仙台藩四代藩主
万治年間~寛文年間の十三年間は、補佐役政治の時代で、本格的の政治に携わる時代は延宝年間の半ば以後である。又、綱村は、隠居後麻布屋敷に移り、学問や芸術の研究に精進
したが、藩政に対しても隠然たる勢力を保持していた。1719年(享保四年八月二十五日)に、61歳で病没、法名を肯山全堤大年寺殿と号し、仙台の
(注1)伊達家の墓所としては
室町時代の応永年間(1392~1428年)、この地には粟野大膳大夫の居城である
伊達綱村像
黄檗(おうばく)宗両足山大年寺
原田氏菩提寺山門(
〇1660年万治三年八月二十五日に、二歳の亀千代の家督相続、綱宗の隠退、
申し渡しは、老中
申し渡し状とは「今度一門家老ノ輩言上ノ趣、台聴ニ達シ、公御家督相続、父君ハ隠居命セラレル趣仰出サレ、伊達兵部大輔(宗勝)殿、田村右京(宗良)殿、後見ニ命セラル、御領地ノ中、各三万石分地命セラル」と云うことが
命じられた。
〇1660年万治三年八月二十六日には、三代
ここで疑問に残るのは、何故、幼少二歳の綱村が家督相続を命じられたか、全く統治能力がない赤児に六十二万石の大藩を支配させる異例の処置をしたのかである。
そもそも、亀千代を家督に推挙にあたり、藩内で様々な議論があり、結局のところ、一門衆と奉行の協議で決定されたことを、藩全体の一致として推挙した形となったからでもあった。
厳有院(徳川家綱)殿御実記巻ニ十巻によると、
「万治三年七月八日に松平陸奥守綱宗十八歳になるが、平生多病にて、公につとめに堪えざれば隠退せしめ、二歳の児亀千代に家国つかしめ給はらんよし、
一族の可等一同して、
綱村の家督相続は、このことから、奉行らの推挙により成立していることがわかる。さらに、幕府は、万全の期する為に後見役を任命し、又、目付役として旗本衆から二名の仙台目付を任命している。
〇1660年万治三年八月二十九日には、仙台目付は、将軍の墨印の統治の心得としての箇条書きを、江戸屋敷の綱村のもとに持参し与えた。さらに、仙台に下向して、仙台城中で同じ墨印を家臣一同に披露し、趣旨を説明した。この趣旨説明してから、目付は仙台に逗留し、領内の統治を監視に入った。幕府は、
これにより、仙台藩を管理下に置きすべての行政処置は、老中の許可と推挙が必要となり、江戸城内に仙台藩単体の申次役が任命された。仙台藩と老中との連絡係として、旗本衆から選任され、初めは一名であったが、次第に二名~三名体制と増員された。
幕府は政宗、忠宗の勲功もあり、仙台藩を取り潰す政策を取らず、幕府の管理下に置き、いつでも取り潰せる状態にした。
仙台目付衆の津田半左衛門、拓殖平右衛門が御墨印を持参し、伊達綱村は江戸屋敷の表の間で頂戴した。
仙台目付の持参した墨印の五カ条の覚書とは、下記の如くである。
①領内の仕置きは、前々の如く、町人百姓困窮せざるように仕置きせよ。
②他領へは、如何なることがあっても、下知無くして勝手に出向してはならない。
③家中の縁組は、必ず許可を受けること。
④キリシタン宗門の制禁は、堅く申しつける。
⑤領内の仕置きは、伊達兵部、田村右京の後見人の指図により家老が仕置きこと、決定しかねることは、立花飛騨守に伺い立て、事においては幕府に言上すること。
この様に、指示命令系統は、老中⇒立花飛騨守⇒両後見人⇒家老(奉行)と指定された。
(注2)仙台藩の各役目の出所は、次ぎの通りである。
○最高責任者の立花飛騨守は、忠宗の長女
○後見人の伊達宗勝は、政宗の十男で最後の残された政宗の子であり、39歳
○後見人の田村宗良は、綱宗の庶兄で
後見人は、勢力の均衡を図る為に、
〇1660年万治三年八月二十九日には、
その内容は、一昨年より昨年までの酒造の量を累年の半分との
お触れとは、「当年打続雨降洪水ニ付、耕作損毛之之」あり「酒造之儀 京都 大阪 奈良 堺 名酒之所々 其外 諸国在々所々、四年以前迄造来、員数其所々給、人御代官ヨリ念入改之、共半分ツクラセ可中、
勿論新規之酒屋一切可命停止之」であった。
〇1660年万治三年九月二日に、仙台目付
〇1660年万治三年十一月一日に、
仙台城隅櫓
仙台城本丸址(本丸址から中心市街)
〇1660年万治三年十ニ月一日に、
一、分領中の収入支出は、出入司らが相談し滞ることがないように申しつけること。
一、諸侍・諸役人の任命は、出入司の見当を以て任命してもよいが、困難な問題は老中(家老)之承合すること。
一、給人、郡奉行、代官の非分は、たとえ相手が御一家の衆であっても調査して上申すること。
一、郡奉行、代官、諸役人は、百姓から礼銭を取ってはならないこと。
一、役人の知行役は、老中(家老)へ相談して免許すること、但し、臨時の褒美は金三両までは専決してよい。
一、留物の国境目出入は従来通り堅く禁止するが、品物によっては、奉行の吟味で処置してよい事。
一、野谷地、新田を希望する者には、ニ十町迄は専決、それ以上は、老中(家老)の許可を受けること。
一、諸役人の算用は、油断なく勘定衆に見届けさせること。
一、その他、存じ及んでいることは、万事老中(家老)へ相談して決定し、独断専行してはならないこと。
との九ヶ条の条目であった。
(注)条目の老中とは、家老のことであり、出入司は、上役たる奉行のことである。
これは、後見政治の最初の条目であり、奉行を中心に政治を進め独断専行をせず、些細な事まで奉行と相談して政治を行う精神である。
これは、忠宗時代の政治方針が継承されたことを意味し、法規先例を尊び、諸役人の勤務の粛正を求めるなどがそうであり、新田開発は、
忠宗時代の政策そのものである。綱宗時代の放漫政治と新路線の萌芽を剪除したこに決別し、忠宗時代の法治主義、粛正政治に帰ることが、
後見政治の当面の目標であった。
大年寺山(八木山方面より)
宮沢橋(大年寺山麓)より仙台駅方面
〇1660年万治三年十ニ月ニ十五日には、家督相続の御礼として、公方(将軍)へ太刀基近、綿五百把、白銀五百枚を献上の為、
(注)拝謁とは、公方(身分の高い人)に面会することをへりくだっていうことである。独礼伏謁とは、謁見する際、ひとりひれ伏して進み出て、公方(将軍)に目通りすること。
〇1660年万治三年十ニ月ニ十五日に、
〇1661年寛政元年一月には、綱村三歳、江戸屋敷で祝儀が行われ、一月三日の
〇1661年寛政元年一月二十八日には、両後見人より十三条の条目が奉行衆に出された。
一、仕置は前々通り申し付け」、各々月番をして、御用をして遅滞させてはなない。
一、家中の跡職は相違なく立てこと、但し、親の奉行振りや子の行跡により、半分又は三分の一を立て、末期の遺言は立ててはならぬこと。
一、幼少で番が出来ない者、老人で奉公の罷成らない者は、知行役は三分の一、役人に任じた時病人と申し立て、前々に届け出していない者は、知行全部召し上げること。
一、知行役は、その年度中に皆済ませること。
一、新田は滞る所なければ相渡すこと、切米扶持方の加増は五両七人扶持迄は奉行の専決とし、それ以外は相談すること。
一、当座の合力、褒美金は専決してよい。
一、組衆のことは、組組頭の申次で聞届けること。
一、他国へ女房を旅行させることは厳禁、どうしても必要な時は御印判を出すこと。
一、法度に背く者は、侍衆であっても、遠慮なく曲事(不正な行為、道理に合わない事柄)に仰せつけるべきこと。
一、十五歳より六十五歳までの内病人で奉公不成者は、御番免許、知行取は半役、切米扶持方(軽輩の士に与えられる俸禄・金銭の取り扱い部署)は小知行下され、新田所を遣すこと。
一、乗物免許は一家一族衆、老中(奉行)、評定衆、番頭、出入司、小姓頭、町奉行、医陰両道の者は、断りなく使用してよい、次ぎに知行七十貫以上、五十歳を超えた者は、
一、右の外何事でも指当ってのことは、万事吟味を遂げて申し付けることになっている。
との十三ヶ条の条目であった。
以上のことで、家中の勤務を粛正する方針が、具体的指示され、奉行の専決領域がいよいよ縮小され、後見人が積極的に藩を統制し、奉行の施政に干渉することができるようになった。
〇1661年寛文元年ニ月八日には、老中酒井忠清の前で、連枝方一門衆が
(注)神文とは、宣誓・契約などの際に、嘘・偽りのないことを神仏に誓って血判した証文)
(注)
その後、後見政治が進むにつれ、両後見人の伊達兵部宗勝、田村
〇1662年寛文ニ年十一月十六日に、田村右京亮より国詰奉行奥山大学に覚書を授けられた。これは、去る十二日に酒井忠清
(注)
◎六箇条覚書とは、
一、制札は幾里志丹札以外は亀千代様より立てること。
制札とは、禁止の事項や布告などを書いて、路傍や辻に立てる掲示のことを言う。
ニ、
夫伝馬とは、年貢などの物資運送のために課した
三、大鷹は全て亀千代様の鳥屋に納め、その外鷹は自由に処置してよい。
四、初鳥、初肴の公方様への進上は、亀千代様が進上し、両人の分も亀千代様に進上し、亀千代様を通して進上する、亀千代様からの進上が終わってからは自由にしてよい事。
五、他国への人返しは亀千代様に仰せ付けられるべきこと、つまり、住民の支配権は分知領内の住民も本領にあることを明確にしたもの。
六、境目の留物の通過は、前々通り亀千代様の通判によること。
この六箇条が言上されたことは、伊達兵部宗勝と田村右京亮宗良が万治三年八月に、亀千代後見人に任じられた時、幕府が仙台藩62万石の内三万石を両人に分与し、将軍直参の大名として
取り立てたが、両家は独立大名として権限を知行地内に執行する態度をとった為に、仙台藩内で権限と外交の支配で問題視され、国詰奉行奥山大学らが藩の最高顧問の立花飛騨守忠成と相談して策定された
ものである。
伊達兵部宗勝の所領は、磐井郡一関、田村右京宗良の所領は名取郡岩沼で、寛政元年五月に立花飛騨守より両人所領の絵図を老中に堤出し許可を受けた。
両人の所領は、仙台藩62万石の石高に含まれており、兵部、右京の両家は形式的な直参大名であった。しかし、実質的には、依然として伊達家の家臣の位置付けであったが、両後見人は、独立大名として権限と知行地内に権限を執行しようとしていた。
しかし、仙台藩としては、飽くまで知行の62万石で6万石分は本藩より一関・岩沼に分藩されただけで、外交支配の権限は、仙台藩の専権事項であるとの見解であったので、奥山大学(国詰奉行)が、立花飛騨守忠成に言上し、立花飛騨守が幕府老中に案を伝達した結果、老中酒井忠清が覚書を出すことになった。
この結果、奥山大学が藩最高顧問の立花飛騨守忠成と結んで意図することに成功したが、藩内には、様々な問題や対立・亀裂を生じさせる原因となった。
○1663年寛文三年七月ニ十六日には、奥山大学常辰が奉行職を免せられた。
これは何故かと言うと、二月十日に、目付役
その弾劾書によると、奥山大学は、弟
両後見人としても、先の知行地制札問題で、立花飛騨守忠成、奥山大学らに手痛い反撃を受け権威失墜したので、奥山大学の横暴には手を焼いてところに、藩内から奥山大学の弾劾の声に、渡りに舟とこれを取り上げ、罷免の奉命(ほうめい:貴い方から命令をうけたまわること)を断行した。
これにより、奥山大学は悪人のレッテルを貼られ藩政の表面から失脚し、奉行専制の体制が崩壊した。
奥山大学の失脚の背後には、
その後、一門衆、評定役、旧
〇1666年寛文六年五月には、
〇1666年寛文六年に、奉行
この様に、原田甲斐自身後見役との協調を図ることにより、奉行自身後見人の云う成りに動かざるを得ないようになった。伊達兵部の専横体制が確立された時期上でもあった。
〇1666年寛文六年に、大きな事件が起きた。それは、
「此年河野法橋道円有罪、父子斬首、道円妻及娘ハ
俗説的には、道円は亀千代の毒殺を兵部宗勝に依頼され食事に置毒したが失敗に終わり、その為隠密裡に処刑されたものと考えられている。
一方、道円の処刑は幼君の大奥での舟を出し酒宴を張る様な乱脈な振る舞いがあり、それに大奥の医者である道円も参加し、むしろ主謀者の立場にあったことから責任を問われたと言うよりも、いわば責任を一身に負わされる形で処刑された
と理解されていることが、主流の見解である。関係者の中で
何故にこの様な処分がなされたのかは、先代(三代)綱宗が酒乱遊興の為に逼塞(ひっそく:門を閉ざし、昼間の出入りを許されない)させられ、藩自身が半ば禁治産の状態におかれことを思えば、この遊興事件は後見政治として最も警戒しなければならない悪質な犯罪であった。その為に、兵部宗勝は内密に処置したことは
、果断の処置と言って過言ではない。
〇1668年寛文八年四月二十八日には、国許において、伊東七十郎、
この事件は、仙台目付が仙台下向の際、四月ニ十ニ日の
以前より、後見政治の専制が御家の危機をまねくと懸念していた古内、伊東一派の根強い反発感情を察知せずに、軽率に判断した伊達兵部らの藩内の立場を決定的に不利に至らしめた。
この事件により、伊達兵部らの伝統無視、旧功績の軽視の態度は、藩内の全てを敵に廻す結果となった。
(注)1668年寛文八年七月ニ十ニ日に、仙台地方に大地震があり、仙台城の石垣が崩壊した。
〇 1669年寛文九年六月六日には、
この問題は、伊達兵部、田村右京の両後見人の裁断で「式部殿へ三ヶニ、安芸殿へ三ヶ一付ヲル旨、奉行衆
この裁定には、遠田郡を本拠としていた伊達安芸にとって極めて不満を残すものであったが、幼君統合時代と言う事情を考慮して承認した。が、しかし、このニ郷谷地帰属問題は、伊達安芸が後見政治の不正と伊達兵部弾劾を幕府に上訴するに至った。まさに、寛文事件の直接的原因であった。
このニ郷谷地は、鳴瀬川下流の広大な遊水地帯ー湿谷地は新田開発の進展に伴い、開発適地として急速に注目された所であった。
ニ郷谷地帰属問題の裁定が下されたが、実際の野地分検査に当たり、検使役にあたった人物は、小姓頭
〇1669年寛文九年六月九日には、仙台において
長沼玄叔の実父母養女は連座により死罪が行われたが、玄叔は身命を助置され蟄居を命ぜられたが、切腹仰付けられる。これは、玄叔がお上をなえがしろにし、城下外に蟄居を命じられたにも係わらず、江戸まで登り主君に御目見し、盃まで頂戴するに至ったのは、法の威信を損ね、それを承知して取り計らった者もいた。
幼君の統治下の仙台藩の綱紀を著しく乱したと考えられ、取り計らった石田将監は進退召し上げ、御目見を取り計らった長沼善兵衛も同様処罰をうけた。
この事態も、兵部の後見政治に対する藩内の不信を増長させた。さらに、藩士の規律違反に対する処罰が増えたことや、政治が苛酷なものと人心に動揺を与えた事、腹心の部下を目付役に任用し、藩士の規律違反を糾弾したことなどで、警察政治的不安を与えてしまった。
〇1669年寛文九年十二月七日には、亀千代元服
〇1670年寛文十年は、大きな問題なく、慣例行事が中心であった。
〇1671年寛文十一年一月二十五日に、国詰奉行
こらは、伊達安芸宗重が再三の告遣(つげやる:書面にて言い送る)による為だあり、内容は、去る寛文九年の両後見役の裁定に基ずく谷地配当が、目付役不正が行われたので、その不正の確証を握ったので糾明をお願いするものであった。
目付職の
後見人は
しかし、安芸は、「不直者ノ正ス事、公ノ・・漸ニ悪長シ・・不可然」と自らを江戸に召いて取り調べて欲しいと譲らず、申次三人衆も安芸を江戸に呼び寄せる事と成り、柴田外記が先んじて上府した。
〇1671年寛文十一年ニ月四日に、伊達安芸宗重が、仙台を人数ニ百五十人を召し従え出発、大勢であった為に伊達兵部が、老中稲葉正則に処置を伺ったところ「安芸陸奥守殿為メノ事 言上に就いて上府ス、大勢召見スル事 進退 相応ナリ 囚人ニ均シク存セラル事 不審、但
陸奥守殿へ目見ノ事ハ、公事抱ルノ間 遠慮然ルベキ、家中ノ面々出入 心次第タルベキ旨」との返答であった。
老中正則は、最初から安芸に同情的であった様に思わる。
兵部が囚人扱いとして、江戸での行動を制限しようとした事を、安芸は大勢の家臣を引き連れて、兵部に武力によっても対抗する決意であったことが窺い知る。
〇1671年寛文十一年ニ月十ニ日に、伊達安芸は指示通り
〇1671年寛文十一年ニ月十六日には、公儀申次三人衆により伊達安芸が尋問を受ける。
大井新右衛門
〇1671年寛文十一年ニ月ニ十七日に、申次三人衆は、妻木彦右衛門宅に会合し、伊達安芸は覚書を持参した。
〇1671年寛文十一年三月四日巳上刻(午前九時)に、伊達安芸は、命により
覚書内容は、九条により成り立っていた。
第一条は、二歳の陸奥守に大国を下置されたことへの感謝を表した。
第二条は、里見十左衛門の後見人に対する諫言と十左衛門没後の跡目を未だ申次けざること偏頗(へんば:かたよった)不正の処遇についてである。
第三条は、後見人は、
第四条は、
第五条は、その他は
第八条件は、伊達兵部が家老に親疎したことについて下記の如く指摘した。
「家老職之者ヲ跡々モ共御親疎仕、陸奥守為不直儀御座候、当時、用事等相務申家老共心ヲ一致ニ仕度 与内々申合 神文之企申侯処ニ、私意有之者、同心不仕侯付、違逆仕侯 様子承認侯」
と指摘
これは、家老の神文は、寛文八年三月に、
幕府が後見政治を許可した前提条件は、家老(仙台藩では奉行職)の協力一致であり、老中にとっては、藩内の行政の敵、不敵や家中処罰の正、不正よりは、後見役が家老に親疎し家老の十分な一致体制が成り立ってないほうが、はるかに重大問題であり、もし事実であれば後見政治を認め仙台藩の存続を許可した幕府の方針を破り、幕府の恩情ある配慮を踏みにじる背信行為であるからである。
〇1671年寛文十一年三月四日の尋問は、上記の点に集中し「右箇所(九条)ノ中、兵部大輔殿家老ニ親疎ノ事ヲ尋ラル」とあり、伊達安芸の上訴に対する幕府の処置方針が一点に絞れた事実が窺える。
○1671年寛文十一年三月七日には、柴田外記、原田甲斐の尋問が、老中
三月七日巳上刻(午前九時)に柴田外記、原田甲斐が老中板倉内膳正第に召され、土屋但馬守同席のもと一人ずつ召出され尋問を受けた。柴田外記が帰邸後に伝えた「外記申所尤ニ思サル、甲斐申分相違有之由、且公ノ御為メ気遣致ス・・、但馬守殿仰ノ趣」とのことから察するに、親疎問題、神文問題を中心に尋問があり、誓紙に調印を拒否し、形式的には三家老の協力一致の申し合わせを拒絶した
結果になったことに、甲斐は十分に弁解できなかったと推察される。
〇1671年寛文十一年三月九日には、老中より古内志摩を上府させる指示があり、三月ニ十一日に上府し、二十二日に板倉内膳正宅に召され、土屋但馬守の尋問を受け「志摩申所安芸、外記ノ一同ニ忠義ニ思ワレ、甲斐申分不実ノ由仰セラレルト云」
と言う結果となった。
寛文事件の勝敗は、三回の尋問で決着が付いた。結局、家老(奉行)の不一致の責任は、幕府の意向を軽んじたものとして、後見役に転化され、家老の内部不一致の事実は誓紙問題によって尤も明確に立証された訳である。
この寛文事件は、形式的な管理を求める幕府にとって、恰好の形式的違反事件であり、実質的に原田甲斐の苛酷な政治をしたという実質審議の前に、後見政治に対する約束違反が明確にされたことが、幕府の処置の口実となった。
〇1671年寛文十一年三月ニ十七日に、
三月ニ十七日巳刻(午前十時)一同が、板倉内膳正宅に
国許には、津田玄蕃より飛脚を片倉小十郎、茂庭主水、
〇1671年寛文十一年四月ニ日には、評定役
〇1671年寛文十一年四月三日には、両後見より国許奉行・評定役に、今度の事件に関する覚書を下した。国許において
その仰渡書には「
〇1671年寛文十一年四月四日には、伊達兵部、田村隠岐守の処罰が決定したので、浜屋敷に拘留されていた津田玄蕃をはじめ両後見人の部下や縁者は、悪人扱いとなり「浜屋敷ニ差置ル悪人等 不義仕出も難計、小人三十人足軽参十人出シ、前命ノ如ク・・・用心」を加えるに至った。
この事件の事後処理の立役者として古内志摩が処理することになった。
古内志摩は伊達宗利屋敷に保護されていたが、仙台藩屋敷も平静を取り戻し、悪人に対する監視体制も整ってきたので、老中方は、この日に仙台藩邸に戻ることを許した。
同日に、仙台においては、原田甲斐子息たち、渡辺金兵衛妻子、その他兵部一味の藩士やその妻子がお預けとなった。
〇1671年寛文十一年四月六日には、陸奥守が登城をし、前日、老中
〇1671年寛文十一年四月十四日には、島田出雲守らの三人申次衆が来邸して老中方の内意として、津田玄蕃、
〇1671年寛文十一年四月十五日には、宇和島藩主伊達宗利から使者を以て古内志摩が仙台藩邸に還される由、久世大和守より知らせがあり、夕方に志摩は帰参した。酉下刻(午後七時)に志摩は御座間に召出され、御盃を賜わった。
〇1671年寛文十一年五月ニ十八日には、登城し、公方に拝謁、伊達兵部領地三万石仕置きについて「元知行タルニ依テ三万石返賜ル旨」を大老酒井雅楽頭より命じられる。
〇1671年寛文十一年六月四日には、片倉小十郎景長を奉行に任命し、翌日、六月五日には、伊達安芸の
その覚書には、「一、伊達安芸事忠義之者侯間、早速
〇1671年寛文十一年六月九日には、仙台において原田甲斐一族が処刑された。甲斐の子息
寛文事件(伊達騒動)に関しての考察!!
原田甲斐の一族が、寛文事件後間もなく一族郎党謹慎し、騒動なく全滅していったことには、様々な思惑があると推察される。
一例が、1677年延宝五年三月ニ十七日に、登米郡米谷の原田氏の菩提寺東陽寺に旧家中や町人を含め137名が集まり、亡君の供養を行った記録が残っており、さらには、延宝七年に甲斐供養塔と伝えられる石塔が建立されている。これから推察される
ことは、寛文事件より時も経たうちに原田氏の旧家中の人びとが、かくも集まり亡君の供養を行っていることや、さらには、町人や身分の低い者も含まれたとされていることから、原田甲斐の家中統治や領内統治が行き届いていた事が考えられる。
さらには、幕府の方針が、原田甲斐一人に罪を着せ万事解決しようとしたにも係わらず、原田一族や家中の行動が反逆者的反抗もなく冷静に振る舞ったことからも、原田甲斐自身が自分の行動にやましいことはないと自信を持っていたと考えられる。
甲斐自身、政治的采配よりは行政手腕にすぐれた奉行筆頭格として、後見伊達兵部に協力し、幼君統治の不安定な情勢に、何とか平穏に切りぬけたいと念願していたに違いないと考えられる。
又、寛文事件での甲斐に対する老中の尋問は最後まで、奉行三人の神文誓紙問題で、行政手腕、政治手段に対する問題ではなく、寛文七年に古内志摩が奉行同役三人の
では何故古川志摩がこの様な提案をしようとしたのか、ここには、伊達安芸が志摩の背後にあって、安芸の支援もしくは示唆があったとしか考えられない。これは、安芸が寛文十一 年三月四日の老中への口談覚書より読み取れる。「家老職仕侯者共ヲ、兵部親疎仕、跡々ヨリ、陸奥守為不貞、当時ノ三人ノ家老ノ内原田甲斐ハ兵部ニ心ヲ合ワセ不義有之付而、古内志摩以了簡、柴田外記ニ相談仕侯処、外記領掌ノ上、
陸奥守ノ義ニ対シテハ、大事申合、同心仕度由、神文企申侯、甲斐同意不仕、其神文相調不申由及承侯」から見れば、明らかに志摩の背後に安芸が存在したことが窺いとれる。
伊達安芸の思惑は何であったのだろう、疑問を呈する。安芸自身、表向きは伊達家の大事、幼君への忠節を唱えていたが、内心、伊達家一門の中で外様系(伊達家称号を許され一門に加わった)一門であり、連枝系(伊達家代々の一族)一門の進出に対して自家の立場を有利に導き、自家の安泰を図る目的の為、後見役の伊達兵部(政宗の子)に対して執拗に反感・憎悪を抱き、連枝系一門の勢力を土台に藩政を支配する政策には
、なおさらに反感抱いた。まさに、原田甲斐は、唯一安芸の本意を見抜いた一人であつたが、安芸の策謀(甲斐を奉行の中で孤立させる為の神文誓紙事件)により、甲斐を窮地に追い込んだ。安芸の忠義の為の行動で有れば、御家の為にこの様な事態を引き起こした真意が疑われる。何故ならば、此の時期に藩主綱村の元服が終わり、将軍への公式御目見得がすみ、後見政治が終わろうとした直前に、藩の運命を瀬戸際にさらす行動
が必要であったかを見れば、安芸の本意や策謀も読み取れる。
伊達安芸が、後見政治が存在している間に、後見人を打倒し忠義の家柄として自家の立場を確立させようとした目的は明らかである。その為には、幼君時代に事件を引き起こせば、幼君に御処置なしとする事を老中土屋但馬守、
原田甲斐は、幕府老中方と伊達安芸とが気脈を通じている事が分かっていたのではないかと思われ、外様に対する幕府政策に安芸が乗せられてしまったことに懸念していた事も、この事件を引き起こした要因の一つであると思われる。
伊達安芸は、忠義の人と伊達治家記録にあるが、実は、幕府政策に乗り御家取潰しに至ることを恐れた原田甲斐が、老中邸で安芸を殺し、自らを悪人に仕立て幕府の意図から伊達家を救ったのではないだろうか、諸説があることを知ることも大事である。