ミミズの戯言10、−地の縁、人の縁ー ![]() 家内との朝の散歩道はいくつかのルートがあるが、大抵は葉山小学校から図書館を経て 森戸海岸に行き、相模湾と富士山を眺めながら御用邸を廻って帰宅するルートが多い。 これが右回りルートで時々逆ルートの左回りルートを取ることもある。 右回りルートの途中に「三家橋」(さんけばし)という小さな橋が道沿いの堀にかかっていて、 この橋の名前の由来が看板に書かれている。 なんでも大正時代の有名人が3人、近くに別荘を持っていて交通が不便なことからこの3人 が私財を投じて橋を作って便利になったことから「三家橋」と命名されたとの事だ。普段何気なく 通り過ぎていて、3人の名前など気にも留めずにいたところ、最近あることを発見して「縁は異 なもの味なもの」ということを実感した。 この3人の中の一人に入澤達吉医学博士がいる。博士は明治時代のたいそう偉い内科医 で東大医学部教授を永く勤めた方だそうだ。入澤博士の恩師のベルツ博士(日本に近代医学 を広めたドイツ出身の医学博士)が葉山の景観を大変気に入り別荘を持っていたことから、 入澤教授も同様に葉山に別荘を持っていたらしい。 森戸海岸を眼下に見下ろす森戸神社にベルツ博士を顕彰する碑が建っているが、この碑文 の起草は愛弟子の入澤教授の筆になるものである。三家橋にしろベルツ博士にしろ入澤博士 にしろ、「ははん、そうですか」ぐらいにしか気にも留めなかったが、家内の叔母から送られた 義父の遺稿集を読んで事情が一変した。 叔母の義父K博士は明治、大正、昭和と長く医学界に貢献したお医者さんだが、遺稿集に よると入澤教授は義父の東大医学部時代の恩師にあたられて、終生ご指導を頂いた密接な 師弟関係にあった。 つまりベルツ博士ー入澤博士ーK博士は医学で結ばれた親子孫の師弟関係にあり、葉山 という土地が3人を結びつける地縁の関係にあったことになる。そしてこの3人の人縁・地縁 が時を経てK博士の姻戚関係にある我々夫婦の知ることとなり、その我々夫婦は3人の愛し た葉山にたまたま住んでいるという偶然が重なっている。 風化していた過去の史実を発見できたのは妻の叔母のご主人からたまたま送られた遺稿 集によるものである。 人の縁、地の縁とよく言うが、一見無関係に思われたことが実は見えない糸で結ばれてい て、それが偶然の出来事から見えなかった糸がたまたま見えてくるという、奇遇・奇縁といえ るような出来事がしばしば起こる。 おそらく当時の3人は医学と葉山を通じての交流、つまり人縁、地縁をご承知の事だった ろうが、時が風化すると共に次第に人縁、地縁は忘れられた過去の出来事になってしまう。 その忘れられた出来事を偶然掘り起こしたのが遺稿集だったことが無性に嬉しい。 風化した過去の史実を甦らせて何ほどの事やある、と叱正されては返す言葉もないが、この 因縁を大事にして子孫に伝えておこうと思う。逗子に住むK博士の御令息御夫妻に三家橋や 顕彰碑の写真などをお送りしたところ「亡き父の恩師の別荘跡地を近く見に行きたい。」と大 変喜んで頂けた。 この発見があってから、朝の散歩道の「三家橋」、森戸神社の「顕彰碑」はいたく身近なこと に思え、葉山に住む贅沢をしみじみ感じるこの頃である。 |
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三家橋の看板には次のように由来が書かれている。 「大正時代、この辺に逗子から人力車で来るには、海岸 通りから現在の図書館前へ大きく迂回し、小川に沿って こなければならなかった。当時、別荘のあった入沢達吉 (ベルツの弟子の医学博士)、村井達之助(タバコ王村井 吉兵衛の義弟)、恒藤規隆(植物・地質学者、農学博士) の3軒が私費を投じて石橋を架けたので、「三家橋」と呼 ばれた。・・以下略。」 道端に沿った細い堀は近年の常識ではコンクリートで 覆われて道が拡張されるところだが、堀がそのままの形 で残されて小魚やアヒルなど散歩者の目を愉しませてく れる。趣のある葉山町の心配りなのであろう。 |