公務員41年    戻る


小中俊雄: 農林工学系年報 平成9年度:1997 特別寄稿


1. 就職

 昭和31年大学卒業後農林技官として公務員になり、鴻巣の農林省関東東山農業試験場に勤務することになったときの初任給は、たしか7800円か8700円であった。この40年で約30倍になっているが、実感は10倍ぐらいであろうか。物、特に食べ物は実に豊かになり飽食の時代を迎えている。ありがたいことである。戦後の食糧増産の政策に沿ってその一端を担った者としてある種の充実感を持てるのは幸せなことであろう。

農業試験場の雰囲気は実にのんびりとしたもので、レクタイムと称してスポーツのための休み時間をたっぷりと楽しめたが、研究のための勉強会なども退庁後開いていたものである。娯楽は少なく、映画を見に行くのが唯一の楽しみともいえる時代であり、年末のダンスパーティでは蝶ネクタイのバーテン(大豆の研究者、後の九州大学教授)が器用にシェイカーを振っていた様が今でも強く印象に残っている。

試験場の農業機械の研究員は、国営検査に従事し、メーカーの技術者との交流は親密であり、現状の力関係とは逆に研究や技術に関してメーカーをリードしていた時代であった。

昭和40年代になって、構造改善事業や大型機械の導入が叫ばれ、バインダー、コンバイン、田植機が次々に開発され農業機械の黄金時代が訪れた。今思えばこの時期が農業機械研究の最盛期であった。イクルマの田植機(イタリア製)など外国の大型機械が輸入され研究に供試された。一方、国内の発明者が田植機やバインダーの試作機を持ち込んできて試験を担当したが、初めはこんな物では実用にはほど遠いと思った。奇想天外な打ち上げ花火式直播き、実用直前までいった植苗紙などいろいろなアイデアや実験が続けられたもののなかから、現在の農業機械が生まれてきた。

2. 米国留学

昭和40年科学技術庁の在外研究員として、アイオワ州立大学へ留学できたことは、その後の研究の方向に大きな影響を与えた。ひとつは、マーフィ教授(原子力学科:Similitude in Engineeringの著者)から相似性理論を習ったこと、もうひとつは、統計学でレベルの高いアイオワ州立大学でコンピュータに初めて接したことである。前者はのちに学位論文「代かき土壌物理性の相似性研究」に応用され、後者はミニコン、マイコン、パソコンと遍歴するきっかけとなった。

また、アイオワ州立大学で実学的な教育の一端と、自由でアイデアに富む研究手法に強い刺激を受けた。わかりよい授業、単位不足による容赦ない退学追放、指導教官ビュックレ教授の実習の授業で機械の開発から製作まで行うことなど感銘を受けた。

当時はまだ米国留学など珍しい時代で、出発の時試験場の部長室長が羽田まで見送ってくれことなど今の人には想像もつかないことであろう。為替は1ドル360円で、生活は苦しかったが、まだ日米の差が大きかったときであり、大きなアイスクリーム、分厚いビフテキや自動車などアメリカの豊かさをいやというほど味わった。1年3ヶ月で修士を取得し、帰国途中にハワイワイキキで家族一緒に海を楽しんだのが夢のように思い出される。再び試験場の官舎に落ち着いたが、日本のインフラの悪さに不平不満をもらしたことをつい昨日のように思い出す。 

3. 大学と試験場

昭和43年試験場から三重大学へ転勤した。組織のもとでの研究の仕事から、学生の教育と自由な研究のできるところへ移ってきたというのが第一感であった。時間配分からみると、試験場の研究員では80%研究、20%普及その他であるのに対し、大学の助教授では40%研究、40%教育、20%管理運営その他という感じであり、予算的には試験場の方が数倍多いと思った。ただ、大学では個人の発想を束縛なく研究に生かせる点で十分に能力を発揮できるのではないかと評価している。

4. 筑波大学

昭和52年から現在まで20年間筑波大学にお世話になった。筑波大学には、新構想大学として講座制のない国際的、学際的分野を重視する新しい大学として期待していた。当時の学園都市は、道路や陸橋などのハードウエアは一応完成していたが、町並みが充実してきたのは万博以降といえよう。公務員宿舎の数は十分であったが、駐車場の不備や物置のない欠陥が目立った。学園都市の設計担当者は優秀な建築設計だったと後日賞をもらったと聞いて、住み易さなどあまり考えないのが苦々しく思えた。広々とした道路に象徴されるつくばは、ごみごみとした狭い路地をイメージする人にとっては住み心地のよくない街であろうが、その後現在の自宅へ引っ越して、夫婦とも運転する私の家族にとっては非常に快適と思える街に熟してきたようである。

50年代の農林関係分野は東京教育大学からの移行問題の尾を引き大きな歪みもあったが、泊まり込みで学系の研究体制を検討するなど多くの教官は新しい筑波大学を作り上げるのだという意欲に燃えていた。しかし、教育組織の学群学類と研究組織の学系など二重組織による会議の多いこと、新しいカリキュラムや研究体制の確立など大きな困難な仕事が多いこと、講座制のない割りには以外に束縛的拘束的な管理運営に直面して、やや疲れ気味の点があったのは否めない。また、ある研究打ち合わせでこれからはエレクトロニクスなどの応用が重要であるという意見を述べたところ、「いやそんなものは必要ない」という考えの先生がいたのには驚いた。本当の話である。その先生も時代の流れには逆らえず今ではパソコンをよく使うようになっていたのは皮肉であった。農学研究科の運営についても、初め博士課程ができたことをまじめに運営することが第一であり、非常に手堅い規則を作ったようである。また、運用面では、柱など現在とは相当異なる解釈で若手の意欲を摘み取ったことも間々あった。

いずれにしても、無から有を作り出すといえるような新たらしい大学作りが楽にできるはずがなく、一つ一つの積み重ねによって地道に行うことが一番の近道であると感じている今日この頃である。そういう意味で、最近の農林関係分野のめざましい充実ぶりには、みなさまの努力の結果であり、非常に喜ばしくご同慶の至りである。

5. AITとFAO

昭和54年から二年間アジア工科大学で教鞭をとることになった。このことが、本学系の定員確保の一端を担ったことを知る人は少ない。AITは、英語を公用語とする大学院大学で教官は主として先進国から、学生は主としてアジア、アフリカなど40数カ国の国籍を持つ人々の集まりであり、私にとっては実に貴重な経験であった。

学生は真面目で優秀であり、教室では礼儀正しく、遅刻するものはなく、気持ちよく授業ができた。卒業生は、修士あるいは博士をとって今ではそれぞれの国の中心になって活躍している人が多い。教官は米国、西欧、インド、タイなどいろいろな特徴を持っている教授が多く、日常が国際交流の毎日であった。

タイの生活ぶり、人付き合いは悠々として味のあるものであった。キックボクシング、ゾウの野外ショー、人が踊りながら駒の役をするチェスなど珍しい芸能を楽しく味わったのも幸せであった。

多くの外国人とつき合って、人間はそれぞれ独自の文化や習慣をもっているので、お互いの人格を尊重することがもっとも大事であることを悟った。一方、日本でよいこととされていることが外国では必ずしもよいことではないということも極めて重要な指針である。例えば、平等はよいことと信じて、階級社会である外国で平等な人間つきあいをすると往々にして誤解される。また、あるJICA関係者がいった「4A」すなわち、あせらず、あわてず、あてにせず、あきらめず、という表現はまことにうまい言葉であるのでよく引用させてもらっている。

昭和62−63年には、FAOコンサルタントとして南京農業機械化研究所で一輪型田植機の研究開発の指導を行ったが、担当者は非常に優秀で熱心であった。そのときの中国政府との事務連絡担当に、私と同じ年代の女性研究者が当たったが、後日そのひとのご子息の世話を引き受ける縁があった。そのときの彼女の手紙に、「長い間、私は子供の頃戦時中の日本人をみて、日本人は悪くて信用がおけないと憎んでいたが、日本人にも平和的で信用のおける人がいることを知って、考えを新たにした。」という文があり、私は戦争の悪夢を今更ながら感じて、日本人の一人として少しでも誠意を伝えることができて非常にうれしく思った。

6.この一年

定年前の1年、大学生活の総まとめとして講義のソフトウェア化に取組み、あらためてその難しさ、そして多くの時間と労力がかかることを実感している。

まず、教材のワープロ入力から始めたが、最近のワープロソフトは高度の機能を有し、文章中に写真・音声など種々の映像を張り付けることができるし、もちろん別の文章をボタン化して挿入できるので、特別なソフトウェアを使わないでもハイパーテキスト型教材の使用が可能であり、高能率の授業が実現できる。

農業機械の種類や諸元をデ−タベ−スにまとめることは、数年来続けていることであるが、文字、数値情報はどうにか軌道に乗ったが、音声や写真や映像などの情報デ−タは非常に入手しがたいか手間のかかる作業であるので遅々として進んでいない。

システム工学の数値解析などを中心にVisual Basicを用いてプログラミングし、簡単な操作で演習問題などのアプリケ−ションを使用できる教育ソフトウェアを試作して、「生物生産システム工学」という本とCD-ROMソフトウェアにまとめた。これのお試し版を製作して授業に使用してみたところ、居眠りする学生も見かけられず、大学教育の未来の一端を確信した。もっと早くから使っていたらと悔やんでいる。

また、E_mailによるレポートの提出なども、インターネット時代の今の学生にとっては抵抗なく受け入れられるものであるらしく、レポートの提出をE_mailでもよいとaddressを知らせたところ四五十名のうち約二十名の学生がE_mailで提出してきた。時代の流れを感じている。

7.サロン

研究についてはその重要性について多くの方々が論じておられるので省略するとして、ここでは、大学が大学であるためには、授業方法などの早急な改革が不可欠であり、教育機器施設の充実と教育ソフトウェア開発研究の重要さを強調しておきたい。というのは、社会全体に情報があふれていて大学の優位性に疑問を感じるようになったからである。

さて、筑波大学にあこがれを感じてきた私にとって、最後まで果たせなかった夢がひとつあります。それはサロン風の雑談の場が得られなかったことです。もちろん暑気払いや忘年会などで歓談することはあったが一過性であり、優雅にアカデミックなはなしのできるくつろぎの場所が欲しかった。公的交通機関がない学園都市では、街のバーなどを活用しにくく、そのような設備がどうしても学内に必要であると考える。新しくできたバイオシステム研究科の建物や農学研究科の設計図には、サロン風の部屋がありこれからが楽しみではあったが、筑波大学の青表紙にあった大学の厚生施設がいまだに計画のままに終わっているのは寂しい限りであった。

8.感謝のことば

公務員生活41年、とくに筑波大学勤務20年間、初めは苦しくても次第に豊かな生活、楽しい仕事をさせていただいたことは、我が国の社会全体の繁栄と、本学系の皆様方のあたたかいご協力のたまものと深く感謝している次第であります。ありがとうございました。

C:\data\WORD\公務員41.doc   97/04/29

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