ミミズの戯言8、−隠れ銀杏ー ![]() 爆弾低気圧の強風のあおりで、鎌倉八幡宮のご神木の大銀杏が遂に根元から倒伏した。 鎌倉のシンボルの一つであるこの大銀杏は私にとっても懐かしい思い出の木である。学生 時代に八幡宮の裏にあった学生寮で青春を過ごした私は、ほぼ毎日八幡宮のほとりを通 って街中に繰り出していたので、この大銀杏は、散歩道・通学路に当然あって当たり前の 風景だった。特に鮮やかな黄色に彩られた大銀杏は、秋の八幡宮を彩るなくてはならない 舞台装置だった。 各紙新聞紙上やテレビは、いっせいに”樹齢800年以上の大銀杏が倒れる。”と報道した。 頼家の遺児公暁が親の敵として実朝を殺害した時に、この大銀杏の陰に隠れていたとの 説があって、別名”隠れ銀杏”ともいわれるこの大銀杏である。この大々的な報道があった ので、かねて疑問に思っていた事をこの機会にご披露しよ う。 東北は片田舎の高校時代の遥か昔、高1の日本史の時間は岩淵先生(通称;ガチャメさ ん)の風貌と名講義ぶりで生徒の人気があった。鎌倉時代を講義したときのその模様を懐 かしく思い出す。 時は鎌倉時代、2代将軍源頼家の次男幼名善哉は、父頼家が北条氏によって鎌倉から 追放、殺害された後、出家して八幡宮の別当定暁に仕え「公暁」の法名をもらう。 1219年1月、八幡宮の参拝を終えて石段を下りてくる3代将軍実朝に、石段横の銀杏 の木に隠れていた公暁が”親の敵!”とばかりに叔父の実朝に斬りかかり斬り殺す。この 銀杏は後年”隠れ銀杏”として有名になった。直後、公暁も北条義時の手のものに討たれ て、源氏3代は滅び北条氏の天下となる。ここまでは歴史を知る皆さんご存知のとおりだ が、ここからが私の疑問。 この事件は1219年だから今から800年前。隠れるほどの銀杏の木だから当時樹齢 200年とすれば、なるほど、現在では樹齢1000年となる。新聞紙上でほぼ樹齢800年 から1000年というのも頷けることになる。 一方、銀杏の木の日本渡来の歴史を調べると、渡来時期には諸説あり、中国から仏教 とともに渡来した平安時代だとする説や、鎌倉時代とする説もあったが、現在では約600 年前、つまり室町時代15世紀前半に中国から銀杏の木は渡来したというのがほぼ一致 した定説になっている。ならば、600年前に日本に渡来したはずの銀杏の木が、どうして 800年前の”隠れ銀杏”になり得るのか?という疑問が湧く。 ”隠れ銀杏”の話は江戸時代に出来た話らしいが、かくの如き由来からして「大銀杏の陰 に潜んで・・」というのはどうも作り話の気配が濃厚となる。 市役所や八幡宮に問い合わせる気概もないのでそのままにしているが、今回の倒伏事 故で名だたる新聞紙上に、樹齢800年前のご神木倒れる、と大々的に報じられたので、 暖めていた疑問が再燃した訳である。 もっとも、倒れた銀杏の木を測定して樹齢が何年かを調べ、事実800年以上だとなれば、 銀杏の木の日本渡来の時期が室町時代だとする定説が覆えり、平安説が甦ることになる。 これはこれで面白い。それとも詮索などしないで「秘すれば花」として封じ込めておいたほ うがロマンなのだろうか。鎌倉の名所話が偽りだったとなっては関係各所に迷惑になるだ ろう・・・。 それとも昨今報じられている核の日米「密約」のように、ほじくり返して白黒を明らかにす るのがよいのだろうか。 いずれにせよ、またひとつ懐かしい記憶、思い出の風景が消え失せてしまった。 |