ミミズの戯言34ー会社の名前が消える日  12,06,30
                        (回想記)
  

    2012年(平成24年)6月30日は忘れられない記念すべき日になった。
  青年から中年〜熟年まで、熱い修羅場を縦横に駆け巡って情熱を注いだ勤務会社の「関東
  自動車工業株式会社」の名前が消えた。仙台市周辺に立地するトヨタ自動車東北とセントラ
  ル自動車と3社合併し、新たに会社名を「トヨタ自動車東日本株式会社」として7月1日から生
  まれ変わった。名前が消えた日でもあり、明日から新しい名前に生まれ変わる希望の記念
  日でもある。

   戦後の荒廃した軍港都市横須賀の再生をめざして、旧中島飛行機の優秀な飛行機技術
  者と横須賀市の有力者達が尽力し、昭和21年に「関東電気自動車株式会社」が設立され、
  爾来今日まで65年の歴史を刻んだ。その間トヨタの有力な車体メーカーとして発展を遂げ
  てきた。

   その間、自動車の商品企画・デザイン・設計・試作・実験から自動車のプレス・塗装・組立
  など一貫した生産体制を築き、型治具・設備等の生産技術やモノ造りのノウハウは本家の
  トヨタも舌を巻く高度なレベルまで達していった。日本の最高級車センチュリーを初め、クラ
  ウン、マークU、カローラ等の常に時代の先端を行く自動車を造り続け、生産累計では
  1500万台もの車を世に送り出してきた。

   完成車になればトヨタブランドとして即日トヨタに引き渡すので、社名の宣伝の必要もなく
  世間からはあまり認知されない地味な会社だったが、昭和36年に東証2部、昭和38年に
  東証1部に上場し、最盛期の年間売上高5000億、従業員6000名、年間生産台数50万
  台を誇る無借金の優良企業に成長した。

   40年間の在職期間での思い出は無数にあるがとりわけ岩手に工場進出したことが忘れ
  られないので思い出話を記す。バブル最盛期に自動車不毛の地東北に目をつけ、岩手県
  に新鋭工場を建設して、初めて東北の地に自動車産業を萌芽させ、東北のデトロイトの先
  鞭をつけることになる構想の萌芽は1989年(平成元年)の事だった。

   中部地区という一極生産基地集中の課題が見え始め、遠からず限界に達すると判断して、
  自動車には未知の土地・東北に白羽の矢を立てたのは先見の明があったと今にして思え
  ば感慨が深い。東北のデトロイトを目指した100年の大計、壮大な夢は今では万人の共感
  を得つつある。

   中部地区からは1000`の遠隔地だが、地球規模で見れば欧州の主要自動車工場とは
  緯度では大差ない。この世界的視野で事を判断するヒントをトヨタの若き戦略家たちが教
  えてくれ力強く支持してくれた。平成元年、トヨタの生産企画部門と機密レベルの合意を得
  て、候補地を探し、平成2年(1990年)電撃的に岩手県に工場進出を決めて土地を取得。
  平成3年(1991)工場建設着工、平成5年(1993)に初号車の生産開始という素早さだった。

   まるでドラマのようなこの一連の重要な意思決定と行動の全過程で、末席を汚し続けた
  事は私にとっては全くの幸運であった。震えるような緊張した毎日が続いた。

   自動車はすそ野の広いピラミッド型の産業である。わが社の東北進出は部品生産を担う
  協力会社の必然的な整理・統合・進出を促すことになる。廃業に至った会社もある。痛み
  を伴った一蓮托生の大移動という嵐を経て、中部・九州に次ぐ第3の生産拠点として東北
  の自動車産業は呱々の声を上げた。

   我が社の進出の後を追うように1997年にはトヨタが仙台近郊に「トヨタ東北」を設立、2011
  年にはセントラル自動車が同じく仙台近郊に新工場を建設した。主力部品メーカーも相次
  いで進出した。関連企業や家族を含めれば既に1万人以上の住民増加をもたらし、雇用、
  税収、住宅建設、生活用品などの民需等、東北経済には計り知れない経済効果をもたら
  した。話題の少ない現地経済界にはさぞ画期的な出来事だったであろう。

   しかし事は淡々と進んだわけではない。いばらのような苦難の日々が続いた。
  この時期はバブルがはじけ次々と工場閉鎖が始まった逆境の時期だった。平成3年の工
  場建設着工直後には、工場建設中止の打診が親会社から示され、「進むか、退くか」の
  判断に迫られたこともあった。また需要激減のあおりで直前まで生産車種が決まらず、
  遂には「かの遠隔地は地政学的に嫌いだ。」と責任あるトヨタ幹部に嘆かれ、また駆動部
  品を作る譜代有力部品メーカーからは、「東北には送らない。勝手に運べばいい。」等と
  面前で宣言され、東北進出を非難されたこともあった。
   工場建設の青写真は当初の構想から大幅に縮小した。スリムな姿に変えてようやく日の
  目を見ることになった。「出はじめたションベンは止まらない!」と工場建設継続の意思を
  親会社に返答したのも勇気と度胸がいった。

   岩手を選択肢の一つにし最終決定するにあたり、事前調査(フィジビリティ・スタディ)に
  岩手を数回訪れた。物流ルートを探るため三陸海岸への未舗装の道路も走った。高校
  時代を過ごした岩手県南の地なので親しみが多かった。土地の取得が一斉に新聞に報
  道されると、高校時代の先輩や友人からひっきりなしに電話が入った。銀行関係者が多く、
  ほとんどは融資がらみの勧誘が多かった。ご無沙汰してきた古い友人との付き合いが
  復活した。
   その時期には私は生産企画・管理部門から転じて,無借金会社が初めて500億円の資
  金調達を担う経理部門を率いていた。資金調達の要諦を古い学友たちから随分と学ん
  だが、当然のことだが公私は厳然と峻別した。資金調達が一段落して、私は再び生産
  管理部門を担当することになり、岩手工場の生産量拡大の為の追加生産車種の交渉
  などに奔走する日々を送ることになる。

   中国には「井戸を掘った人を大切にせよ。」という意味の格言があるらしい。後に頭取
  になる岩手県の某大手銀行の役員で、高校の2年先輩にあたるNさんはいつもこの言葉
  を口にして私に接してくれた。岩手進出決定に私が決定的役割を果たしたわけではなく、
  他の候補地よりも抜きん出て条件が有利だった事と、A会長の英断による為だが、岩手
  の友人たちは我が事のように喜んでくれた。

   昨年襲った大震災の復興に役立つ車造りをしたい、と豊田社長はじめ関係者は口をそ
  ろえて宣言した。会社名が変わったことは、過去への感傷に浸ることなく未来に向かって
  力強く進もうという意思表示でもあろう。工場も会社を支える人材も変わらなく存在し続け
  る。これからはエンジン生産も含む正に総合メーカーに発展する。新しい歴史をこれから
  刻む若い人達に心からのエールを送りたい。

   会社名が消えるにあたり、感傷的にならず、激情的にならず、淡々と記載する事に心掛
  けるつもりだったが、平易な語り口で、肩に力を入れずに書くことは意外に難しい。やはり
  思い入れがあるからなのだろう。掲載が遅れた言い訳である。

   なお、最近は人名でも企業名でも固有名詞を書かず、知る人ぞ知る略称を使っているが、
  今回は読者が判るように、会社名だけは固有名詞をはっきりと書くことにした。