鎌倉の石塔めぐり。           12.03.08

    啓蟄(けいちつ)が過ぎてここ2,3日は暖かい日が続いている。昨日友人と三浦海岸の河津桜を
   見に行ったがまだ2分咲きだったので春はもう少し先である。今日は文化財研究会の仲間10数人
   で鎌倉の石塔めぐりをした。廻った場所を順に記すと、光明寺にある日向延岡の領主歴代内藤家
   墓所(1634年〜)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)群、歴代和尚の無縫塔(1199年〜)、第4代執権
   北条経時の宝篋印塔(1246)、板碑。次に五所神社の板碑(1246)。続いて来迎寺の三浦大介と孫
   の多々良重春の五輪塔(1180)、別願寺の第4代鎌倉公方足利持氏の宝塔(1439)、安養院の日
   本最古の記銘宝篋印塔(1308)、上行寺の層塔の順で研修した。案内役を担当したM女子は博学
   で事前準備も万全、一同感服の半日だった。為になり楽しい時間を過ごせた。

    各お寺は数年前に鎌倉33か所めぐりで参拝済みだが、石塔の知識がなかった時だったので今
   回の参拝はまた格別の意味を持った。いくつかの寺で紅白の梅の花が咲いていたが満開の時期
   の素晴らしさを知っているのでその点では残念だった。

    駅から数分の場所に比企ヶ谷という地名がある。鎌倉幕府の有力御家人の比企義員(ひきよしか
   ず)が北条時政との争いで一族滅亡となるが、比企義員が屋敷を構えた地なので比企ヶ谷の名が
   残っている。ここに日蓮宗妙本寺がある。石塔の研修を終えた後この妙本寺を訪れた。廣い寺域
   で見ごたえのあるのが祖師堂と海棠の花。ここには文人の色恋のエピソードが残っている。

    山口県出身の詩人中原中也は17歳で京都で広島出身の女優志願の長谷川泰子と同棲し、文学
   を志して上京後も彼女と同棲を続けた。小林秀雄と知り合い親友となるが、彼女は小林秀雄に惹
   かれて中也と別れて秀雄と同棲する。中也と秀雄は泰子を巡って仲たがいするが、ここ妙本寺の
   祖師堂前の海棠の前で二人は和解したというエピソードである。後に中原中也は鎌倉の寿福寺で
   30歳で夭折する。
    文人の愛人譲渡(?)で有名なのは谷崎潤一郎と佐藤春夫の妻譲渡と諍い・和解だが、なかな
   か常人には理解しにくい出来事である。しかし中也の詩は今も熱狂的なファンが多い。かくいう小
   生も若き学生時代に読みふけった一人である。

   昨日が8千歩、今日が1万歩。ようやく長い時間を歩くことが出来る様になってきた。少々の疲れは
  残るが心臓への影響は感じられない。無理をせずこの調子で慣れていけば4月には待望のアウトド
  アスポーツも見えてくるというものである。