映画;キネマの神様。 ![]() 6月初めに腰椎の圧迫骨折をして以来外出を控えていて、隠遁生活にも慣れてきた。 まだ完治には程遠いので外に出るのは医者に行くだけだが、今評判の山田洋二監督の 「キネマの神様」が面白そうなので、杖を突きながら久し振りに映画館に出かけた。 夜の飲み屋や人出が多いデパ地下などは規制されているが、映画館は規制の対象外 らしく、座席を一マス空けて密を避ける対策がされていた。 何度見ても山田洋二監督の作品は面白い。脚本がすぐれているだけに、進行が歯切 れよく、どんでん返しが随所にちりばめられていて、観客を離さない。 笑わせたり、泣かせたり、ほのぼのとさせたり、しんみりさせたり、まさに映画製作 のコツを知り尽くした”手練れ”という言葉がぴったりする山田洋二監督である。主役 の沢田研二を支える小林稔侍や宮本信子らの脇役陣も味のある演技で存在感があった。 私は知らなかったが、主役は当初志村けんだったそうだが、彼がコロナで不慮の死 を遂げたので、急遽代役として沢田研二になったとのこと。映画の終盤近く、彼が 「東村山音頭」を歌ったとき、その歌声から初めて沢田研二だと分かったほど老け役 が堂に入っていた。また何故この音頭が歌われたかも映画の後になって理解できた。 「東村山音頭」は志村けんの持ち歌で大ヒットしたので、本来なら志村けんが歌う べきシーンを、没後そのまま残して沢田研二に歌わせたのだろう。山田監督の志村 への惜別の念が表れていて心憎い心配りだ。 映画のストーリーや随所に現れる意外性には、我を忘れるほどのの面白さがあった が、内容は見る人のお楽しみにしておこう。 私が最も印象的だったのは、忠実に再現された大船松竹撮影所のセットだった。 撮影所の入り口の門、左側に守衛所、正面に木造2階建の本館、画面では隠れて見え ないが門のすぐ右側にはプレハブの事務所があって、我々アルバイト学生はここで渡 された映画の台本を手書きで書き写したものだ。当時はこれをコピーといった。 当時は今でいうコピー機などはまだなくて謄写版の時代、同じ台本を複数作るには、 アルバイト学生が下手な字の手書きで書き写すという原始的な方法しかなかった時代 である。バイト代は昼飯なしで1日300円。銭湯に行きビールと焼きめし代ですぐに 消えた。1960年ごろの話である。 撮影所の正面玄関を右折すると数棟の建屋があり、この中に映画のセットがしつら えてあった。私は「楢山節考」の照明役の助手かなにかのバイトをしたことがある。 「楢山節考」は深沢七郎原作、木下恵介監督で、この暗いセットの中で、田中絹代 演じる老婆が息子役の高橋貞二に背負われて姥捨て山に捨てられに行くというストー リーが衝撃的だったのを覚えている。田中絹代がこの役のために前歯を折って迫真 の演技をしたことも後日知った。望月優子の演技も光っていた。 それにしてもこの撮影所の姿を昔と同じ姿に復元できる技術には感服した。昔の建 物の配置をよく知っている人にしか判らない復元力だ。 大船松竹撮影所はその後解体されて今は鎌倉女子大学のキャンバスになっている。 昔、撮影所の近くにこじゃれた小料理屋があったらしく俳優たちはこの店の看板娘に 大分「ホの字」だったようで、佐田啓二がこの看板娘を射止めたと風のうわさで聞い たことがある。もしかしたら中井貴一、理恵の母親かもしれない。 後年、やはり撮影所の近くに「でぶそば」という庶民的なラーメン屋があり、渥美 清はいつもここで「半チャン、半ソバ、半シュー」(チャーハン、ラーメン、シュウ マイのこと)を食べていたらしく、店には渥美のサインが残されている。今も近くで 当時を偲ぶメニューで店を開いている。私も数年前までこの店に行き、同じメニュー で食べたものだが、まだ店を開いているのだろうか。実直そうな老夫婦は健在だろ うか。 映画「キネマの神様」を見ながら60年前の過ぎ去った昔をまざまざと思いだして 感慨にふけったものである。私も歳をとったものだ。フト不覚の涙がこぼれた。 |