こどもの日。 13,05,05 オールド野球ファンにとって今日のこどもの日は待ちに待った祝日だった。全国民から愛され たあの長嶋と松井が東京ドームで国民栄誉賞を授与され、しかも懐かしいユニフォーム姿でパフ ォーマンスを披露するという特別な祝日だ。70年間巨人ファン一筋だった私は当然晴れのシーン を楽しみにテレビにくぎ付けになる筈だった。生憎所用で夜遅く帰宅したので生放送を見られず、 翌日に再放送を見てつい涙腺が脆くなったが、生放送だったら多分徳光和夫ばりの感激に浸っ たことだろう。 そのやむを得ない所用とは、この日孫のはるの初めての「ピアノ発表会」があり、娘からビデオ 撮影を懇望されたこと。ふたつ目は演奏会終了後すぐに電車で神楽坂に出掛け最近人気の蕎麦 屋で息子と妹に食事をご馳走する予定が組まれていたためである。長嶋に話を戻そう。 彼は私より2学年年長の昭和11年2月生まれ。千葉の佐倉一高から立教大学に入学してすぐ にレギュラーになっている。彼の伝説的な逸話は無数にあるが、とっておきの逸話を紹介しよう。 かっての取引先の経営者で、立教野球部で長嶋の3年先輩のサードの補欠だったS氏から聞い た話である。S氏は4年になる時今年こそレギュラーの3塁手になれると自信を持っていたが、初 めて練習に参加した新人の長嶋をよく覚えているそうだ。同じサードのかなり深い位置で構えて、 横にも前にもボールに飛びつき守備範囲は広いし鉄砲肩で矢のような送球を見せるので、S氏 はすぐさまこれはかなわぬとレギュラーを諦めて退部したのだそうだ。1年生から桁外れの選手 だったらしい。 彼によれば長嶋がドイツ語の試験で初めて独和辞典にお目にかかり、「ずいぶん便利な本が あるものだ。英語にも同じような辞書があるといいね。」といったとか云わないとか。また、英語の 単位を取れるかどうかのきわどい時に教授が「次の英語を過去形に出来たら君に単位をあげる。 」といって出した問題が、「 I live in tokyo.」 教授は当然「 I lived in tokyo。」を期待し ていたが、長嶋はすぐさま「出来ました。」といってやおら黒板に向かい、「 I live in EDO。」 と答えたそうだ。教授はその独創的な珍答を気に入って即座に合格にしたという。事実は不明の 伝説的逸話だが、その後のプロ時代の珍妙な英語の片鱗が大学時代から既に見て取れる。 当時は試合開始前に控室に何種類かの食パンが沢山並べられて誰でも好きな食パンを食べ て腹ごしらえしてから試合に向かったそうだが、長嶋はテーブルの前を通るなり、片っ端から好 きなパンの上だけをつまんで食べ散らし、他の選手は仕方なく長嶋のつまんだ後の食べ残しを 食べる羽目になり、しかも長嶋はケロッとして悪びれることもない天真爛漫な態度だったという。 プロに入団してからも仲間や後輩連中を沢山引き連れて焼肉屋か寿司屋かに行き、みんな に食べ放題に食べさせてさりげなく財布を店主に丸ごと預けて帰ることもしばしばだったらしい。 いくら入っていたのかは野暮の詮索だが、財布はいくつあっても足りないぐらいすぐになくなって しまったらしい。 破天荒、桁外れ、天真爛漫、これらの逸話は、長嶋の入学の為にレギュラーになり損ねたS氏 の悔しまぎれの述懐だったが、真偽はとにかく長嶋の人を憎むことを知らない人となりを知って 実に気が晴れ晴れしたものである。 およそ長嶋が他人を批判したことを聞いたことがない。名選手・名監督と云われる野村とはこの 点では正反対。野村は他人の非難を売り物に人気を得ているが、たとえ適切な的を得た批判で あろうとも、私は批判とは生涯無縁な長嶋に好感を持つ。 昭和33年に長嶋が巨人に入団して巨人の試合がますます面白くなったこと、昭和49年の引退 試合で長嶋時代の終焉を寂しく思ったことを昨日のように覚えている。長嶋も松井も映像で見る 限り確実に年老いている。幾星霜である。かっての稲妻のような鋭さは微塵もないが2人の師弟 愛に全国野球ファンと共に目頭が熱くなったひと時であった。各種マスコミもこぞって好意的な記 事と論評を掲げていた。 ところで孫のピアノ発表会だが、子供たちは一生懸命晴れ舞台で練習した曲を弾き、父兄も緊 張して聞き入っていた。孫は過ちなく正確に最後まで弾いてくれた。ホッとした。ビデオもしっかり 撮った。最後に先生が連弾やヴァイオリンの演奏で締めくくってくれたがさすがの演奏だった。 終了後直ちに東京に行き神楽坂で小料理屋のような蕎麦屋に行き、妹と息子の4人で食事と会 話を楽しみ夜遅く帰宅した。一日中出歩き少々疲れた「子供の日」だった。 |
発表会の出演者 です。 手前左が孫のは るです。 弾いた曲は?? ブルグミューラー のアラベスクです。 |