ミミズの戯言117、コロナ下での五輪開催。 21,08,03 連日の猛暑、東京五輪の熱戦に国民はテレビにくぎ付けになり熱い声援を送っている。 一方コロナの感染はとどまることを知らず、再び6つの都府県に緊急事態宣言が発令 されたが、日増しに感染者と重症者は増加の一途をたどっている。政府の対策は右往 左往するばかりで後手後手感は否めない。首相の発言は力強さに欠け、まるでよその 国の出来事のような緊迫感のない発言で空しく聞こえて腹立たしくなる。一国のリーダー とは思えない無力感が漂って見える。 多くの国民は私も含めて五輪開催に懸念を示した。世界各地から集まる多くの選手団、 五輪関係者や観客が集まる為に、人の流れが頻繁になり、新型コロナ感染が増加して 医療崩壊の危機が懸念されたからである。 にもかかわらず「安全、安心」というばかりで何の裏付けもないまま五輪は強行された。 そして熱戦が展開され日本中がテレビで声援を送っている。かくいう私も全く同様である。 無敵の中国ペアを破っての卓球混合ダブルス水谷・伊藤ペアの金メダル獲得,、男子 柔道で各階級の華々しい金メダルラッシュ,上野投手を中心に17年ぶりで金メダルを勝 ち取った女子ソフト、など五輪開幕早々から日本選手の活躍に感動して夜遅くまで家内 とテレビに見入った。64年の東京五輪の感動と興奮がよみがえった。 五輪開催に反対する「理性」と、熱戦に熱い声援を送る「感情」が同居し、相矛盾する 自分自身に疑問を感じながらのテレビ観戦である。 五輪開催に疑問を感じるならば、テレビ観戦を完全無視するのが筋道というものなの だろう。開催に反対しながら日本の選手の活躍に一喜一憂するのは、自分の思考に対 する一種の裏切りで、おそらく人間として間違っているのだろう。いわば「自己矛盾」 「自家撞着」に陥ったということだ。 私は強固な意志を持てない矛盾だらけの弱い人間だと改めて思うし、諸氏からそのよ うにレッテルを張られても一言も弁解の余地はない。 しかしよく考えれば、五輪開催に反対する心と、熱戦を繰り広げるアスリートに声援を 送る心は、一見矛盾するようだが決して矛盾するものではない事に気が付く。 そもそも池波正太郎流儀で言えば、人間とはこのような二律背反、相矛盾する心を持 っているのが常で、その両方を成り立たせようとする不思議な動物である。例えば旺盛 な食欲を満たしたい心と減量したいと思う心の両立のように・・。 早くも東京五輪も前半を終えたが日本勢の活躍が目を引く。柔道、卓球、水泳、野球、 女子ソフト、スケボーなどという私の知らなかった新しい競技も生まれ、前回大会を凌ぐ 金メダルラッシュである。13歳の少女の金メダリストも生まれ驚かされた。 五輪憲章では「オリンピック競技大会は、個人種目又は団体種目での選手間での競争 であり、国家間の競争ではない」と明記されている。 ヒットラーがベルリン五輪を国威発揚に利用したあの忌まわしい過去を2度と起こさな いための五輪憲章だが、何故か世界中の人々は、個人の栄光を称える一方、国家とし てのメダル数に拘り、マスコミも国別メダル数を煽っている傾向がある。 表彰式での国旗掲揚や国歌演奏などは「国の名誉」を称える象徴的な儀式と言える。 五輪憲章の崇高な理念は空文化しているようだが、国民がそれを喜んでいるのも人情 と言えるのかもしれない。 その意味では難民代表チームが結成されて健闘していることはオリンピック本来の 目的に合致しているといえなくもない。 また世界にはジェンダーに基づく偏見や不平等が多く存在しているが、この五輪でも 初めてこの問題がクローズアップされた。これ等の新しい課題に向き合った新しい五輪 の在り方はこれから模索されることだろう。 後半戦まだまだ目を離せない競技が続く。私の連日のテレビ観戦もまだまだ続く。 一方では、懸念したように首都圏はじめ全国的なコロナの感染患者の増加は顕著で、 世の中は奇しくも「明」と「暗」が同居している。 64年の東京五輪の名場面と感動を思い出しながらしばらくの間は熱戦を楽しもう。 3年後のパリ五輪を元気で見れるかどうかはあまり自信がない。 いずれこの五輪強行が世界中の称賛を浴びるか酷評を浴びるか、歴史が評価する ことになるが、いずれにせよ記憶に残る東京五輪だったことは間違いない。 |