ミミズの戯言7.−伊達騒動ー          10,03,07

   会社OB連中とのゴルフの集まりの時、伊達騒動が話題になった。山歩きが趣味の仲間の一人が、80歳の長老
  をはじめとする数人の同好の士とともに東海道53次を日本橋から京都まで数ヶ月かけて完歩した話がきっかけで
  ある。彼は今は日光街道と中山道を同時踏破に挑戦中だが、引き続き松尾芭蕉の足跡をたどって、奥州まで足を
  伸ばす予定との事だった。芭蕉が幕府隠密だった痕跡を探ってみたい、金売り吉次のことをもっと知りたいなどと
  好奇心旺盛な話題で持ちきりとなった。
   その延長で伊達騒動の話になったので、騒動の主役の一人一関藩主伊達兵部と岩沼藩主田村右京亮、その息
  子で後の一関藩主田村右京太夫のこと、原田甲斐の評価のこと、船岡、涌谷など関係する地名や、ついでに伊達
  藩、南部藩の歴史などについて私のつたない知識を少々披瀝しておいた。そして芭蕉の足跡をたどって宮城県を
  歩くと船岡の原田甲斐の遺跡などに巡り合うだろうから、予備知識として山本周五郎の「樅の木は残った」を読ん
  でおくようにアドバイスをしておいた。
   彼らに講釈はしたものの、物覚えが断片的で、少々怪しい記憶のところがあることに気がつき、小説を読み直し
  たり、史実を再確認したりしたので、「ミミズの戯言」にはふさわしくないテーマだが、わが郷里、宮城・岩手の歴史
  の一端を整理しておくことにした。因みに私の父親の先祖は盛岡藩(南部藩)、母親の先祖は伊達藩(一関藩)が
  出自である。
  
  1、伊達騒動とは
   仙台藩(伊達藩)3代藩主伊達綱宗は遊蕩三昧だったため、叔父に当たる一関藩主伊達兵部宗勝は、老中酒井
  雅楽頭忠清と図り、21歳の綱宗の強制隠居と2歳の亀千代の4代藩主就任(伊達綱村)を画策実現させた。綱村
  の後見役となった伊達兵部は実権を把握し、家老の原田甲斐宗輔(船岡領主)らと藩権力の集権化を進める。一
  門の伊達安芸(涌谷領主)はこれに反発して藩論は2分する、
   安芸は安芸の甥伊達式部(登米領主)との所領地紛争の事件を幕府に提訴し、1671年(寛文11年)騒動の審
  判のため、大老酒井邸に伊達安芸、伊達式部、原田甲斐ら関係者が召喚される。原田甲斐はその場で伊達安芸
  に斬りかかり殺害、、甲斐も安芸派の柴田外記に斬り殺される。柴田も同日夜に死亡。かくして関係者は全員死亡
  し真相は闇に葬られた。原田甲斐は伊達兵部の佞臣・奸臣として男子子孫はことごとく切腹お家断絶、一関藩は
  改易となり、藩主伊達兵部は騒動の首謀者として土佐に流罪となった。
   かくして仙台藩62万石は安泰、伊達安芸宗重は忠臣、原田甲斐は逆臣と評価が定まった。これが伊達騒動の
  概要で、後年歌舞伎などの題材に取り上げられた。(先代萩)

  2、山本周五郎の新解釈
   山本周五郎の小説「樅の木は残った」は、お家騒動に新しい解釈を加えている。原田甲斐は、3代藩主伊達
  綱宗の強制隠居と幼君亀千代の藩主就任が酒井雅楽頭と伊達兵部の策謀であり、両名には仙台藩62万石を
  分割して半分を兵部に与えるという密約が存在する事を知る。この企てを阻止するために、甲斐は親友の松山
  領主茂庭周防、涌谷領主伊達安芸と秘策を練る。甲斐は兵部の腹心を装い、甲斐を慕う家臣にも本心を明か
  さない。やがて起きた伊達安芸と伊達式部の領地紛争の幕府提訴に、甲斐は危機を感じる。この提訴が式部
  を煽動した一関候(兵部)の策謀で、酒井大老がこの内紛を口実に伊達62万石の分割はおろか、兵部との密
  約さえも反故にして伊達62万石の改易を図るに違いないと直感する。かねてから同盟の意を通じていた安芸
  と甲斐は、領地紛争の幕府裁定が行われる酒井邸で、多年の宿願を果たすため、密かに入手していた酒井・
  兵部の密約書を列席する幕府御側衆に公開して、一気に酒井雅楽頭との決着をつけようとする。事前にこれを
  察知した酒井雅楽頭は家人に命じ、評定の控えの間にいた安芸・甲斐ら伊達家4人を”乱心者が斬り合ってい
  るので成敗した”としてことごとく殺害に及ぶ。こと未然に終わった甲斐は、絶命寸前最後の策を講じ、安芸殺害
  は酒井家ご家中にあらず、自分の乱心ゆえだと将軍御側衆の久世大和守に直訴して息絶える。最後に大芝居
  を打った原田甲斐の願いが通じ、この殺害事件は伊達兵部の意を受けた腹心原田甲斐1個人の乱心によるも
  のとの幕府裁定が下り、原田甲斐の子息はことごとく切腹、伊達兵部は首謀者として土佐に流罪、一関藩取り
  潰しとなり事は決着した。かくして仙台藩は安泰、酒井大老と伊達兵部の密謀とその奥にある伊達62万石改易
  の企ては頓挫する。原田甲斐の誰にも明かさなかった藩安泰の願いがかなう。甲斐の孤独な心を知るのは原
  田邸の庭にある孤高の巨木「樅の木」だけだ。という物語になっている。原田甲斐は逆臣ではなく伊達藩を救っ
  た忠臣であったとする新解釈である。 
   「樅の木は残った」の小説を読みきるには若干の予備知識を持つことが役に立つ。(以下はwikipediaの抜粋)

  3、仙台藩と一関藩
   仙台藩(伊達藩)は「地方知行制」であり、伊達一門の血縁者は万石単位の知行を領してそれを自らの家臣に
  再配分するなど、半ば独立大名の体をなしていた。地方知行とは幕府または大名が家臣に対して禄として与える
  知行を「所領と付随する百姓」の形で与え直接支配させる制度である。一関藩は幕府の命によって仙台藩から
  3万石を分知されて成立した藩であり、そのために幕府直属の家臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けた。
  譜代並みの役目を務めた一関藩ゆえに、仙台藩からは独立への牽制を常に受けていた。一関藩の所領は北上
  川で二分され、二分された一関藩の間には仙台藩領の村落が10余村あるという有様で、政治・経済ともに仙台
  藩の影響下におかれた。しかし他の大名級の一門衆に比べると、家臣団、徴税機構を有し、年貢米などの直接
  徴収が可能だったという点では比較的自立していた。
   伊達兵部宗勝は仙台藩初代藩主伊達政宗の十男で、1660年(万治3年)に幕命により仙台藩から3万石の
  分地を得て大名となり初代一関藩主となった。いわば仙台藩の属藩でありながら幕府の認知を得て独立的に近
  隣所領を支配していた。兵部は大老酒井忠清の養女を嫡子宗興の正室に迎え仙台藩を専横し、ひそかに仙台
  藩の分割を図る密約を得ていたが、地方知行を維持しようとする伊達安芸との争いから起きた伊達騒動で失脚
  して土佐に流され一関藩は廃藩の憂き目に会うことになる。伊達兵部は土佐で59歳の生涯を閉じた。

  4、小説に登場する仙台藩の主な家臣
   仙台藩から知行地の領有を許された主な家臣を記す。(小説「樅の木は残った」の登場人物。)
       伊達安芸宗重・・・涌谷       柴田外記・・・・・米谷
       伊達兵部宗勝・・・一関       茂庭周防・・・・・松山
       伊達式部宗倫・・・登米       古内志摩・・・・ 岩ヶ崎(七北田)
       原田甲斐・・・・・・船岡        田村宗良(右京亮)・・・・岩沼
       奥山大学・・・・・・吉岡        田村建顕(右京太夫)・・岩沼→一関
       津田玄蕃・・・・・・佐沼        片倉小十郎・・・・白石

  5、岩沼藩と一関藩(田村藩)復活
   幼少の伊達綱村が仙台藩主に就くと、綱村から名取郡岩沼に3万石を分与されて、田村宗良(右京亮)が初代
  岩沼藩主になる。(伊達政宗の孫)。右京亮は兵部と共に幼君綱村の後見役になるが、生来気が弱く、兵部の
  専横を許して伊達騒動に至った罪を問われ、連座失脚、閉門になる。この宗良の次男の建顕(田村右京太夫)が
  岩沼藩第2代藩主になるが、1681年(延宝6年)、命により岩沼から一関に移封され、兵部失脚後廃藩となって
  いた一関藩が復活し、陸奥一関藩の初代藩主になる。
   田村右京太夫は学問に秀で、将軍綱吉に寵愛されて外様大名ながら譜代大名にしか許されない江戸城奥詰
  め、奏者番に任じられ大名格になっている。赤穂藩主浅野内匠頭長矩が切腹したのはこの田村右京太夫の江
  戸藩邸である。戊辰戦争後最後の藩主になった第11代田村崇顕は明治2年の版籍奉還で一関藩知事に任じ
  られたが、明治4年の廃藩置県によって一関藩は消滅した。

  6、盛岡藩(南部藩)
   隣藩、盛岡藩について簡単に補足しておく。
  南部氏は甲斐源氏の流れを汲む武士で、古く奥州平泉藤原氏を征討した功績で現在の青森県に勢力を張った
  のが奥州南部家の走りである。天正18年(1590年)南部信直が秀吉の小田原攻めに参陣し、所領の安堵状を
  得て、岩手、稗貫、和賀、紫波、二戸など10郡に及ぶ版図が確立し表高10万石の大名となった。(のち20万石)
   南部家の最初の城は現在の青森の南部町、続いて三戸城、九戸城を経て盛岡城に移居している。鎌倉時代
  に源頼朝に出仕以来、700年も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の2家のみである。
   「南部家中興の祖」といわれる南部家第26代(初代盛岡藩主)南部信直は盛岡城を中心とした城下町を建設し、
  城から仰ぐ岩手山、早池峰山、姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、「五の字割り」と呼ばれる複雑な町割で
  外敵を防ぎ、寺社、武家屋敷、町人町を整備して現在の盛岡の骨格を作った。14代藩主南部利剛(南部家第4
  0代)のとき明治維新を迎える。盛岡藩は幕府軍として仙台藩の指示に随い、新政府方であった秋田藩、弘前藩
  の領内に乱入し朝敵の道を選ぶ。(興味のある方は浅田次郎の「壬生義士伝」をお読みください。)
   慶応4年(1868年)、奥羽越列藩同盟に加わり明治新政府に抵抗した廉により、仙台藩から没収されていた
  白石城(白石藩)に13万石で移封されるが、罰金を払い半年後に盛岡に復した。廃藩置県により盛岡県となる。
  最後の藩主(第15代藩主)は南部家第41代当主・南部利恭(としゆき)である。
   朝敵となった旧盛岡藩士が新政府で職を得るためには実力で認められるしかなく、学問が奨励され、逆に明治
  以降に多くの軍人・政治家を輩出する契機となった。

  7、南部家と靖国神社
   南部藩・南部家は戊辰戦争で旧幕府軍に属したが、日露戦争で南部の大叔父にあたる南部利祥が功を遂げ、
  靖国神社に合祀されたことから神社との繋がりを持った。また南部家は代々神道の信徒でもあった。南部家第
  45代当主・南部利昭氏は第9代靖国神社の宮司である。昭和受難者(いわゆるA級戦犯)の合祀に踏み切った
  松平永芳第6代宮司以来の原則的立場を堅持した原理主義者で、A級戦犯の分祀や国立追悼施設の建設に
  反対し、首相による参拝継続を強く求め続けた。昨年1月死去。

 8、岩手県出身の宰相
   ところで、岩手県出身の総理大臣は何人か?岩手は東北の片田舎なのに長州(山口)についで多く、就任した
  順にあげると、原敬、斎藤実、米内光政、東条英機、鈴木善幸の5人である。特に昭和初期から太平洋戦争直前
  にかけて岩手県出身の軍人・政治家が中央で多く活躍した。象徴的なのは、昭和13年に岩手県出身の板垣征
  四郎が陸軍大臣に就任した際に開かれた祝賀会で、南部家44代当主の南部利英が、同じく岩手出身で海軍大
  臣だった米内光政と板垣を両脇に座らせて、利英が中央に写っている写真である。利英は息子の利昭に「陸相、
  海相を左右に座らせて写真を撮れるのは天皇陛下と私だけだ」と語ったという。なお、この祝賀会には岩手出身
  の山屋他人元海軍大将と、後の首相、当時の陸軍次官東條英機も出席している。
   東条英機を岩手県人とするか否かは以前「ミミズの戯言2」で書きおいたが、政治家・軍人が岩手から多く輩出
  しているのは、先に述べたように盛岡藩が賊軍とされ、中央で登用される人物になるには、反骨精神が豊かで、
  寡黙に学問に打ち込むことが不可欠だったからに違いない。(私は米内光政にその典型を見る。)また軍人だけ
  でなく宮沢賢治や金田一京助、石川啄木、野村胡堂などの文人も盛岡から世に出た偉才である。

9、蛇足;伊達藩と南部藩の藩境
   岩手県北上市に相去(あいさり)という地名がある。ここが両藩の藩境だった。一説によれば、伊達藩は仙台
  から、南部藩は盛岡からそれぞれ使者を走らせ、使者が合間見えた場所を藩境にしようとなった。ところが、伊
  達藩の使者は馬を使い、南部藩は駕篭を使ったので境界線は著しく南部藩寄りの場所になった。使者は互い
  に境界線を確認してここで別れたのでこの場所を相去(あいさり)と名付けられたという話である。真偽の程は
  定かではない。またこの話から、南部の人は伊達の人を「悪賢い」といい、伊達の人は南部の人を「くそまじめ」
  と蔑んで、互いに仲の悪い状態が続いたという話も残っている。これも真偽の程は定かではない。