ミミズの戯言113「飲水思源」。    20,12,17

   この歳になると年々「年賀欠礼」の知らせが多くなる。今年も思いがけない知人の訃報の
  知らせが届いて驚かされた。

   その筆頭は、高校の2年先輩で岩手県のI銀行の元頭取Nさんの訃報だった。N先輩が
  まだI銀行の東京事務所長だった平成2年(1990)以来、30年のお付き合いである。

   古い話で少し長くなるが、N先輩とのなれそめはこうだ。

   私の勤めていた会社にとって、1990年は特筆すべき年だった。
  自動車産業とはまるで無縁の地の東北に目をつけ、岩手県に新鋭工場を建設して、初め
  て東北の地に自動車産業を根付かせ、これを突破口として東北のデトロイトを目指そうと
  する大プロジェクト構想を立てたのは、バブル経済真っただ中の1989年(平成元年)の事
  だった。

   T社を取り巻く中部地区という一極生産拠点集中に課題が見え始め、遠からず限界に達
  すると判断して、自動車の生産とは無縁の地の東北に新しく白羽の矢を立てたのは、今日
  の隆盛を見れば先見の明があったと思われて感慨が深い。

   中部地区からは1000㌔の遠隔地だが、地球規模で見れば欧州の主要自動車工場とは
  緯度では大差ない。東北は決して遠隔地でも寒冷地でもない。このような世界的視野で
  物事を判断すべきだ、とトヨタの若き戦略家たちが示唆してくれ、彼らはわが社の東北進
  出構想を力強く支持してくれた。

   平成元年(1989)、トヨタのトップと生産企画部門に機密レベルの提案をして合意を得、
  直ちに候補地を探し、平成2年(1990年)電撃的に岩手県に工場進出を決めて土地を取得、
  平成3年(1991)工場建設着工、平成5年(1993)に初号車の生産開始という素早さだった。

   まるでドラマのようなこの一連の重要な意思決定と行動の全過程で、企画から実現まで
  すべてのプロセスにかかわり続けられた事は、私にとっては全くの幸運であった。この数
  年間は震えるような緊張と充実した毎日が続いた。

   我が社の進出の後を追うように4年後の平成9年(1997)には親会社のトヨタ自動車が
  仙台近郊に「トヨタ東北」を設立、2011年には傍系のC社が同じく仙台近郊に新工場を建
  設した。主力部品メーカーも相次いで進出した。

   工場立ち上げ時期にバブル崩壊に見舞われ、工場規模縮小という予想外の紆余曲折
  はあったが、中部、九州に次ぐ第3の自動車生産拠点として「東北のデトロイト化」は着実
  に前進していった。

   自動車産業は裾野が広い。関連企業や家族を含めれば、瞬く間に1万人の住民の増
  加をもたらし、雇用、税収、住宅建設、生活用品などの民需等、東北経済には計り知れ
  ない経済効果をもたらした。話題と刺激の少ない岩手経済界は瞬く間に活気づいた。

   反面、負の遺産として既存工場の閉鎖、関連企業の廃業や移転、数千人規模の従業
  員の民族大移動(転勤)などの新たな対策に追われ、苦渋の決断を迫られた。

   当時まだI銀行の東京事務所長だったN先輩が、ある日突然私を訪問して挨拶を交わ
  したのは、岩手県に工場進出を決めた平成2年(1990年)秋の事だった。
  勿論、新工場との仕事の縁を求めての表敬訪問だったが、高校の先後輩でもあり私情
  をはさむ親しい歓談があったことは否定できない。

   新工場が次第に生産の規模を拡大し、地域経済団体とも親密度を増すにつれ、N先輩
  は盛岡の銀行本社に戻り、専務~頭取と栄進していったが、銀行マンとして、また私的
  にも先輩として貴重な地域の情報提供をしてくれた。南部武士の典型のような人だった。

   懇親の場では、よく中国の故事の「飲水思源」を引き合いにして私に礼を尽くしてくれた。
  東北に自動車産業が生まれたことに私が若干でも貢献したことに対する敬意の表れだ
  った。盛岡の料亭ではよくご馳走になったが、洒脱な人柄は女将にも人気があった。

   「飲水思源」(いんすいしげん)とは、「水を飲む者は、その源に思いを致せ」 つまり、
  「井戸の水を飲む際には、井戸を掘った人の苦労を思え」という意味で使われる。

   1972年、日中国交正常化の際に訪中した田中角栄首相を周恩来首相が迎えた際の
  言葉として知られているが、この故事を用いて、N先輩は光栄にも、「井戸を掘った人」 
  として私にいつも礼を尽くしてくれた。その律儀な礼儀は亡くなるまで終生変わることが
  なかった。

   毎年の年賀状には、「いつでも盛岡にいらっしゃい」と書かれてあったが、遂に15年以
  上も先輩との旧交を温めることは出來なかった。あの温顔が懐かしい。今はただご冥福
  を祈るばかりである。

   岩手進出の経緯等は、もう30年も昔の話で、当時を知る人のほとんどは鬼籍に入って
  しまった。況や現役の人たちは知る由もない昔話、夢のまた夢、まさに引退した老人の
  独り言、ミミズの戯言である。

   
   さて、来年もまた「年賀欠礼」のショッキングな便りが誰かから届くのだろうか。