遺稿集 ”ざれごと” ![]() 家内の叔母の義父は明治17年に高知県で生まれ、岡山の六高から東大医学部を出て、 長く内科医として活躍された立志伝中の人である。この方は趣味豊かな方で、釣り、俳句、 謡、囲碁、観劇、史跡めぐり、旅行などを楽しみ、文筆に優れ、数多くの評論、随筆などを 主として医学雑誌に連載されたが、多岐にわたる題材を軽妙洒脱なタッチで文に綴り、 大変人気を博したそうである。昭和の中期に約10年間に亘り「日本医事新報」に執筆した 膨大なエッセイの数々が散逸することを防ぐため、最近お孫さんたちが精力的にパソコン に入力して製本にまでこぎつけられた。遺稿集”ざれごと”としてようやく陽の目を見たわけ である。 贈呈された第一分冊を見て驚いた。装丁の見事なことは勿論だが、A4判で229ページ、 1ページが3段で文章がぎっしり埋まっている。掲載されたエッセイは昭和35年から37年ま での3年間に書かれた135話。江戸時代の名残を残す土佐の子供のころから、多感だっ た高知、岡山時代の中・高校生生活と友人達、大学・医者時代の数々の逸話、古今東西 の歴史観から、外遊体験、明治・大正・昭和の大事件に対する深い洞察、多彩な趣味の 世界、専門医学の見識など、ユーモアも交えた格調高い珠玉のエッセイ集だった。 しかもこの優れたエッセイ集はほぼ1週間に2話乃至3話はかかさず執筆してはじめて 連載となるので、その筆力は実に驚くべきものだ。執筆はさらに「洗心余滴」と題して昭和 42年から46年まで数十回連載されたそうだからまさに驚嘆するほかない。 漢籍に長じた明治知識人の特徴で、現代人には到底理解できぬ漢文・漢詩がたびたび 登場するし、今ではとうに死語になった難解漢字が頻出するので、飛ばして読むことも多 いが、たまに息抜きのように遊郭などの軽い話も出てくるので思わずニヤリとすることも あって楽しい。久し振りに格調高い読み応えのある遺稿集に出会い、毎日3ページずつ 熟読してそれでもほぼ3ヶ月、充実した夜の一刻を過ごすことが出来た。第2分冊も刊行 されるのだろうか、それが待ち遠しい。 いずれも興趣をそそられる珠玉のエッセイなので、どれを選んで紹介するかは至難で ある。逆に数少ない軽い話の中からひとコマを紹介しよう。第46話「碁敵」から。 「憎さも憎し懐かししというが、碁や将棋の対手は、こんな奴とは金輪際2度とやらぬぞと、 追い返すように別れても、翌日になって退屈すると、あいつが来ないかなどと、木戸の鳴る 音に耳をすます事があって、我ながらいやになるのである。・・中略・・・好敵手を得ること は、実は甚だ難しいものである。強すぎてゆかず、弱すぎてゆかず、いやしい打ち方をす る人はいや、碁笥をがちゃつかせたり、石を散乱させたりするのもいや、軽い戯言はよい が、疳に障るようなことを言うのはいや、乱暴なのもいやだし待ったをするのもいや、勝っ てもツンとするのも不快だし、負けて負け惜しみの強いのも好まぬ。碁は上手に勝ち、上 手に負けることが大切であって、負けた相手をほのぼのとさせ、笑って自分も負けられな くては、プロはさておきわれわれザル党にはそれが理想なのだが、相手次第で思うように ならぬから困る。目は某客に随って静かに、心は睡僧と共に閧ネりとゆきたいが、そう注 文どおり運ばぬことが多い。強ければ親切に指導してくれる人がよく、弱ければこちらの 指導に従順で、徐々でもよいから上達してゆく人でないと厭きがくる。50年この方、碁を 娯しんでいるが、好敵手を得ることは、全く以って難しいものである。」 ・・・・おっしゃるとおりで全く同感である。因みにご子息は90歳に近い今もなお、囲碁に精 進されている私の師匠で、さわやかな人柄と上品な棋風は正しくご父君のいう得がたい 「好敵手」にピタリである。 次はやや際どい若き日のエピソード、医局時代に吉原病院を参観した時のはなし。 第6話「廓」の締めの一言。 「・・・・私としては遊郭の登楼は正直なはなし、これが空前だったか、絶後だったか、歳を とったから忘れてしまった・・。」 こんなとぼけた微笑ましいセリフで文を締めるのは、年 輪を重ねた通人でないと書けない。ご老体はいつもこんな風にしゃれたことを書いて同業 の医者仲間を煙に巻いていたことであろう。 最後に古文書を紐解いた武士のしきたり「とどめ」の作法を披露しよう。第55話「武功 書」の1節から・・・ 「手討ちの時、必ずトドメを致すべし。フロを刎ねるか、左の脇の下を突くか、二つの中を 行うべし。喉を刺すには刃を上にして、下より筋交いに刺す。但し皮を残すという。脇の下 を刺すにも刃を上にするなり。これ、切疵にては無しという証拠なり。敵討ちには首を討つ こと定まれる法なり。然ればトドメには及ばずと雖も、カクシドメを致し置くという。カクシドメ の仕様は、小刀を以って、鼻の中、耳の中を刺すなり。左のほうを刺すこと習いなり。」 たかだか百数十年前の武士の定法だったのである。今では存命する古老でもおそらくは 知らない作法であろう。 土佐出身だけあって、藩主山内容堂の事、維新の志士達と明治の元勲達の事、10歳 の時に体験した日清戦争、六高生だった20歳の時の日露戦争なども生き生きと書かれ ていて、微笑ましくも実に尊敬に値する明治人の遺稿集であった。 |