ミミズの戯言25、ー蜘蛛の糸
 ー その2 
11,03、21

   今回の災害の規模、被災者の実態、救助と援助の苦労、原発の復帰への努力などは連日の
  報道で周知の通りである。刻々と変化し予断を許さない緊張が連日報道されている。どのような
  進展を遂げるのか誰も予想できないが、日本人の努力と叡智を信じよう。必ず好転すると信じよ
  う。

   災害時に生死を分けるのは一瞬の判断と行動である。生き延びるのもつまりは「自助」である。
  災害時に必要なのは「自助」「共助」「公助」といわれる。私は「自分の城は自分で守れ」と教えら
  れて長く実践してきた。つまりは「自助」である。一方他人を助ける相互扶助、つまり「共助」も学
  んできた。自助に偏すると共助が疎かになり、とかく批判の目が向けられる。つまりは双方のバ
  ランスが大事ということになる。

   では生命の危険を冒して職務や人命のために尽くした人はバランスを欠いた人なのだろうか。
  人間はいつでも「自助」と「共助」の狭間で悩みながら事を処す。そして自分を省みずに「共助」に
  尽くした人を褒め称え、「自助」に走った己を恥じてため息をつく。そのどちらも人間で責められる
  ものではない。放射能汚染の危険にさらされながら復旧に活躍するフクシマ50や他の東電職員、
  自衛官、消防署員、津波来襲時に市民を誘導して殉職した警察官や職員達、は見事に「共助」
  に尽くしきった人達である。

   被災者の生存への闘いや暖かい援助の美談の裏に、横行する風評被害がある。スーパーか
  ら食料・生活用品がいっせいに姿を消した。ガソリンも売り切れが続出した。いわゆる買占め・
  買いだめである。オイルショックのトイレットペーパー買占めと同じ現象が起きて先を争って買い
  物籠を一杯にしてレジに並んでいる。ある知人一家は放射能汚染を心配して早々と関西の親戚
  宅に避難していった。
  彼らのような目先の聞く逞しい生活者は多分長生きするのだろう。他人はどうでもいいから自分
  だけはと言う「自助」偏重者の群れである。冷静な秩序ある行動、お互いに分かち合う謙譲さで
  世界の賞賛を浴びる一方で、一部の日本人の心無い集団心理の行動パターンがここにある。

   芥川龍之介の短編に「蜘蛛の糸」がある。大正7年の作品だから90年以上も昔の芥川の問題
  提起である。

   「釈迦はあるとき、極楽の蓮池を通してはるか下の地獄を覗き見た。幾多の罪人どもが苦しみ
  もがいていたが、その中にカンダタ(?陀多)という男の姿を見つけた。カンダタは生前に様々な
  悪事を働いた泥棒であったが、一度だけ善行を成したことがあった。小さな蜘蛛を踏み殺そうと
  したが思いとどまり、命を助けてやったのだ。それを思い出した釈迦は、地獄の底のカンダタを
  極楽へ導こうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

   極楽から下がる蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸をつたって登れば、地獄から脱出できるだ
  ろう。あわよくば極楽に行けるかもしれない」と考える。そこで蜘蛛の糸につかまって、地獄から
  何万里も離れた極楽目指して上へ上へと昇り始めた。ところが糸をつたって昇る途中、ふと下を
  見下ろすと、数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは糸は重さに耐え
  切れず、切れてしまうだろう。それを恐れたカンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前達は
  一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚いた。すると次の瞬間、蜘蛛の糸がカンダタの
  ぶら下がっている所から切れ、カンダタは再び地獄に堕ちてしまった。

   その一部始終を見ていた釈迦は、カンダタの自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心と、
  相応の罰として地獄に逆落としになってしまった姿が浅ましく思われたのか、悲しそうな顔をして
  蓮池から立ち去った。」   以上が物語の概略である。

   この短編は自助と共助の狭間で悩む人間の判断を問う芥川の問題提起である。糸が切れて
  全員が地獄に堕ちることを覚悟して皆で昇ることが果たして善行か?と問うているのである。
  正しい答えの無い空しさを感じる設問だが、争ってスーパーに走る人々を見ると、この短編が
  思い出されてならない。
   凡庸な私には、この度の大地震と原発災害で命の危険を顧みず職責を全うしている人々に深
  く敬意を表しつつも、せめてスーパーに走る「カンダタ」にだけはなりたくないという思いに駆られ
  る。

   被災者へのこれからの援助は、「自助」「共助」に加えて「公助」の段階に入る。国と地域の行
  政の責任は重い。仮説住宅建設や肉体的精神的なケアなど精力的な行政の活動が始まってい
  る。
   敗戦を乗り越え、阪神・淡路大震災を乗り越えた日本の力強い復興の足取りが始まる。買占
  めや逃避などをしないで、自分に出来る些細な援助を積み上げていく のが、せめて離れて見守
  るだけの我々の善意と良識ある行動というものだろう。

   善意の志を積み上げて支援することは募金だけではない。無駄なガソリンを使わないことも
  支援になるし、買占めを控えて不足する現地に生活物資を優先供給するのも援助活動になる。
  節電に努めることも援助活動になる。一人一人、小さなことを積み上げて日本人の総力を挙げ
  てこの難局を切り抜けることに協力したい。
   この非常時に政局ばかりを睨む政治家のパフォーマンスや、「天罰だ」などと放言する知事の
  ことを批判するのはしばらく差し控えよう。”これから頑張って生きていく、”という被災者の力強
  い復興への意気込みを語る東北人特有の訥弁を聞くと、この国は大丈夫だ、との思いを深くす
  る。なんと言う違いなのだろうか。涙が出る。


   これからの日本の大問題は福島の原発炉廃炉後のエネルギー政策だろう。世界一を誇った
  日本の原発安全神話はもろくも崩れ去った。原発アレルギーに陥った福島県民はもう2度と福
  島での原発再開を望まないだろう。

   日本は電力の3分の1を原発に頼っている。しかしおそらくどこの県も原発受け入れには抵抗
  するだろう。原発以外の電力源の開発には時間がかかる現状では、需要=供給の構図はなか
  なか描けない。どこかに原発を建設せざるを得ない。
  それともドイツなどに倣って脱原発に踏み切るか、現在の3分の2の電力量で日本の経済を成り
  立たせるか、政策を一転させて沢山のダム建設に踏み切るか、いずれも困難な意思決定だ。
  日本のエネルギー政策の大転換が迫っているのかもしれない