梅一輪。    14,03,09

   凡そ2万人の犠牲者を出した東日本大震災から3年がたった。あの日も服部嵐雪の名句そのままに
  我が家の庭の梅の花は一輪ずつぽっぽっと蕾が開いていた。
   3月11日に水戸の偕楽園に梅見に行き1泊で近隣の33か所めぐりをする予定だったが、あの大地震
  で計画がすべて中止になったのがつい昨日のように思い起こされる。

   昨日3月8日は亡父の68回忌なので菩提寺に墓参りに出掛けた。北鎌倉には私の両親の眠る光照
  寺、妻の両親の眠る建長寺があり、それぞれ駅から徒歩10分の近さなので墓参りには至極便利である。
  ポカポカ陽気で土曜日の休日なので行楽客が賑やかに散策を楽しんでいた。桜はまだ蕾もないが、
  紅白の梅がほぼ満開で寺の佇まいとマッチして落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

   建長寺の境内では東日本大震災の復興支援物産展と支援コンサートが開かれていたので、ささやか
  だが募金をして好物の「ふのり」と気仙沼産の吟醸酒 「男山」を買い求めた。そのまま鎌倉まで歩き、
  学生時代に起居した八幡宮近くの学生寮付近を懐かしく散策した。

   思い起こせば寮から駅まで約10分強の通学路には、思い出の店々や風景が多々あるが、あの源平
  池の傍らの平屋の茶店は姿を消して神社の建物に代わり、池を眺めたベンチも消え失せていた。
   幼稚園で飼っていた孔雀小屋もすでにない。夜中、バイトの帰りに孔雀の鳴き声をまねて孔雀と遊ん
  だことも懐かしい思い出である。

   そういえば源平池の鯉やスッポンを失敬して寮生仲間で秘かに胃袋に収めたり、酔って蕎麦屋の大
  きな狸の置物を失敬して寮に持ち帰ったこともあった。若気の至りだったが、後日平謝りに謝って元の
  位置に戻したことは言うまでもない。この蕎麦屋で”五天”という学生向けの天丼をよく寮に配達してもら
  った。その由来は50円の天丼をいう。値段の張る具は一切使わず野菜だけが具なので別名”八百天”
  ともいった。当時1日のバイト代が300円の時代の話である。

   高い煙突のある銭湯”松の湯”に入り、喫茶”さくら”のおばちゃんの造ってくれた焼き飯は貧乏学生に
  とっては至上の美味しさだった。あの懐かしい松の湯もさくらも今は跡形もない。

   小町通りから駅に歩く。小町通りの角に昔”テアトル鎌倉”という映画館があったが閉館して跡は古風
  な外装のレストラン”コアンドル”になっている。余談だがこの店のビーフシチューは絶品で、作家の大仏
  次郎が好んで食べたと訊いたことがある。私が卒業して以降の事だから学生時代の記憶にはない。

   小町通りには思い出の店々が沢山あるが、今はほとんど現代風の建物に生まれ変わっているので記
  憶に残っている店は数えるほどしかない。懐かしい思い出の詰まった鎌倉から逗子に出て葉山の自宅
  まで歩いて帰った。万歩計を見たら歩行数16000歩だった。久し振りの散歩で疲れたがいい行楽の一日
  だった。少しは血糖値が改善しただろうか。

   夜には娘一家4人を引き連れて6人で葉山で評判の焼肉屋で食事をした。孫は大人顔負けの健啖ぶり
  でロースやカルビを平らげていた。孫2人が無心で食べている姿を眺めるのは実に気持ちがいい。次回
  は焼肉と焼き鳥とどちらがいいか?と尋ねたら迷う間もなく”焼肉!”と答えられた。よほど気に入ったの
  だろう。


   光照寺や建長寺で撮り損ねたので、我が家の紅白の梅の花の写真を載せる。どちらも満開だ。