ミミズの戯言116川端康成「名人」 21,04,12

   天気が良いので北鎌倉に墓参りに行ってきた。家内の父母が眠る建長寺で墓参りを
  済ませ、車を建長寺の駐車場に置いて、私の父母の眠る光照寺まで歩き、墓参りをし
  て建長寺まで戻ると、かれこれ1時間ほどかかり格好の散歩道になっている。

   土日の行楽日には寺巡りをする行楽客で賑わい、北鎌倉の銀座通りを思わせる賑
  やかな通りだが、普段は閑静で散歩にはもってこいの通りである。     

   光照寺のシャクナゲ、建長寺の牡丹はこの時期が盛りで、特に建長寺は、国宝の
  総門をくぐり、同じく国宝の三門と鐘楼の右側の緩やかな坂道を上ると修行道場と
  檀家の墓地があり、この坂道の両側には季節柄、牡丹が奇麗に咲いていた。

   この石畳の坂道は川端康成の小説にも登場するので印象的なこの道を好む風流人
  も多い。

   建長寺から光照寺に至る道の途中に、我々夫婦がよく立ち寄る小さな寿司屋の
  「S寿司}がある。ひと昔前には鎌倉の材木座で開業していたが、故あって今は
  北鎌倉で老夫婦と息子さんの3人で小さな店を営んでいる。

   いつもお寿司はパスして、老女将の作る昔ながらのラーメンと、親父の作る大阪
  風のお稲荷さんを2個だけ食べるのが我々の定番の密かな楽しみの寄り道である。

   私とほぼ同じ年齢のここの親父さんは、昔川端康成に贔屓にしてもらったそうで、
  川端家の逸話をたくさん知っている。一昨年にTV局の「ぴったしカンカン」の人気
  アナウンサーとスタッフが当時の逸話を取材しに来店したらしい。ひとしきり川端
  康成の話題になった。

   川端康成の短編に囲碁を題材にした「名人」という本がある。

   昭和初期に本因坊秀哉の引退碁の相手を務めたのが、当時呉清源と並ぶ若手俊英
  の棋士木谷実7段で、観戦記者として立ち会った川端康成が、鬼気迫る臨場感あふれ
  る対局の様子を小説「名人」に書き記している。

   この小説で川端は木谷7段(小説の中では大竹7段)が指した”ある着手”を強く
  非難している。

   ”ある着手”とは、黒121手目の封じ手のことで、劫立てのような時間つなぎの姑息
  な着手だとして「芸術作品としての名画にいきなり泥を塗られた。ぶち壊しだ」と
  木谷7段を激しく非難する文章になっている。川端の潔癖すぎる性格が窺い知れる。

   これ以来、木谷と川端は不仲になり絶縁状態にあったが、後年両者は和解して、
  神奈川の鶴巻温泉で和解の盃を挙げることになった。しかし川端が鶴巻温泉に行く
  べきところを誤って「綱島」と勘違いしたため遂に約束の場所の「陣屋」は見つか
  らず、約束の時間が過ぎてしまったので、やむを得ず無断でタクシーで鎌倉の自宅
  に帰ってしまった、という事件が起きている。

   平成14年(2002年)に私が平塚の木谷家を訪問した時、木谷さんの妹さんの和子
  さんから、川端が木谷に宛てた2通の手紙を特別に見せてもらう事が出来た。

   1通は小説「名人」で木谷7段を非難した非礼を詫びる手紙で、もう1通は鶴巻温
  泉をドタキャンしたことを言い訳がましく詫びた手紙だった。

   2通とも巻紙に筆で書かれた川端の流麗な文字は見事なもので、川端の細やかな
  気遣いが溢れた詫び状だった。

   「S寿司」の親父とそんな話をして、建長寺の墓に行く石畳の坂をゆっくりと歩
  き、満開の牡丹を眺めて写真を撮り、この坂道を書いたのは本当に川端康成だっ
  たのか、そして何という小説だったかを記憶をたどってみたが、遂に思い出すこと
  はできなかった。

   おそらく墓地の隣にある修行道場から緩やかな坂道を下りながら何かを考えてい
  る風景を描いた一節だったと思うが、詳しい前後も小説の名前も覚えていない。
  いつかふとしたきっかけで思い出すかもしれない。つまり、あの「記憶喪失」の類
  いの老人特有の癖である。

   ついでながら、昭和の初期に呉清源と木谷実が、後年「血の対局」と呼ばれる
  鎌倉十番碁を打った時、ここ建長寺でも打たれているが、2人はどうもこの坂道を
  対局前に一緒に散歩したらしい。

   S寿司の老女将の作る50年来変わらぬ鰹だしの効いたさっぱりとしたラーメンと、
  親父が大阪で修業して以来変わらぬやや薄味のお稲荷をほおばりながら、昔話に
  花を咲かせた。こんな話ができる相手はめったにいない。

   いつ閉店してもおかしくない老夫婦の営む小さな店だが「もう少し頑張ってね」
  、と労いの声をかけて店を後にした。
  
   店の裏を横須賀線の電車が音を立てて通り過ぎて行った。