映画:「沈黙」    17,02,09

  新潟の友人に勧められて話題の映画、「沈黙」を観てきた。最近はあまり出歩かない
 ので、世間で今何が評判なのかの情報が少なく、友人からの最新情報は誠に貴重で
 有り難い。

  しかし、笑顔とか笑いが全くない映画を見るのは実に疲れる。どんなにシリアスな映画
 でも、時には家族とか友人との暖かい語らいの場面があって、ほっと心安らぐ一瞬があ
 るものだが、映画:「沈黙」にはそんな場面が全くなく、最後まで重苦しく感じられる映画
 だった。

  映画を観終わった後でいつも感じる感動や心地よさはなく、殉教とはかくなるものかと
 考えさせられる映画だった。テーマが拷問に耐えかねたクリスチャンの「棄教」という重
 いテーマだからそれも必然と云えるのだろう。

  この映画は、遠藤周作が昭和41年に発表した小説「沈黙」を、ハリウッド映画界の巨
 匠 マーティン・スコセッシ監督が、リーアム・ニーソン、アンドリュー・ガーフィールドとい
 う当代の豪華主演陣に加え、浅野忠信や窪塚洋介という日本人俳優も起用した話題作
 である。

  キリシタン弾圧が苛烈を極めた江戸時代初期の日本に乗り込んだキリスト教宣教師
 の物語だが、宗教論を語る難解な映画ではない。

  物語は主人公のロドリゴ宣教師が、尊敬する師が「キリスト教を棄てた」と聞き、ことの
 真相を確かめようと日本に潜入する場面から始まる。映画のプログラム(添付)は長崎
 の名もない漁村にはじめて上陸する宣教師の様子を示しているが、荒波が寄せる波打
 ち際、立ち込める暗雲、左手に差し込む一条の光が、宣教師の前途の苦難と希望を象
 徴していて印象深い。

   


  島の信者たちは、奉行から踏み絵を踏むか踏まないかの選択を迫られる。ある信徒
 は頑なに踏み絵を拒んで、火炙り、逆さ吊り、斬首、磔の極刑となり、ある信徒は踏み
 絵を踏んで一命が助かるが、いずれは極刑の運命にある。

  では宣教師はどうか、宣教師が踏み絵を踏むのは自分の命を助けて欲しいからでは
 ない。踏まないと目の前の信徒が虐殺されるからである。ここに至って宣教師は踏むか
 踏まないか、究極の選択を迫られる。主キリストは何も語ってくれない、何も教えてくれ
 ない。神は”沈黙”あるのみである。かくしてロドリゴ宣教師は死にゆく信徒の命を救う
 ために踏み絵を踏む。あまりにも厳しい現実を前に、価値観を根底から揺さぶられ
 “なにが正しいのか”を見失った人間たちのドラマがここにある。踏み絵を踏むことは、
 信者の命を助けるが、自らの信仰を放棄すること、つまり「棄教」であり、「転び」であり
 「転向」である。

  転向して日本人妻をめとったロドリゴは日本人名を名乗り、生涯を江戸で過ごす。
 キリスト教を捨てた「転び」には二度と告解などは出来ない。しかし映画の最後のシー
 ンで、死を迎えたロドリゴの掌には小さなロザリオが握られていた。これは何を暗示し
 ているのか、観客に問いかけた極めて印象的なシーンだった。

  話は変わるが、私は2011年、6年前に2泊3日の五島列島の旅に出掛けた。100を超
 える五島列島の大小の教会は、迫害を逃れてこの辺境の地に来た信者たちの最後の
 砦だったのであろう。

  上五島に属する頭ヶ島は、1859年頃から入植が始まり、役人の目もあまり届かない
 ことから、潜伏キリシタンが増えた。1867年以降、上五島には長崎から密かに外国人
 神父が訪れるようになるが、翌年にはキリシタン弾圧、いわゆる「五島崩れ」が起きる。
 頭ヶ島でも主だった信者が拷問を受け、島民全員が島を一時脱出した。

  上五島の最東端に位置する頭ヶ島教会は、信者たちの寄進で維持されている石造り
 の教会だが、弾圧されたキリシタンの名残をとどめる銅板の踏み絵や拷問に使われた
 石積みが現存している。殉教者達の墓碑がある。踏み絵を拒否した信者の一徹な信
 仰心の証である。信仰とは命を懸けるほど激しく一途なものであることを、改めて青い
 銅版の踏み絵が教えてくれた。

  しかし慰霊碑は殉教者だけで、どこにも「転び信者」や「転び宣教師」の碑はない。
 彼等はいわば裏切り者であって仲間ではない。しかし踏み絵を踏んだのは、踏まない
 で死を選ぶよりも、はるかに勇気のある行為だったかもしれない。踏むか踏まないか
 の究極の選択はいずれが是でいずれが非か容易に判断できない。人間の重いテーマ
 である。

  青い銅版の踏み絵を目前にして深く考え込んだものだった。しかし私には命を懸ける
 ほどの信仰心は持ち合わせていないので、ただ推測してため息をつくだけだった。
     
  「転び」「転向」はキリシタン信者には限らない。昭和初期の思想弾圧で特高につかま
 り、治安維持法違反で拷問を受けて転向した共産主義者や社会主義者が多数いたし、
 自分の思想に疑問を持って自分の意志で転向した学者も多数いた。共産主義者から
 経営者に華麗に転身した西武の総帥堤康次郎の次男、堤清二、(辻井喬)もいる。

  いずれも、踏み絵を目前にした信者達と同様、究極の選択の経験を持っている。

  卑近な例を挙げれば、小池ブームにあやかってすり寄る無定見な政治家、否、選挙
 目当ての政治屋も、いわば「転び政治屋」と云える。彼らは「当選するのならば・・」どん
 な「踏み絵」でも厚かましく踏む。彼等にとっての「踏み絵」には命掛けなどない。
  「転び」の世界は政治家にとっては日常茶飯事のことだが、小池知事も味方の数を
 稼ぐだけではなく「候補者の質」も吟味したほうが良い。

  この映画を観てスカッとしたい人には残念ながら向かないが、人間の前に屹立する
 大自然の荘厳さや、大小のレベルはともかく、日々大切なことを見失いがちな我々に
 降りかかる“究極の試練”を、意味深く描いたマーティン・スコセッシ監督の渾身の作品
 といえるだろう。しかし疲れる映画である。