の世
  紀」、すべてに登場するのが北越戦争と「小千谷・慈眼寺の談判」だった。

   小千谷の慈眼寺(じげんじと呼ぶ)を訪問して会見の場を見聞したいと思っていたと
  ころ、たまたま新潟に住む学生時代の友人から「冬の新潟はいいぞ。酒も米も温泉も
  素晴らしいから遊びに来い。」と誘われ、遂に3月初旬に友人夫妻3家族6名で新潟の
  秘湯「松之山温泉」に集まり旧交を温めることになった。

   運がいいというべきか、たまたまこの地は小千谷に近いので機を逸せずに慈眼寺を
  訪問することにし、河井×岩村談判の会見場も見聞することにした。住職の話も聞け
  るので後日談をまとめ、写真を添えて岩村誠一郎ゆかりの逗子の親戚90翁に報告に
  行く予定である。

   「 良い酒、良い肴、良い飯、良い湯、良い景色、良い友。そしてよき語らい。」