特別寄稿

タフネス・イツトセルフ

鶴丸高校長栗川久雄

春風秋雨七十年。「鶴丸」には造士館・加治屋町・尾畔原頭を通して脈々として伝えられてきた、古き良き精神的伝承がある。

それは薩藩士風に源を発したものであつて、これをゆるぎなく承け継いでいくためには、全生徒をして質実剛健な生活を厳として維持させていく以外に道はない。

「元気、根気、勇気」「粘り強く、根気よく」「強い体と強い心を」「かいがいしく、たのもしく」と、時代々々によつて言葉はそれぞれ違つているが、鶴丸教育は一貫して、国家、社会の柱石たらんとする人物を養成するために、一言で言えばtoughness itself たくましさそのものを生徒の身に着けさせるために努力しつづけてきたはずである。

第三回卒業生の方々も、在学当時を想起して今後とも、タフネス・イットセルフを生活信条としていつてください。


 思い出すまま

県教委 指導課長 松山国男

一中と一高女の、それぞれの末つ子たちを一年生として、鶴丸高校が発足したのは、昭和二十四年であつた。その前年一高女側(当時の第三部)の教員になつていたわたくしは、母校である一中の後輩たちが、ご時勢とは申せ、女の子の学校に養子入りするとは、な

んたるふがいなさぞと概嘆したものであつた。その間のいきさつは紙面の都合で省略せざるを得ないが、とにもかくにも、高校一年から男女共学の妙味(?)を体得できたのは、君たちが最初である。

その君たちも三十三才、大部分の人が、父となり母となつていることであろう。三十三才といえば、昭和二十四年のわたくしの年令である。鶴丸の基礎づくりに夢中であつた当時をなつかしく思い出す。憎まれるのを覚悟の上でテストで攻め単位でしぼつていたチヤマ、先生も、もう五十一才である。

いつかゆつくり君たちと話し合つてみたいものだ。


 命名

市教委 指導課長 西村意一

 授業をしようと、教室には入つてみると、黒板に大書してある。

祝西村先生女子出生 名前を募集する。入選者には国語の点数を増してやる。

そして、その日の学級日誌に次のような記事があつた。「クラスで評議の結果『和子』と決定しました」と。

カズコというのは私の名前にも関係があるし、せつかくの諸君の好意でもあるので、これにしたかつたのであるが、いとこに和子という名があるなどの事情で、それができなかつた。

昭和二十六年六月某日のことであつた。この諸君が翌二十七年鶴丸卒となるわけである。私には三男一女があるが、その一女の成長を見るにつけて、二十七年卒の人達に別れた月日を思うことができるのである。


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