アジ釣りと蘆花。 ![]() 明治の文豪徳富蘆花は逗子とのゆかりが深く、葉山に近い海岸沿いの桜山には蘆花記 念公園がある。明治31年(1897年)に東京原宿から逗子の桜山に転居した蘆花は、1900年 にこの地で「不如帰」を執筆した。「不如帰」執筆を記念した大きな石碑が逗子海岸の水中に 建っているが、近年は目を止める人は少ない。蘆花は既に過去の作家だからだろう。 その蘆花が逗子在住中によくアジ釣りに出かけたことを知る人も少ない。蘆花はアジ釣り が大の趣味だった。蘆花全集3に「鰺釣り」と題した小エッセイが載っていて、10数年前に小 生が葉山釣友会に入会したときに、当時の会長さんにこのエッセイのコピーを差し上げ大変 喜ばれた過去がある。 その「鰺釣り」の資料を紛失して手元に見当たらないので、葉山図書館に行って、係りの女 性に探してもらいコピーをようやく手に入れた。今から120年も前に蘆花がアジ釣りをこよなく 愛したと同様に、私もアジ釣りを最もポピュラーな釣りとして愛してやまないのである。 尤も、当時の釣り方と現在の釣り方はまるで違っている。当時は3~4人乗りの小舟から釣 り糸を海中に落とし、「カッタクリ」と呼ばれる釣り方で指先でアタリを感じる釣り方だった。 退屈すると、鈴のついた針金を舷側に挿し、糸をひっかけておく。魚が引けば鈴が鳴る趣向 だ。これは頭の良い怠け者が編み出した釣り方に違いない。こうすれば居眠りができる。 釣り竿は使わない。エサは白子かアジそのものを細かく刻んで使ったらしい。 田越川の川口に手舟1艘を持っている舟主「甲」と、茶店の主人でこれも釣好家の「乙」と 示し合わせて、蘆花は3人で逗子湾にアジ釣りに行く。 エッセイは8ページしかない短編。 「富士、江ノ島、足柄、箱根、真鶴が崎、から伊豆の 天城山は、西日の光にはっきりと際立ち、右手の方を見ると近くて葉山、遠くて三崎、三浦 半島は縦に短く走って、天城と三崎の中程には伊豆の大島がほのかに見える。」と風景描 写をしている。120年たった今でも少しも変わらぬ相模湾からの風景描写は秀逸である。 エッセイ中盤には、「大方葉山の寺で撞き出したのであろう、暮れの鐘が一つぽーんと海 面に響いてきた。」と書いてある。 葉山の文化財研究会の会長でもある釣友会の会長さんは、この寺の鐘はおそらく葉山の 光徳寺だろうと断定された。周囲の状況からみて私も同感だと申し上げた。 「忽ちからんからん!糸をかけておいた針金の鈴が一つ鳴ったかと思うと、からんからんと 二つ三つ四つ、続けざまに鳴った。来たな!自分の指先にかけた糸がピクリ。しめた。糸を 手繰ると重い。繰り上げる糸の末を見ると、果然鶯茶の背中に、銀色の腹をした、眼の大き な、口の透き通った5寸くらいのやつが、溌溂と上がってきた。さあ釣れ出した!大きいぞ。 それまたアジだ。重い。一尺はたっぷりあろう。・・・・・・」 釣り人蘆花の、興奮した心境と忙しく動き回る様がよくわかる描写が続く。 「如何です、もう終いましょうかね」と甲は空を仰いだ。「左様ですね」と飽き足らぬため息 一つ。 「いつの間にか、日は入って富士から相豆の連山は、入日のあとの卵色の空に印度藍の 波をうねらして、未だ瞭然と輪郭を見せているが、つい其処の葉山逗子の山々はすでに夕 靄がかかった。」 明治の文豪はこのような書きっぷりで夕暮れ時を表現する。私など到底足元にも及ばな い描写の技法には舌を巻く。 「川口の浅瀬の引き潮に掉さして、舟を乗り入れる。生簀(いけす)の魚を魚籠に移すと 七八十はあろう。皆溌溂として躍っている。」 当時は釣った魚はみな舟の生簀に入れて おいたから、生きたまま魚を持ち帰れたのだろう。それにしても七八十匹とはよく釣れた ものだ。 120年過ぎた現在、私は相模湾ではアジ釣りをしない。もっぱら東京湾である。理由は簡 単。相模湾のアジはあまりおいしくない。東京湾のアジは金アジと称して抜群に美味いから である。蘆花が聞いたら大変嘆くことだろう。 3日前に久しぶりにアジ釣りに出かけた。定宿の長谷川丸は太刀魚人気で太刀魚船は 満席。アジ船は釣り客3人だけでのんびりと楽しんだが予想外の釣果で大忙し、なんと良 型の金アジを51匹も釣った。さばいて料理するのはいつも私一人の役割だが、孫の喜ぶ 顔が見れるのが唯一の励みである。 余談だが、日清戦争、下関条約、三国干渉、と国際紛争が続いた1900年前後、武力の 充実こそが国力だと唱えて国家主義的傾向を強める兄の徳富蘇峰とは、次第に不仲とな り、遂に1903年(明治36年)蘇峰への「告別の辞」を発表し、蘆花は兄蘇峰と絶縁状態と なる。 蘆花が逗子湾でアジ釣りに興じ、「不如帰」を執筆した3年後のことである。 |