ミミズの戯言1 ザ・マジックアワー。 08,09,28 夏の盛りのある日、三谷幸喜監督の”ザ・マジックアワー”という評判の映画を見た。 テンポの早い現代風のコミカルな映画だったが、落ちぶれた老俳優が、「夕暮れから夜に 変わるわずかな一瞬に素晴らしい景色がある。この瞬間はマジックアワーだ。」と話した セリフが印象に残った。 私の住む葉山は相模湾に沈む夕日が絶景で評判だが、マジックアワーの瞬間は今だ! と断定できる自信はない。多分見過ごしているのかもしれない。ゆったりと流れるままの 時間感覚を「アナログ的」と仮に表現すれば、一瞬の時間の美を切り取ったのが「デジタ ル的」だといえる。瞬間の美を見逃してしまうぼんやり屋の私はやはりアナログ人間なの だろう。 海や山川などの自然の風景、人間や動植物の表情など、変化するわずかな一瞬を鮮や かに切り取って、生命の躍動をデジタルに表現する最適な手段が、写真撮影という技術な のだろう。数年前から知遇を得ている葉山在住の著名な写真家のTさんの写真集を見て いると、この瞬間の躍動感を見事に捕らえていることに改めて驚く。まさにデジタル美の極 限かと思う。 一方、昔から日本人は時間の微妙な移り変わりの変化に極めて敏感で、奈良平安の昔 の歌人はそこに抒情・詩情を感じてきた。昔の歌人は、夜から明るくなる夜明けまでの微 妙な変化を、「暁、東雲、曙、朝ぼらけ、日の出。」と順に称して多くの優れた歌を残してき た。 漆黒の闇から少し明かりが見え始めたのが暁で、日の出の直前が朝ぼらけという訳だ。 このような季節や時間の微妙な変化に敏感な日本人の感性は決してデジタル的ではなく 極めてアナログ的だ。現代の若者には少し欠けてきた極めて日本的な感性だ。 過日、A新聞の天声人語に、霧、霞、露などの湿ったぼんやりした状態を日本人が好んで いて、昔の歌人は好んでこの季語を使っていた。と書かれていた。また、照明デザイナー の石井幹子(もとこ)さんは、光か闇かという欧米流の二元論ではなく、「光から闇に至る 中間領域」をいとおしみ、都市なら「優しい夜景」、家では「ほのかなあかり」だという。 このような伝統的な日本人感覚で敢えて言えば、時間や季節感覚に限らず、元来日本人 は白黒をはっきりさせる事よりもその中間の曖昧な所で事を決着させる事を好み、「いい 塩梅」が大人の賢い処世術とされてきた。 特に政治の世界では、政策も政局も足して2で割る「いい塩梅」な妥協の産物が珍重さ れてきた。小泉さんが郵政選挙でイエスかノーか、と国民に迫って喝采を浴びたが、これ はブッシュ流の「アメリカは正義、これに反対するのは悪、」という二元論と同じ手法をとっ たものだ。つまり白か黒かのデジタル的選択を強いた過去に例のない極めて異例な手法 だった。旧来の政治感覚と違った新鮮さと珍しさに国民が圧倒的な支持を与えたものだ。 しかし日本人は本質的に中道的なアナログ的気質が大半を占める。デジタル政権に喝 采を送っても所詮元のアナログに振り子は戻る。「過激」と「穏健」はいつも振り子のように 行き来して次第に昇華していくものだ。今は小泉流の改革の後遺症に痛みを訴える国民 の声が圧倒的だ。麻生政権と小沢民主党。残念ながら国民は政策判断よりも嗅覚・感性 で選挙の勝敗を決めそうだ。 日本の大きな方向を決める選挙戦が始まる。総裁選然り、総選挙然り、5人の総裁候補 にも両党にもなかなか明確な政策の対立軸が見つからない。ならば感性しかない。敬老の 日は満月。夕日の落ちる一瞬のマジックアワーもいいが、落ちたあとの名月もいい。 土中のミミズは呟く。<名月の美しすぎる世の乱れ> |