映画鑑賞、 「ハンナ・アーレント」  
 14,01,21

   ドイツ系の亡命ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントが1960年代初頭、ナチスの戦犯
  アイヒマンの裁判を傍聴し、「ザ・ニューヨーカー」に長編レポートを出したことで彼女は
  一躍世界中に注目された。その一部始終を映画化したのがこの映画である。

   良質の映画だけを上映する横浜の古ぼけた小劇場 ”jack and betty”で上映され
  ていることを知り古い友人と一緒に見に行ってきた。

   彼女はアイヒマンとはナチスの冷酷非情な怪物ではなく、上官の命令を黙々と遂行
  する凡庸な官吏にすぎないと喝破した。そして、その思考する能力の欠如こそが未曽
  有のホロコースト(大量虐殺)を引き起こしたと結論づけた。この映画の中で引用され
  る実際の裁判映像のアイヒマンの世俗的で虚ろな表情を見るとそれがリアルに納得
  させられる。  

   ハンナ・アーレントは又、アウシュビッツ収容所の一部ユダヤ人指導者がナチスに
  協力したと指摘したために、世界中のシオニストたちから、「殺人鬼アイヒマンを擁護し、
  ユダヤ人を誹謗する裏切り者」として指弾され、中傷・脅迫の手紙が殺到する。
  アーレントは生涯、根源的悪とは何か?を問い続け思考を重ねている。この映画は
  ニューヨーク知識人社会の辛辣なスケッチを織り込みながら、欧米におけるユダヤ人
  問題の底知れない根深さを提示している。

   この映画を見て改めて感じるのは、アイヒマンを裁くイスラエル法廷の正当性への
  疑問であり、かっての東京裁判と戦争犯罪立証の正当性についての疑問である。
   勝者が敗者を裁く正当性は果たしてあるのか?戦争犯罪人(戦犯)とは敗者だけに
  貼られるレッテルなのか?勝者たる連合国は裁く権利を持つ正義で、敗者の日本は
  裁かれるべき悪なのか?という疑問である。
   東京裁判を無条件で受け入れその結果として平和と繁栄を得た日本だから「何を
  いまさら」と思われるかもしれぬが、その疑問はいつまでも消えるものではない。

   かってTBSのテレビドラマで「私は貝になりたい」を見たが、フランキー堺扮する善良
  な1市民の理髪師が上官の命令で米兵を刺し、戦後の裁判で死刑になった衝撃的な
  シーンを覚えている方も多かろう。この理髪師を悪人と思う人は多分いないだろう。
  命令を下した上官こそ裁かれるべきだと思うだろう。しかしその上官もまたその上の
  上官の命令に従っただけかもしれない。つまり戦時においては上官の命令は絶対で、
  実行者もしくは伝達者は軍の規律を忠実に守っただけの凡庸な官吏にすぎないとい
  えるのかもしれない。しかし理髪師に命令した上官を辿ると、悪人探しは果てしなく続
  いて結局はうやむやになってしまう危険性もある。

   翻って、アイヒマンを極悪非道の殺人者と見做すか、命令に従っただけの凡庸な官
  僚と見做すかの判断にも通じるが、戦時における犯罪行為は必ずしも「個人の罪・悪」
  と断じきれないようにも思われる。戦時における犯罪行為ないしは戦争責任は「個人」
  に帰すべきではなく概ね「戦時体制」という異常で抽象的なものに帰せざるを得
 ないように思われる。

  それとも同列に論じるのは極端かもしれないが、フランキー演じる理髪師は善人として
  その行為を許容され、アイヒマンは死刑に値する「極悪人」だと論証しきれるだろうか。

  げに恐ろしきは個人の判断力や正義感がすべて無視され喪失する戦争の恐ろし
 さである。
戦時における人間性喪失と狂気が、軍の規律として「正当性」と「絶対性」
  を持つ恐ろしさである。

   アイヒマンの犯した罪を通じて「根源的な悪」とは何かを問い続けたハンナは、遂に
  アイヒマンの行為を「悪の凡庸」と断じて、思考能力の欠如した平凡な官僚の行為だと
  レポートしたので、世界中から異端者として批判を浴びることになった。しかし
  極悪非道の殺人鬼アイヒマンという世界の常識に一石を投じたのである。

   戦争犯罪者とは何か、戦争責任者とは何か、罰せられるべき真の悪とは何か?
 もっと深い大きな根源的な悪があるのではないか、という大きな問いを投げかけ
 たハンナ・アーレントの映画だった。