ミミズの戯言21、−囲碁遍歴その9−      10,09、20

    半世紀を越える60年の「囲碁遍歴」もこれで最終回。

    昭和37年、私は社会人になった。昭和39年の東京オリンピックの前々年である。世の中はオリン
   ピックを控えて建設ラッシュで日本中が活気を呈していた。2年前のあの安保騒動の大衆エネルギー
   は巧みにオリンピックのそれにすり替えられたかのようだった。新装の社員寮の娯楽室は賑やかだっ
   た。先輩、同僚が歓談したり、囲碁・将棋や麻雀をしたりで、昼間の仕事の緊張から開放された若さで
   漲っていた。たちまちその渦に溶け込み、囲碁ではまもなく寮内で敵なしになった。麻雀も将棋もよく
   やった。
    仕事の質量が次第に充実し社会人としての基盤は徐々に広がりと確実さを増し、それなりの地位を
   占めるようになっていった。どこで発覚したのか私が程ほどの囲碁の打ち手だと知れて、社内の囲碁
   部の強豪と顔見知りになり、彼等と対局する機会もできた。大学同様、囲碁部には在籍しなかったが、
   欠員があると囲碁部から依頼され、会社の代表の一員として関係団体の囲碁大会やTグループの対
   抗戦にも参加した。

    Tトヨペットとの毎年の対抗戦には、友人の父がこの会社の常務で囲碁部長だったこともあり、私は
   よく当社側のメンバーに駆り出された。友人の父君Nさんは「ゴボウ部長」のあだ名がある名物常務
   で、公私共に大変お世話になった。「ゴボウ」とは、痩身の体躯がゴボウだったことに加え、東大在学
   中に囲碁部「ゴ」と、ボート部「ボー」に所属した名物部長なので「ゴボウ」とあだ名がついたらしい。
   かなりの高段者でいつも主将として最後に登場されていた。

    因みにご子息のジュニアNさんは父君に似て筋のいい碁を打ち、69歳で1昨年亡くなるまで終生
   私の好敵手だった。彼は子供の頃から父君と一緒によく日本棋院を訪れ、小川誠子女流六段がま
   だ中学生で院生の時の正月に、和服の晴れ姿でオサゲ髪の可愛い彼女と対局したというのが自慢
   だった。
    私は4段として次第に社内外から認められる地位を確立したようで、親会社のT社や関係会社の
   仲間から仕事の合間に時々囲碁の接待を受けたり、お返しをする機会も増えていった。

    T社と関係会社の仲間4人で、「だるまの会」という親睦グループを作って、毎年ゴルフをやってい
   た。4人ともに経理部を統括していて、オイルショックや円高などで台所が苦しい時に、「転んでもタダ
   では起きぬ。」と苦労をした仲間なのでこの名前をつけた。このうち3人は一応の囲碁の打ち手で腕
   自慢である。畢竟、腕試しとなる。かくして20数年前からゴルフだけでなく囲碁もこれに加わった。

   ゴルフでは3人の軍門に下るが囲碁では一日の長を誇った。残念なことにゴルフでは現ナマが飛ぶ
   が、囲碁では1文の賞金もない。解散したわけではないが、退任後はなかなかみんなで集まれない
   のが寂しい。

    だるま会の仲間のKさんは梅沢由香里棋士の後援会長らしいことをやっているので、私もご一緒
   することがある。平塚市で毎年行われる1000面打ちの囲碁大会には日本棋院の棋士60名がお
   相手をしてくれるが、梅沢前女流棋聖も必ず参加してくれるのでお顔を拝見するのが楽しみになっ
   ている。

    又、会社の先輩、友人の囲碁好き5人で、20年ほど前から毎月1回の囲碁会を開いて愉しんだ。
   5人は実力が伯仲していて、A5段を筆頭にK4段、私、N4段、H3段というのが実力順の相場だった。
   正月にはH3段宅を訪問して奥様手作りの正月料理と屠蘇を頂き、新年の初打ちをするのが恒例
   だったが、昨年突然78歳で急逝された。この仲間の一人のN4段も前述の通り1昨年亡くなったの
   で、この会は自然消滅のようになっている。

    会社生活から開放されてからは囲碁の相手もめっきり減り、時々親戚の長老Kさん宅を訪問して
   家宝の名盤でご指導を頂く程度で、もっぱらテレビ、新聞、パソコン、が囲碁の全てになってきた。
   横浜での料理教室の帰途、西口のU棋院に立ち寄って覗き込み、興が乗れば時々1局打つ程度
   である。
   
   
    大げさに「囲碁遍歴」と称して60年にわたる囲碁人生を回顧し始めた時には、2〜3回で終わる
   ものと思っていたが思いがけず9回まで続いてしまった。冗長に過ぎた感が強い。極力、囲碁だけ
   に絞ったつもりだったが、しばしば脱線して囲碁とは無関係な人生遍歴に迷い込んでしまった。
   人生遍歴にはあえて触れない方針だったので、これも筆力の貧しさゆえだろう。登場人物にはあ
   えて実名を伏せたこともご容赦願いたい。

    振り返ってみれば、やはり紆余曲折の囲碁遍歴だったと思う。挫折、精進、上達、様々な局面が
   あったが、囲碁遍歴とは結局のところ人との交わりの歴史だと思う。
   少年の頃の「ガラス屋のオンツアン」をはじめ碁会所の小狸さん、高校の恩師で英語教師のカッパ
   さん、数学教師のガンマさん、大学寮のB先輩、会社のH先輩、同僚のNさん、義父など沢山の知
   友との懐かしく楽しかった対局が私の囲碁人生に彩を添えてくれた。

    囲碁は別名「手談」という。ものいわぬ会話である。「ああ、そうですか、あなたがそう考えるなら
   私はこう考えます。」と無言で相手に語りかけ、相手の答えを聞くことの連続だといえる。これが魅
   力で60年も囲碁を続けてきた。そして囲碁で学んだ最大の教訓は「一歩先を読み、一歩下がって
   人生を歩む。」に尽きる。
    小学生で覚えたのだから、もっと上達してもよさそうなものだが、4段止まりに終わったのは、才
   能がなかったことに加え、伸び盛りの中高あるいは大学の時に精進を怠ったせいだろう。しかし囲
   碁は私の一生のかけがいのない友となった。

    もっと面白いことがあったような、大事な棋友を忘れたような、少し不安な気持ちもあるが、一応
   思い出した全てを赤裸々に吐き出したつもりである。古希を過ぎたこの年になっては、これ以上の
   上達は望むべくもないが、せめて老後は孫とでも囲碁を楽しめれば望外の喜びであろう。しかしこ
   ればかりはどうなるか判らない。入社同期生22名が結婚祝いとして贈呈してくれた「碁盤・碁石」
   が我が家の部屋に飾ってある。この碁盤がせめて無残に廃棄されることなく誰かのお役に立てれ
   ばいいと思うこの頃である。

    「治乱興亡 之 一局の棊」という。有為転変、波乱万丈の世の中の出来事も、みな一局の囲碁
   の盛衰にしかず。であろう。囲碁は、人の世や人生の治乱興亡の全てを予知・内包した神のゲー
   ムである。
    
    山本周五郎の「虚空遍歴」に触発されて始めた「囲碁遍歴」の執筆を終わるに当たって、最後は
   やはり囲碁の神様呉清源九段に登場願って、阿修羅のような厳しい勝負人生を偲び、稀代の勝負
   師に”喝!”を入れてもらおう。呉清源の自伝書「以文回友」から・・・。

    「囲碁は二人で創造する芸術であると同時に、紛れもなく勝つための闘いであり、勝負の世界で
   ある。勝負は常に勝つことを要求されるし、とにかく勝たなければ価値は認められないのである。」

                     ー「囲碁遍歴」終わりー