陽だまりのひと時。        21,01,26

   冬の陽射しの朝食のあとの午前、夫婦で小説を読んだり新聞を読んだりしている,。
  取り立ててしゃべることもない老夫婦の平凡な朝の一コマである。猫の額のような小さ
  なサンルームに差し込む冬の淡い日差しを受けながらソファに寝そべり、知らず知らず
  にうたた寝をし、ふと目が覚めてはつい今しがたまで読んでいた読みかけの本のペー
  ジを開く。初老も過ぎた老人にはなくてはならぬ静かな陽だまりの憩いのひと時である。

   新聞をあらかた読んだ次には読みかけの本を開く。今は亡き朝日新聞社の論説主
  幹をなさったH・Iさんから遺贈されたハードカバーの「池波正太郎自選随筆集上下巻」
  (朝日新聞社編)を読むのがこのところの日課のようなものである。

   肩の凝らない池波正太郎に飽きると、次には勝海舟の「氷川清話」、夜の寝床の枕
  元には、ドナルド・キーンの「明治天皇」、江藤淳の「南洲残影」、井上靖の「孔子」が
  積んである。いずれの本も以前読んだ本の読み返しだが、読み返すたびに新鮮なペ
  ージに出会う。付箋を引いた行をみて思い出したり、乱読、早読みで見逃していた行
  に出会い新たに知ることもあるから、読み返しはなかなか優れた読書方法だと思う。

   これ等の本から印象に残った一言を少し抜粋すると・・
  ①、旧幕臣の勝海舟が晩年直前に明治天皇と徳川慶喜の和解の会談を演出したり、
  明治政府の要人にしばしば苦言を呈した逸話を 「氷川清話」として書き残している。
  77歳で人生を閉じた時の辞世の言葉はただ一言、「これでおしまい」だった。

   幕末から明治の乱世の中で自由奔放な生き様を貫いた「勝」という男の、短い一言
  に込めた辞世の思いが伝わってきて、大いに参考になった。

   ②、池波正太郎の随筆集の一節「連想」の一文から抜粋・・。
  「連想というものは飛躍的で摩訶不思議なもので、眠っている夢も同じようなものだ。
  作家の仕事にはこの連想を生みだすことが何よりも大事なことで、連想が乏しければ
  乏しいほど仕事は枯渇してしまう。食べ物から生まれる連想もあれば、犬や猫の姿が
  連想を呼んでくれることもある。

   「剣客商売」の一篇を書いていてタイトルを決めかねて2日も3日もペンが動かなか
  ったとき、白い飼い猫が眠っている姿が連想を呼んでたちまち「白い猫」という題名
  に思いついたことがある。

   また銀座のコーヒー店で何を飲むか迷っているとき、「ミルクティー」ととっさに注文
  した時にたちまち閃いて、「鬼平犯科帳」の通し題名が頭に浮かび、「迷路」と決めた
  こともある。

   小説新潮の連載を書いていて、やはり題名が決まらなかったとき、馴染みの寿司
  屋で海苔巻きを注文した。職人がスダレをひろげて黒い焼きのりを置き、その上に
  白い飯を乗せた。その瞬間、題名がパッと決まった。その題名を「黒白(こくびゃく)」
  という。」

   池波の食通はあまりにも有名だが、食事が連想を生むことを計算して旨い食べ物
  屋に通ったのだろうか。プロの小説家の神髄を垣間見た思いがする。

   それに似た経験は誰でも持っているものだ。私にもたくさん心当たりがある。
  仕事の解決方法が見つからず悶々としていた時に、夢の中で素晴らしい解決法に
  気が付き、パッと飛び起きてメモ帳を取り出して書き留めたこと。長い間思い出せな
  かった知人の名字や小説と作家名、映画のタイトルや俳優の名前などなどを、まる
  で関係のない出来事からふと連想が浮かんで思い出すことがよくある。

   特に年を取ると人の名前を忘れて思い出せないのはよくあることだが、ふとしたき
  っかけで突然思い出す。これなどは連想する脳の力が作用しているからだろう。

   このHPを永年書き続けているのも、「連想する」脳の働きが錆びないように鍛え
  続けたいからに他ならない。自分の「連想する力」がとても愛おしいからである。

   HPに何かの題材を書き進めていると、次々に本筋と違うことが連想されて話題が
  とんでもない方向に向かってしまうことがままある。こんな時は脳ミソの赴くまま、筆
  の赴くままに書き進むのが自分らしいと思っている。女性の長電話や井戸端会議の
  とりとめもない話題などもこの類いだろう。

   さて、私は今わの際にどんな辞世の言葉を発するのだろう。臆病な私は「痛い」
  とか「苦しい」とか喚いて嘆くのだろうか。それとも無言で臨終を迎えるのだろうか。
  それとも西行のように格好をつけた辞世の言葉を発するのだろうか。

   願わくは無言で笑顔で身内の1人1人の手を握って、サヨナラしたいものだ。

     「サヨナラだけが人生だ。」(井伏鱒二)