青葉の笛            08,10,11

   若かりし森繁久弥が、あの独特の節回しで切々とうたう「青葉の笛」が好きで、30年ほ
  ど前にLPを買い求めて自宅で時々聞きほれていた。LPは傷が付いてその後何処を探
  しても見つからない。聞きたくても今はもう聞けない。惜しい事をしたものだ。年配の人
  には懐かしい歌だろう。

  1、  一の谷の軍(いくさ)破れ   2、更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
    討たれし平家の 公達あわれ      わが師に托せし 言の葉あわれ
      暁寒き 須磨の嵐に         今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
    聞こえしはこれか 青葉の笛      残れるは「花や 今宵」の歌

   明治39年(1906年)の尋常小学校唱歌で当時は「敦盛と忠度」(青葉の笛)という歌唱
  名だったそうだ。何故今頃になって「青葉の笛」を思い出したのか、実は私が入会してい
  る葉山町の文化財研究会に関係がある。

   葉山の上山口に寺前の里という場所があり、ここに猪俣小平六範綱(のりつな)と岡部
  六弥太忠純(ただずみ)というふたりの武将の墓といわれる五輪塔が2つ建っている。

   両人はいずれも源平合戦の一の谷の戦いで源氏方として勲功を上げた武将で、猪俣小平
  六範綱は平家の侍大将・越中次郎兵衛盛俊を討って首級を挙げ、もう1人の岡部六弥太
  忠純は敵将・薩摩守平忠度(ただのり)を討ち取っている。

   この二人はいずれもこの名だたる敵将の討ち取り方に、当時の武将らしからざる卑怯
  な手段を用いたので悶々の日々を送り、合戦後、二人が戦友三浦義純を矢部の館に訪れ
  る途中、この上山口でついに自刃したと伝えられている。
  (六弥太忠純が忠度に組み伏せられ、首を掻かれようとした所に、忠純の童が後から
  忠度の右肘を切り落とした。今はこれまでと観念した忠度が忠純を投げ飛ばし、念仏を
  唱えているところを、やにわに忠純が背後から忠度の首を掻き切ったといわれる。)

  「青葉の笛」で詠われた平家の悲劇の武将は、歌詞の1番が平敦盛(あつもり)、2番が
  平忠度(ただのり)である。

   弱冠17歳の平家の若武者平敦盛が熊谷直実に討たれた時に腰にさしていた青葉の笛の
  話は、平家物語でも有名だし、平忠度については2番の歌詞にあるように、源氏の武将に
  討たれる時に箙(えびら)に結び付けられた文の歌が有名である。歌人でもある忠度の
  文には「旅宿花(りょしゅくばな)」という題名で一首の歌が詠まれていた。

      行き暮れて 木の下陰を 宿とせば 
                 
花や今宵の 主ならまし

   盛俊、忠度を討ち取った源氏の武将が誰なのか私には謎だったが、、猪俣範綱、岡部
  忠純こそ二人を討った武将で、平家物語の巻九にその話が載っていた。

   ゲストとして参加した文化財研究会の案内で町内の史跡めぐりをしたときに、この
  源氏方の2将の墓といわれる五輪塔にめぐり合った。これだから歴史探訪は面白い。

   私が昔高校生の時に受験勉強で平家物語を読み、武将の名前をすっかり失念
  していて、愛唱歌「青葉の笛」を聞くたびに思い出そうとして思い出せなかった武将
  の墓が、なんと間近のここ葉山で眠っていたのだから、旧友に再会したような奇遇に
  驚いたものである。
  ・・・。そして事も無げにこの源氏の2将の名前を説明する分科会の方々に感服し、
  直ぐにこの会に入会することになったのだから、人にはいろいろな因縁があるもの
  である。

   尤もこの五輪塔が両武将の墓かどうかは確かではないらしい。岡部忠純の墓は
  故郷の埼玉県深谷市にも、あるとのことだから真偽は不明だが、それはどちらでも
  いい事だ。歴史と因縁の不思議さを知っただけで楽しくまた面白いというものだ。

   2つの五輪塔を眺めながら、若かりし50数年前を思い出して、しばし八百余年前の
  歴史の瞑想にふけったものだった。