小塩立吉の頁へようこそ

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      富士山方向に出た珍しい雲

   2018.03.06無風 AM10:36分発見
東海大学八王子病院7階からiPhoneで撮影

 始め富士山のつばさ雲かと思いました。

無風のため高いのですが細く近い感じであり、
地上から何か大量吹き出しとも思います。
 
お気付きの方ご教示願います。

 
tkoshio@mtd.biglobe.ne.jp こちらへどうぞ
  10:36 発見した時  12:46段々ぼやけてきた。    
 新掲載!!  いつ頃 題  目  容量等 
2018.03.23  1964 春   婚約期に日夏先生を訪ねて  こちらをどうぞ  0.56MB 
2018.01.30  明治~平成  幻の伊那電車の歌 作歌事情、録音、採譜音声
龍西を通る伊那電路線案が発見されこの機に改版 こちらをどうぞ
音声掲載は懸案でしたが、近々掲載を計画しております。 
0.48MB 
2017.10.10  1936~1954  生家の思い出
文政元年、味噌醤油醸造業開業の建物、大正時代の町並、復元工場平面図、
江戸~昭和初期までの
同業者資料を加筆しました。 こちらをどうぞ 
PDF3.7MB 
2017.04.11   2005 船舶救難用の衛星イパーブを開発 グッドデザイン賞も獲得 こちらをどうぞ html 
 2017.04.10  2003  第23届中日工程技術検討会に参加 陳水扁総統を表敬訪問 記念写真
2003 tracking radar こちらを 2005 agc talk こちらを
 html
2.7MB
 2017.04.09 2005 1971年日本初の人工衛星「おおすみ」打上げに貢献 
唯一のDopplerカーブ、
33年間で寿命記事追記 こちらをどうぞ
PDF0.8MB 
 2017.04.05 1971  三次元レーダー開発に参画 こちらをどうぞ  記念写真贈呈します。 PDF0.5MB 
2017.02.07  1959  卒業研究でスペアナを作る。 こちらをどうぞ
2016年12月卒業研究実験ノートに挟まれた青写真の回路図を発見!! 掲載しました。 
 PDF2MB
2016.10.01 1964  東京オリンピック衛星中継成功物語
飯田高校東京同窓会誌「稲穂 No.13」に載りました。こちらをどうぞ 
PDF0.3MB 


   ↓仙丈岳       ↓北岳  ↓間ノ岳 ↓農鳥岳 ↓塩見岳  ↓烏帽子岳   ↓荒川岳  ↓赤石岳   
    方行瓦葺祖父母の旧宅 
 我が故郷 今宮から冬の伊那山脈越えに赤石山脈(南アルプス)を望む。正面の森は大宮神社。
                            右に振ると下の俯瞰に続く。(1956(S24)年頃 中央高速道開通前、36災害前)
 
飯田市街俯瞰  左右の遠景に水平に広がる天竜川東岸の河岸段丘。伊那山脈が広がるその上に赤石山脈が見え隠れする。
                               右の方細い縦線が見えますが、鼎一色のSBC AM送信所
(1956(S24)年頃 大火後 中央高速道開通前、36災害前)
 



生い立ち
 山深い伊那谷の小城下町飯田が我が故郷です。生家は伝馬町にあり味噌醤油醸造業を営んでいたので、穀類を蒸す湯気、麹の臭い、の香りの中に育ちました。物心ついた時大戦勃発の臨時ニュースをラジオが繰り返すのを聴きました。その翌日からラジオはほとんど聴こえなくなりました。翌春が国民学校入学でした。
 翌年飯田にラジオ中継所が開局し、小三年の時ラジオ店佐久間恒雄さんに教えて頂き鉱石ラジオを作りました。これが本格的に無線に興味を持っ切っ掛けでした。大黒柱にあった電話にも興味を持ち、電池保守に回ってくる小父さんの作業をじっと眺めたりしました。

戦中のこと
 昭和18年6月サイパン島が陥落間近、もう米軍は宣伝放送を始め、良く聞こえました。昭和20年5月以降名古屋が大空襲されると遠く夜空が赤く染まりました。東部軍管区情報がラジオから毎日続き、警戒警報も鳴り銀紙がパラパラ舞い降りました。確か8月13日米軍偵察機が飯田上空を旋回するのを見上げ、二三日の内に飯田も空襲されるぞ!! と言われた15日終戦の詔勅を直立して聴きました。

 戦中飯田に疎開しておられた岸田国士、森田草平さんに、父に連れられ疎開宅を訪問し、ぺこりとお辞儀をしてちょこんと座り、大人の話を聞いていた自分を思い出します。
父はこのほかの疎開の方々と飯田の有志の懇談会「静話会」を主催していました。ラジオ屋の佐久間恒雄さんに教えて頂いて、鉱石ラジオ、電池式ラジオまで試作しました。

 
戦 後
 昭和22年4月20日には飯田の大火で類焼し、味噌醤油醸造業の父母は再建のため、まるで創業の労苦を強いられました。
中学時代はラジオ作りなど興味の赴くままに試作などをしました。父も新しがり屋で伝馬町時代からずっと、こうしたことを父母は許してくれました。飯田高松高校に入ると物理班で活躍、趣味が高じて信州大学の通信工学科に学び、NECに就職、弱電技術者として半生を送ることとなりました。


技術者として
 言わば猛烈仕事人間で技術者時代を過ごし定年を迎えました。この間に色々な体験を通して育てられましたが、特に印象に残る技術開発をしており、年限も経ち支障がないものと思われる範囲でこのHPで紹介することとしました。

 奇しきご縁に恵まれ拓殖大学に職を得て数年間を過ごし、その後も技術コンサルタント「詳技苑」を開き、ある会社で主に電波液面計の開発指導をしました。

 東京に出て間もなく故郷は36災害に襲われ、父母はまたも復興の苦労を強いられました。東京オリンピックの時に結婚し、一女二男に恵まれました。


そして

 
 2012(平成25年)に喜寿を迎え、技術活動に限界を感じるようになり、技術から離れ言わば文系のことに興味を移しました。
 地域活動の一つとして古希から日野市国際交流協会のホームページを数年間分担した経験も活かし、記憶が確かな間にと喜寿からホームページを開設し始めました。
また、学生時代から合唱に親しみ、日野市の第九には2009年より毎年参加しています。

     このHPの内容は略次の三分野に分かれています。
     1.生い立ちから電気への興味、学生期まで
     2.就職後特に印象深い体験、最近の体験
     3.生まれ故郷飯田の歴史に関連したこと
など 

    
いつ頃 幼少~成人の体験、主に電気技術への興味 容 量
 1943 自作鉱石ラジオを持って飯田中継放送所を見る  こちらをどうぞ  0.6MB
 1944 電池式ラジオを初めて作る。 こちらをどうぞ 0.5MB 
1944   デルビル型電話機。  こちらをどうぞ  0.6MB 
1945 名古屋空襲、空から銀紙(チャフ)が舞い降りた。 こちらをどうぞ 0.5MB 
1951 ライツ型 マイクロフォンの自作  こちらをどうぞ 0.6MB 
1952 焼け跡のダイナミックスピーカーを再生 こちらをどうぞ 0.7MB 
1953  自転車発電機による小無線機  こちらをどうぞ 0.5MB
1954.3  初期のMT管による5球スーパーラジオの自作 こちらをどうぞ 0.9MB 
1957  FMラジオを自作しFM試験放送開局(12.24)を聴く こちらをどうぞ 0.7MB 
1959  卒業研究でスペアナを作る。 こちらをどうぞ
2016年12月卒業研究実験ノートに挟まれた青写真回路図を発見!! 掲載しました。
2MB 

いつ頃  技術者になって以降の体験、最近のこと  容量 
1964   東京オリンピックの思い出
Syncom3号 による初の太平洋横断TV中継 こちらをどうぞ
2MB
1964
 2016.04.10
1964東京オリンピックと杉並」衛星通信関係者部分協力
 杉並区郷土博物館研究紀要22号2015.03同上座談会記 こちらをどうぞ
抜粋転載 
1964
(2016.10.01)
東京オリンピック衛星中継成功物語
飯田高校東京同窓会誌「稲穂 No.13」に載りました。こちらをどうぞ 
0.5MB
 1971  三次元レーダー開発に参画 こちらをどうぞ 0.5MB 
1972
2005
日本初の人工衛星「おおすみ」打上に貢献 
唯一のDopplerカーブ、33年間で軌道寿命が尽きた。 こちらをどうぞ
 08MB
2001.3 衛星イパーブ高精度化の研究(論文) A4 150頁国会図書館蔵他 抄録  0.9MB 
 1970
2003,5
 第23届中日工程技術検討会に参加 陳水扁総統を表敬訪問 記念写真
2003 tracking radar
こちらを 2005 agc talk こちらを
 2.7MB
0.26MB
 2004 船舶救難用の衛星イパーブを開発 グッドデザイン賞も獲得 こちらをどうぞ   html  
2012
(2016.07.18)
伊佐実長波送信所アンテナ考  こちらをどうぞ 0.5MB 
2013 太陽光発電 夏期風冷増力装置 こちらをどうぞ 0.4MB  

いつ頃  故郷のことなど 謂わば文系 容 量 
明治末期大正昭和  幻の伊那電車の歌 作歌事情、録音、採譜音声
最近
龍西を通る伊那電路線案が発見されこの機に改版 こちらからどうぞ
音声掲載は懸案でしたが、近々掲載を計画しています。 
PDF0.48MB
 1936-54 生家の思い出
文政年間醸造業の自宅、大正時代町並工場平面図など更新。
こちらをどうぞ
3.7MB
1946  奥さん こりゃ 火じゃございません 色でございます。
     疎開された森田草平先生が発した言葉 こちらをどうぞ 
 0.2MB
  1961.7 飯田市今宮町付近の36災害  こちらをどうぞ  1.5MB 
 1947.04.20 焼け行く飯田の街を一人見つめて 「伊那」2007.12月 こちら  1.8MB 
2013.10 写真と日記で綴る小塩完次とよ子の禁酒運動 世界連邦運動の歩み
 
日本禁酒同盟資料館刊行 B5版150頁 写真300葉 装丁はこちら 
国会図書館
長野ほか県立
飯田市立
図書館
2013   一途に求め続けた伊那飯田の先達 南信州紙掲載 こちらをどうぞ    0.6MB
2013  足尾銅山鉱毒問題に田中正造と共に戦った潮田千勢子南信州紙 こちら  
潮田千勢子の墓所と顕彰碑  こちらをどうぞ

0.6MB
 2013 飯田大学の夢を描いた宮澤芳重と小塩完次の交流 南信州紙 
          上 こちらをどうぞ。こちらをどうぞ
 

0.6MB
2014  金属腐食・防食学を究めた下平三郎 南信州紙 こちらをどうぞ   0.6MB
2014 苦節20年 根本 正と未成年者飲酒禁止法 根本正顕彰会 こちらを  7.5MB 
 2014.10  1964東京オリンピックと杉並」"衛星通信関係者部分協力” 
杉並区郷土博物館研究紀要部分転載22号2015.03同上座談会記 こちら
2016.04.10 
2014.11.3 宮沢芳重氏について 高校同期会での記念講演  こちらをどうぞ  4MB 
 2014-5 幻の伊那電車の歌 歌詞 録音 採譜 再現の経過 こちらから 0.3MB
2015.11  奥さん こりゃ 火じゃございません 色でございます。 
(上1946の体験を編集南信州紙掲載) こちらをどうぞ 
0.9MB 
 1964春 婚約期に日夏先生を訪ねて  こちらをどうぞ  0.56MB
2015.11  南信州に長い銀紙が舞い降りた南信州紙
          (幼少体験1946を抜粋掲載)   こちらをどうぞ
0.8MB 
2016.01.01 南信州 新年号15面 傘寿の新春を迎えて南信州紙 こちらをどうぞ   0.8M
2016.01.30 清貧に堪え大学創設を夢見た宮澤芳重さん こちらをどうぞ   
宮沢芳重没後45周年記念事業実行委員会編いま宮澤芳重]より転載
3.5MB
2016.03.12    「初の断酒会を拓き 断酒修養会を営む」
(一財)日本禁酒同盟 断酒修養会
主編集者小塩立吉
B5版144P
希望者に頒布 ¥1500 
装丁はこちら
国会図書館
飯田市立図書館
 
2016.03.16  幻の伊那電車の歌(2014-5の記事関連南信州紙) こちらをどうぞ 0.9MB 
 


小塩 立吉

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