空港造りへの反省 その1

平成8年

川田和良


まえがき、空港建設バブル論建設と運営処理能力の求め方飛行経路騒音問題チェックイン方式搬送設備


まえがき

私は 航空会社に入社したが、飛行機そのものをいじるとか、旅客や貨物のサ一ビス等に関する業務は少なく、その後の3O数年は 空港がらみの仕事が殆どの期間を占めた。
成田空港の初期計画のため運輸省へ出向したのが運の尽きと言うか、運がついたと言うべきか、その後、親会社へ帰ってからも、役所との連絡・調整係の役目はついて回り、旧羽田、成田や伊丹の滑走路、エプロン、ターミナルの建設計画、またこれ等の空港に関する航空機騒音問題が私の主な仕事になった。
そして最後にどっぷり浸かったのが、関西空港建設であった。土木や建築に絡む話は、正直いって興味はなかったのだが、気がついてみると、航空会社の中では「飛行場屋」のレッテルが貼られていた次第である。・’ もちろん、わが国では、国が公共用飛行場を作るので、航空会社側の人間はあくまでアドバイザーでしかないが、それでもうまくいかなかった場合には、外部、あるいは後年の人達からの批判に責任を感じねばならない。


昔、土木関係が専門の役所の人が教えてくれた笑い話がある。
曰く、ほんの片田舎の橋をたった一間架けても、3000人の人が、口々に、「オレが架けた、オレが架けた」という事になる。 例えば、まずその橋を作った大工と石工で2人だろ。 次にその辺の地主、村の土木職員、村議、議長、村長、県職員、県知事、そして代議士までがそう言うのだから、それを数えていけば、たちまち300O人位にはなるというわけさ、と。
確かに、造られて誰にも好評なものは、皆が「オレがやった」と言い、その苦労話がいろんな機会に披漉されるから、次の計画者にも受け継がれる。
一方、あまりうまくいかなかった事柄は、当事者が触れたがらず、多くの場合、その原因と共に埋もれてしまい、次期計画への教訓とはならない事が多い。
自分の失敗は勿論、他の失敗例でも率直に次代に語り継ぐべきではなかろうか。
ちょっと大上段に振りかぶり過ぎたかもしれないが、以下に私の関係した、或いは知り得た失敗とか問題点、そしてその反省を述べてみたい。
....上記のつもりで書き始めたのであるが、話があちらこちらに跳びすぎたこと、かならずしも反省論ではないものもある。 でも、真意はこれからの空港計画への一助になればとの気持ちなのでお許し願いたい。


空港建設バブルと、「ハブ&スポ一ク」論

最近、東南アジアにおいて大空港の建設が盛んな事は、既にご存じの通りである。
シンガポ一ル第2期、新クアラルンプ−ル、新香港、新上海、新ソウル等々、何本もの滑走路を有する雄大な計画が多い。
何故、空港を大きくせねばならないか?
1)これ迄の航空需要の増大に追いつけず、空港が混んでいる、
2)これ迄の需要増傾向に対処する以外に、大きな空港を作れば、飛行機の発着が便利になるから、それが新たな航空便を引きよせ、周辺都市の経済発展に寄与するであろうとの見込み、
3)これ迄の需要動向には関係なく、大きな空港を作れば、飛行機の発着が便利になるから、それが新たな航空便を引きよせ、周辺都市の経済発展に寄与するであろうとの見込み、
等の、大きく分けられた理由になるのではなかろうか。
上記の1)は、我々 日本人の最も得意とするやり方であり、所謂、「後追い方式」である。
2)は、日本の地方空港と東南アジアの空港計画に多くみられる。
3)は、2)の発想を更に将来の需要予測にむけて膨らませたもので、これを支える論法の主部分は、近年流行の「ハブ&スポ−ク」論である。

ここで、少し「ハブ&スポ―ク」論の中身をみてみたい。
航空界でこの言葉が聞かれるようになったのはこの十数年のことであるが、事の起こりは米国アトランタ空港や メンフィス空港であったと記憶する。
我々にとって「風と共に去りぬ」でお馴染みのアトランタ市は、ここを根拠地とするデルタ航空と組んで、大空港を建設した。
アメリカ東部、西部の航空旅客を一旦ここに集め、ここから近辺の中小都市へ、乗り継ぎ客として再度送りだす、或いはその逆に、中小都市から集めて東部や西部に送り出すという路線網を構成した。 こうすると、比較的需要の少ない中小都市行きでも、便を纏める事が出来るから、搭乗率が上がるし、便数も増やす事が出来る。
その結果、最近の資料によれば、航空機発着数、旅客数がそれぞれ世界第4位、第5位にあり空港繁盛計画が、成功したようである。
一方、フェデラルエクスプレス(貨物航空)は、メンフィス市を中心とし、貨物を相手に、デルタ航空と同じ方式をとった。これも大成功を収め、フェデラル自身とメンフィス空港の貨物取扱量を世界一に持ち上げたのである。
アトランタといい、メンフィスといい、人口はそれほど多くはないのに、土地だけは滅法広いものだから、空港拡張は難し<なく、周辺社会の中での空港労動人口の比率が急上昇した。
結果として、地域経済に与えた効果は大きく、「ハブ&スポーク」構想の優等生に挙げられた。
アジアに目を向けると、20年以上前にシンガポ一ル政府が計画した、交通の要衝としての新空港建設は、タイミングのよさとその後の経済成長に支えられて大きな効果を上げ、現在の東南アジアにおける建設旋風の源となった。

さて、現在のような旋風がそのまま続いて、計画された空港全部が今のままの規模で完成したらどうなるであろうか。
計画時に、独自の需要、つまりその空港を出発地又は目的地にする需要、に自信の無いまま、ハブ空港としての需要を水増ししたものであれば、その分は他の競台空港とのダブルカウント、つまり「取らぬ狸の皮算用」であって、着陸料収入が予測より大幅に下まわるであろう。
私見ながら、大空港の建設バブルが、今や東南アジアに広がっているようにみえる。
かって カナダのモントリオ−ルに、ミラベルという36、000へクタ−ル(関空の70倍)の用地をもつ大空港を作ったが、年間輸送量順位リストのどこにも見当たらないという悲劇?もあることだし、東南アジア各国間で使用目的や路線便数の予測等を調整しあって、無駄のない空港規模にするべきではなかろうか。
以上のような情勢のもとで、「ハブ空港計画に乗り遅れるな」と、関西空港第二期計画を煽るのは、甚だ危険な感じがする。
前述のように、
1)広大な土地が安く入手出来、
2)周辺社会が小規模で、
3)地理的に航空路線網上の中心となり得る位置
であれば、ハブ空港建設に努力する理由は判る。
しかし、「ハブ空港にならねば関西の経済界は没落する」と騒ぐのは、本末転倒もよいところで、玄関をいくら立派にしても、よい商品の少なくなったデパ−トにお客が増えるわけではない。
一寸、別の観点からいうならば、航空輸送の最大の魅力は、出発地/目的地の2地点間直結輸送にあり、長距離機が発着できる30O0メ一トル以上の滑走路を持ち、需要もそれなりに増えてくれば、ハブ&スポ−クの運航などの手段よりも直行便が発達するのであって、昨今の東南アジアの国々はそのような状態になりつつあると理解するべきであろう。
ここで念のため述べておきたいのは、関西空港第二期の計画はもっと正論、つまり国際/国内の需要と横風対策必要論、で押すべきものであるし、その論拠も十分にあるということである。
その際、国際/国内のハブとしての主張は必要なことと思うが、国際ハブ空港競争論をまともに信じて走れば、何時かハブの毒で足が揮れるであろう。

空港建設に必要なのは、人と金のどちらが先かわが国の空港は先にも述べたように、国の財政によって賄われているのが殆どの場合である。
成田でも、関西でも、羽田沖合でも何でもよいが、運輸省あたりが発想し、その年度計画と共に大蔵省へ説明した上で何がしかの予算が組まれる。
むろん、「思う存分やってみろ」なんて気前のよい主計官なんて滅多に居ないから、ザックリ削られるのが普通のコ−スであるo  成田空港の原計画は、現在の位置のすぐ隣りの富里地区を候補地として、滑走路4000メートル2本、2500メ一トル2本、3200メ一トル1本の計5本を有し、総面積は2000へクタ−ル級のものであった。  その後、用地取得の難しさから、現在の場所に変更されたのであるが、それと同時に面積もザックリというかバッサリというか、いともアッサリ削られている。  そして第一期としてようやく開港した時点では、滑走路1本で面積はたったの500へクタ一ルと、原計画の4分の1になっていた。
司馬遼太郎氏流の表現をかりると、「この国のあり方として、古来、そして現在も脈々と続いている思想に、事の決断をせねばならぬ段階に至ると、その事を折半、つまり、互いにゆずり合う、例えば規模を半分にするとか、予算を半分で折れ合うとかの、つねに妥協の精神があり、それを惰”協とはせず、むしろ謙譲の美徳とする.......」・という文章になろう。
少々愚痴めいた話になってしまったが、成田計画は候補地変更時に半分、計画実行時に更にその半分と、結局、四分の一になった。
関西国際空港、つまり関空の場合でも、計画を実施に移す段階で、滑走路は3本から「とりあえず1本」ということになっている。 この計画を実施する際に、最も大きな障壁になったのは、この規模の空港で運用した場合の着陸料等の収支予測からすれば、本体を一兆円程度で建設せねばならないということであった。 とにもかくにもこの計画を転がさねば...。と、運輸/大蔵の担当官は骨身を削った挙げ句、埋め立て費、建物建築費等の骨身まで削ってしまう妥協の結論となり、後日、空港会社を苦しめることになる。
例えば、埋め立ての土量について、予想沈下量の最も少ない、つまり最も楽観的な予測値を使かい、建物にしても、とても足りそうにない面積や単価で計算されている。
当時の担当官を駆り立てた使命感はよく理解できるし、転がすための妥協も止むを得ないと思うが、その際に妥協し合った状況や条件が何故付記されていないのか、我々民間会社の者にとっては理解できないところである。 役人の交替は早く、その妥協された計画が実行される年代には、事情を知る人が皆無に近いから、実施予算要求額の激増について、「とんでもない!」だの、「うそつくな!」だの、議論が零から始まることになり、多大のエネルギーと無駄な時間を費やすことになる。
私が空港会社にいる間、何回か、この様な苦しみを見たが、初めのうちは上述のように、金での障壁ぱかりが目につき、財政システムへの不満が強く、このような大計画には「まず金が必要」というのが実感であった。
しかし、関空の建設が進み、長大な旅客ターミナルビルの建認にとりかかった際、資金不足のため、ウイングの両端を中途で打ち切らざるを得ないという、真に無様な事態になりかけたことがある。 我々担当レベルの者は、切歯扼腕していたところへ二代目の新社長が着任し、事情を察知するや大阪府と市に頼み込み、巨額の不足額を借りてビルを完成させた。
それを見て、ほっとすると共に自分たちの能力不足をまざまざと見せつけられた思いであった。
一方、同じ頃に航空機用給油施設の方も建設にかかっていたのであるが、こちらは一向に頓挫しそうになく順調にすすんでいる。 当時はバブルの最中であり、資金不足でない筈がないと思って、担当の係長に尋ねると、ニヤリと笑って「金の不足はありません。そうなりそうだったので、昨年、今年の連休を中央官庁との折衝に捧げました。」と答えた。
彼は、オレがやらねば...と思いこんでいる熱血漢で、仕事に熱中すると、言葉が喉に詰まって出て来なくなるタイプだが、そのひたむきさは、口うるさい交渉相手の外国航空会社の連中にも判るらしく、二三のやり取りの後は、「モウワカッタョ、マカセルョ。」と、苦笑と共に比較的簡単にけりがついたことが多かった。

このように巨大計画の進行を見てくると、やはり「有能な人が金より先」であることをしみじみと感じさせられる。 次の新空港計画のために付け加えるなら、成田や関空で苦しみを経験した社長や役員クラスがその計画のトップとして最適だとおもう。


3

空港バブル論その2

九月の下旬に、インテックス大阪で、アジア太平洋空港会議が開かれた。
この会議は、大阪市の外郭団体の主催であって、国家間の会議ではないから、それほどの強制力はない。 そう思って、大して期待もせず出席したから、却って面白かったのかも知れないが、実際は数十の空港当局が出席し、非常にストレ−トな意見が続出した。  内容としては、前回の空港バブル論そのもののフルコ一スであって、我が意を得たりと大喜びする共に、「自分だけが心配している」との気負い?を外すことが出来て、ホッとしたのである。東南アジアの人は、自分の想像以上に賢明なのだ。
それに較べて、日本国内の一般感覚の方が遅れている。
一つに、ハブ空港構想とは何か、その本質論を考えてはいないこと、
二つに、その構想が、すでに時代遅れ、かつ時期遅れなのに気づいていないこと、
である。
関西に、バブル空港が二つ、「造れ、造れ」とか、「止めろ」とか騒がれているが、私には、何が理由で本気の議論をしているのか、さっぱり判らない。
それは、神戸空港と、びわこ空港のことであるが、特に前者は、何故造るのか判らない疑問が、幾つも頭に浮かぶので、誰か明快な回答を与えてくれないかと思っている。
疑問その1.当然、国内便だろうが、何処へ飛ぶのか、何処から来るのか、もし需要があるのなら、それは新幹線では駄目なのか、或いは何故伊丹を使わないのか。
疑問その2.作っても、真上を関空発着の航空機が飛ぶ、さらに伊丹発着機が重なるのにどうやって空港を運用するのか。
疑問その3.時折、「関空の横風用」との理由が挙げられるが、旅客と航空機、CXQ の輸送方法を含め、関空と神戸空との間で、風まかせのその日暮らしが現実に出来る  
と考えているのか。
以上、神戸空港をコテンパンにやったつもりだが、所詮はごまめの歯ぎしりかな?いやいや、同じ虫でも「一寸の虫にも五分の魂」というではないか!次のびわこ空港もやり玉に挙げよう。
こちらは疑問が極めて簡単、「誰が、或いは何がその新空港を利用するのか? すぐ傍に名神高速があるのに...」である。・永源寺近辺の農家だろうか? 日野菜だろうか? はたまたオムロン製品だろうか? いろいろ想像してみても、名神高速がすぐそれと取り変わってしまう。
先日、テレビで、震災後の神戸港がハブ港としての地位を、釜山港に奪われたままであること、そのほうが総合的費用が安いことに荷主が気づいている事等が報告されていた。 この事態こそ、海と空の違いだけで、ハブ構想の儚さを示す実例であろう。
「釜山港へ帰れ」の演歌どころではなく、 「釜山港よ返せ」なのだが.....「空港は作る時にも金を落とし、作った後も金を産む桃源郷」という過去の亡霊、或いは、魔力を失った魑魅魍魎(チミモウリョウ、さまざまな妖怪のこと、そらではとても書けないので、面白半分にワ一プロを叩いたら、ちゃんと出た..)が、まだ地方自治体を追い回しているのではなかろうか。  痴呆自治体にならないで欲しい..と書きたいが、いくらなんでも、これは言い過ぎになろうから、削るつもり。
船頭多くして、船、山に登る空港施設の中で、最も華やかで、人目をひくものは、旅客タ一ミナルである。   ここだけは誰でも利用した経験があり、外国の空港についてもそれぞれに贔屓があるから、深慮もなしに旅客ターミナル設計委員会でも作ろうものなら大変だ。    一億総評論家になってしまい、結論という船は、山に押し上げられたま、一向に下りて来ない。   やっと引きずり下ろしたとしても、 「無節操」丸という構想船に成り果てているのが落ちで、前後も判らぬことが多い。
本項にはいるなり、こき下ろしたが、設計者を選ぶ場合に十分調査し、これぞと思ったら任せて迷わぬことである。 ジャンボ機の出現と共に、世界中を空港再開発/新設ブ−ムが襲い、日本国内はもとより、世界中に経験あるビル設計者を育てたから、候補者に不足するとは思わない。 時おり、設計中の経過報告をもとめ、必要なら修正すればよい。
以下は関空会社における経験であるが、タ一ミナルの初期設計段階で、時間に余裕があったせいもあり、社外の知識人〔含む自選、他選〕と社内の幹部で委員会を構成したところ、恐れていた結果に落ち込みそうになった。   このとき、パリ空港公団の提示した、極めて特徴のある案、国際出発/到着施設の間に国内施設を挟んだ、いわゆるサンドイッチ構想によって救われたのである。   その後、さらに建物設計について、国際コンペテイションをやるべしと主張するむきもあり、余計な手間と時間と金を要した。   実用性とコスト削減を優先するなら必要不可欠な事であったとは思えない。
旅客タ−ミナルとその周囲にある車寄せや航空機エプロンの形状決定は、空港設計の中での最大の目玉と言えるし、用地が潤沢にあり、自由度が大なら、いろいろの発想をしたくなるものである。   特に、このような計画に初めて携わった場合であると、まるで前人未踏の土地に来たような気になり、張り切り過ぎて、実用上の醒めた目でみると、とんでもないプランになっている事が多い。     例えば、旅客の歩行距離を減らすためにと、タ−ミナルを駐機エプロンの地下に作る案を考えたり、多層駐車場と同じく駐機エプロンを何層にも重ねたりする珍案や奇案が出てきたり、空からみたらうっとり見とれそうな素晴らしいビルが提示されたりする。     このような場合に、上述の委員会にかけても、間違いなく議論は発散し、結論はでない。   ターミナルやエプロンの形状は、意外に昔から研究されており、 IATAの資料等に記載されているから、計画担当者が事前に調査し、現実性の面から候補案を絞っておくべきである。 上記の3案について、バッサリ切らせてもらうと、
エプロン地下案は、強度上と防災上の問題があり、将来の改築は至難、
多層駐機システムは、エプロン強度の問題に加え、巨大な飛行機をどうやって持ち上げるのか、芸術性多大のビル案は、誰がそう評価してくれるか、多分、管制官とパイロット、それに十分のーの旅客だけである。〔ジャンボ機の客席は、横並び10席であり、窓から外を覗けるのは、10人に一人〕
またまた悪口になってしまつたが、言いたかったのは、計画担当者は自ら責任を持って勉強し、現実的案を作って、頑固に主張せよということである。     そこらを夢見心地で探しまわっても、「青い鳥」は飛んでいない。

「反省その2」の前に、ちょっと一言、弁解めいたことを....
本文は、長い間、自分の心に思っていたことを、自由に自分なりの束縛されない表現で書いているつもりであった。
もともと、私流のフザケの多い文なので、「アイツ、また勝手なことばかり書きやがって」と許して下さるであろう方々に差し上げたものであり、公開の勇気はなかった。
本紙の編集責任者である浅島さんにもそのつもりであったが、「是非、載せろ」との厳命で、私は恐る恐る「反省その1」を掲載して頂いた。
ところが意外に真意を汲み取って頂ける方が多かったので、(でも、ホントはおだてかな、いや、けしかけだろうか?と思いつつも) 俄に「その2」以降を読んで頂く元気がでました。どうか悪フザケのところはお許し願いたい。
また、この原稿は半年以上かけて書いたため、項目によってはすでに改善されたり、情況が変わっているものがあるのでご容認いただきたい。


4

空港の建設と運営の組織

成田の空港は、ご存じの通り、公団組織で発足した。 私の記憶する限りでは、構成員が運輸省を始め、大蔵、国鉄、千葉県と幾つかの官庁組織からの出向者で占められていた。
当時は、日本の経済発展期そのものであり、第一の表玄関を国力のみで造る事に誰も疑義を挟まず、建設資金は国から出された。 航空会社もいろいろの技術協力を行い、交渉する事が多く、「公団は、硬団だな」と思った事もある。 金には渋いし、役所における前のタイトルが拠り所なのか、そっくりかえっている人もいたのを覚えているが、今考えてみると、あの時はあんなところでよかったのかも知れないと思う。 国の表玄関は、国がつくるのは当然だし、その〔玄関番〕が威張っていたって、一寸もおかしくないではないか。 まあ冗談は抜きにしても、表玄関たる第一種空港に類するものは、当面の収支にばかり囚われずに国が造るべきだし、その後に柔軟な運営を期待するなら、民間型の運営機関を設置すればよい。

さらに時勢が変わって、関空建設体制が議論された際、「民間はもっと金を出せ」とか、「全額、国がだすべき」等々の応酬に疲れていた関係者のところへ、時の首相から「民間活力を発揮さすべく、半官半民会社を作ってみてはどうか、国も相当の出資をする。」との提示がなされた。 考えあぐねていた関係者は、民間活力という、当時流行の言葉に酔って、これに飛びついた。 何とか計画を転がそうとしたための、無理は承知で作った資金計画を基礎にした会社なんて、収支合い償う事は、土台、無理な話である。
このような根本的問題を、腹の中に呑み込んだまま、会社が発足したのが、1984年10月で、職員数140名、運輸、大蔵、建設、自治、環境各省庁に大阪府/市、兵庫県、神戸市、和歌山県と多市済々であり、いうなれば、 〔多国籍軍〕のはしりであった。
半官半民と言いながら、民間会社からの出向は、当初わずか5名であったため、 「半官反民」だと皮肉る新聞記者もいたが、発足当初は巨額の費用を要する埋め立て工事が主であり、そのために民間の土建会社から出向者をもらっても、事業の配分について社外から痛くもない腹を探られる、いや、ホントに痛い腹を探られる事になったらもっと困るので、当初はこれくらいの民間比率でよいと思っていた。
その後、工事の進行と共に、民間からの出向者は増加していったので、記者からの皮肉は聞かれなくなった。 しかし、民間出身の管理職は殆どいないため、自分で一つの仕事をやりとげたとの実感を持つ民間出向者は、数少ないと思われる。
また、役員構成に関していえば、空港建設の専門家.それも成田や羽田、あるいは伊丹等で苦労した実務家を入れるべきであった。 新空港を〔桃源郷〕の如く考え、派手好みになった気配がある。 空港は、旅行の一つの結節点であるが、目的地ではない。 結節点としての空港は、気持ち良くスラスラと通り抜けられたら満点で、そこで止まって楽しむための目的地にまでは昇格していない。 多分、日本の風土では、未来永劫、昇格なし?
また、経営や営業の部門については、その長を含め、もっと早い段階で民間化すべきだったと思う。 開港後の現段階では、なお一層、その感が強い。
先に述べたように、空港会社が設立される前に、建設費や資金を含めたすべての計画が作られていたから、建設/運営をいきなり、民間方式でやれと押しつけるのは、元々、酷であった。
それはそれとして、赤字であると判っていても、その数字を少しでも減らそうと努力するのが民間会社のしぶといところであるから、今なら全社員、自分の首をかけて収入増に走り回っている時期である。    例えば、現在がら空きの駐車場を、値下げして入場台数を増やそうとか、空き地、空き部屋を「寝かしておくよりは.... 」と当面安い値段で提供し、関係企業の増築や、進出を早めさせ、自社の収入増を図るというやり方などは、民間会社なら真先に採る常套手段であるが、ここで 「 駐車料金を下げてもそれが台数増につながらなかったら、収入減少になる.. 」とか、 「 入居料を下げると、すでに入居している企業の分をどうするか.... 」という恐れや、消極論が出てくるであろう。
よく考えてみると、官庁からの出向者はもともと、公正かっ公平な判断をするように躾けられているから無理からぬ消極論ではある。

しかし、ここでもう一歩ふみこんで考えて欲しい。
たとえば、会計検査の時に「会社に損害を与えた」と判断されるかも知れないが、反対に「無収入のまま、放置した」という判断もあり得るのではなかろうか。
上記の駐車料金収入にしても、連絡橋料金とコミにして下げ、大阪一円の自家用来港者の車を誘い込むことを試行しては如何か。 それも総収入の減る可能性ありなら、「春のサ−ビス特別料金」とかなんとか、適当な理由をつけて2ケ月位値下げして結果をみるのであって、結果がよければ値下げへ、駄目なら元へ戻すのである。
認可料金として厳しい制約がある航空料金や鉄道料金でさえ、昨今はわりに気楽にやっているのだから...。
入居料にしても、 「先住民も同じく値下げをせねば...」と考えるのも硬直的で、そこは浪花節の本場のこと、大家は店子に窮状を率直、かっ辞を低くして打ち明け、まず新入居者を誘い込む策としての優遇策を説明し、その後に先住民の不満も減らす方策を話し合う方が関西商法に馴染むのではなかろうか。

これまで内陸部に吹き荒れているリストラ旋風が、やっと海上空港に到達した感ありで、これから四苦八苦の「だめもと戦法」をあれこれ採ることにより、最も大切な政府の理解と世間の同情が得られ、何らかの解決策につながるものと思う。


5

計画時における空港の処理能力の求め方

大きく分けて、二つあるように思う。
その一は、長期の航空需要予測を積み上げて寸それに応じられるよう滑走路の必要数や空域の容量を検討し、旅客ターミナルの規模や貨物施設の処理能力を決めていく方法であり、日本以外で主として用いられているオーソドックスなもの、
その二は、需要に追いまくられ、とりあえず作れるだけ滑走路を作り(といっても常に一本しか出来ないが)その発着能力に合わせて旅客/貨物の施設容量をきめていくもの、これは極めて日本的であり、後追い方式とでも言おうか....、 、の2種類である。
前者の処理能力限界の求め方においては、自然な航空機の発着パタ−ン(ダイヤ)がだんだん増大し、そのうちのピーク時の発着数が一日中で一度でも滑走路や空域の処理能力限界に達すると、その空港全体の一日の処理能力が限界に達したと考えるらしい。
後者の日本的な限界能力はもっともっと我慢強い考え方であって、「ピークの一時間だけが発着能力の限界に達したからといって慌てるな、その前後の一時間にダイヤをずらせば、まだまだ飛べる筈」と判断する。
日本人は、この限界以上の処理を、なんとかかんとか、やり抜けるのが得意なのだが、我々はこれを「我慢度」と呼んだ。 例えば、滑走路が一本しかなぐこ通常の発着能力が30回/時なのに、実際は33回/時処理されたとすれば、我慢度110パ一セントと称するし、成田の第一期タ−ミナルは500万人/年の容量設計に対し、年間22OO万人/年処理の実績があるが、この時、旅客に我慢度440パーセントを強いたことになる。
この我慢度百数十、いや数百パーセントを何年にも亘って続けられる日本人の器用さは素晴らしいと自賛したものの、IATAや外国航空会社からはボロクソの評価を受けたことは言うまでもない。
私は航空会社の実務的考え方に終始するのだが、空港は入国検査等、旅客に対して何等かの拘束感を与えざるを得ない場所になっているので、なるたけ早く通過させる、そして開放感に浸ってもらうのがベストだと思っている。
我慢度数百パーセントは言語道断であるとしても、百パ−セント強迄は大したことではないし、「一寸、混んでいたが、スルリと通り抜けられた空港」が最高と思うので、前者と後者の中間ぐらいが、経済性もみた私の妥協点であろうか。
チェックインを待ち疲れ、周囲に一杯の人から目を離して上方を見上げたら、そこには壮大で豪華な天井が....なんてシーンは考えたくない。  そんな金があるなら、フロアの拡張にまわすべきであろう。
今の「とにかく安い航空旅行を」というご時世からすれば、華美過度の設備は避けるべきだし、空港を「憩いの場所」とか、「寛ぎの場所」と考えるのは時期を失している。

またも横道に逸れたので当て舵をちょっと....
関空は年間16万回の発着が可能で云々とよく言われるが、現実の運航ダイヤパタ−ンからみれば、まず不可能な値であろう。
滑走路一本で発着の進入経路も今のままなら、時間当たり30回の発着が精一杯だと言われている。 前記16万回は一日あたり440回であり、これを30で割ると、約15時間の数値となる。 15時間という長さは、朝8時から始めると、夜11時迄になるが、その間、ブッ通しの30回/時の発着は航空管制上困難だし、航空会社に営業上の「我慢度」を求め、ピ−ク時外へのダイヤ設定を強いても、15時間ベタの発着量は出てこない。
深夜の貨物便、昼間の旅客便の我慢ダイヤを期待しても、年間14万から13万回がいいところと思われる。
16万回迄の発着の可能性を信じ、第二期分の運用開始をその時点まで遅らせたり、着陸料等の収入増を期待するとすれば、甚だ危険というべきである。


6

飛行経路.空域のこと

新空港なり新滑走路なり建設する際には、事前に環境に与える影響を評価し、それに関係のある周辺住民に説明する事が義務づけられている。 各地区で説明会が開かれ、質疑応答がなされるわけであるが、必ずといっていいほど、質問は航空機の出す騒音と事故の危険性に集中する。 日く、「四六時中、ガード下みたいな音を出されては困る」とか、「墜落事故が発生したらどうしてれる?」という苦情に近いものが多い。
このような質問に対し、当然、正確にかつ誠意をもって答えねばならないが、時折、あまりにしつこい質問に窮して、その場凌ぎの返答をすることがある。
例えば、離着陸時の騒音に関し、「やかましい筈」、「やかましくない筈」のやりとりがエスカレートし、「頭の上を飛ばないから音は大したことはない筈」との答弁に変わると、それが地元側の記録には、「頭上を飛ばないとの約束をした」という事になり、いつの間にか騒音の大きさの問題が、上空飛行是非の問題にすり替えられ、結論までもっていかれてしまう。
 住民との話し合いは、十中八九、というより十中十迄、迫られる事ばかりで愉快な事は殆どない。 従って、早く事をまとめて会合を終わらせたいと思うあまりに上述のような結果を招くことになるのだが、後への影響は甚大である。
その典型的事例は、関空の初期計画時から現在まで尾をひいている、「陸域飛行禁止」の問題にみられる。
関空は元々、伊丹の騒音問題を解消または減少させるために作られる空港であったから、環境影響評価の第一の資料は、騒音コンタ一に重きを置いて作成され、コンターが陸地にかからぬよう、飛行経路を海側へ曲げて書いてあった。  このところまでは何も嘘はないのだが、その前後の発着経路が完全に内陸部を避けて設定されるかのように描かれている。
作成した側の航空関係者にいわせると、「コンタ−が陸地にはいらぬことを示すだけの目的で描かれたものであり、記載の飛行経路は例示的に示しただけ。コンタ−外の飛行経路まで保証するものではない。」という。  建設の実務を引き継いだ空港会社の我々は、影響評価の地元説明の際も、コンタ一の説明に終始し、飛行経路が内陸に及ぷ可能性があるということについて言及するのは避けた。  飛行経路の話は航空局の仕事の範囲であるという筋論に頼って敢えて火中の栗を拾わなかったのだが、運輸省も空港会社も十把一からげにみる世間、私もそうだが、からみれば、「言うべき時に正確にものを言っておかないからだ。」という批判になろうし、我々もそれを認めねばなるまい。
本件は、現在、東京、札幌方面や米国、英国方面の便を、15分から20分余計に飛ばねぱならぬ大迂回航空路に押しやり、毎便当たり2300から3000リットル、 ドラム缶にして13から16本の燃料を無駄に燃やす結果になっている。
さらに、将来の滑走路増設計画にも大きな障害になるであろう。 というのは、陸域側に制約が残るかぎり、大阪湾上空は混雑することが目に見えており、空域が飽和すれば、滑走路を幾ら増設しても意味がないからである。

もう一つ、古い話になるが、織悔?がある。
昭和39年であったと思うが、伊丹空港にジエット機が就航し始める前に、空港当局から飛行経路について提案を求められた事がある。
ジェット機は音がうるさいから周辺の住民に迷惑にならぬコ一スを、というのが条件であった。
当時、空港周辺の川西や伊丹地区等、集落が方々にあるものの、空き地が多かったこと、滑走路延長線上に標高300から500メ一トル級の山があり、エンジン故障時に飛び越すことが難しいこともあること、の二つの理由で、北向きに離陸した場合のコースとして、なるたけ集落を避けつつ、緩やかな左旋回で上昇し、伊丹、尼崎、豊中各市の上空を高い高度で抜けるような案を提出した。
年間を通じて97パ−セントが北向きの離陸をする伊丹空港では、その後、このコースが定着したのであるが、昭和40年台、50年台には、上空の音とは関係なく、飛行経路下の空き地がどんどん住居化し、航空機騒音反対運動の源になって、それぞれの市を突き上げ、空港当局と各市と協議の結果、離陸後一定の距離の地点で測定される音に制限値を設けることにした。
その制限値は、日中と夜では異なっていたのであるが、出発前の性能計算上、測定点での騒音予測値が制限を越すようであれば、離陸重量を減らさねばならなかった。
逆にいえば、その制限値がある限り、各機種毎に最大離陸重量よりはるかに小さい重量でしか離陸出来ないわけである。とすると、前述の、エンジン故障時の障害物件であった滑走路北側の山々はかるく飛ぴ越えることができることになる。
このような状況の変化からみると、あくまで結果論ではあるものの、「初めから多少の重量制限を設けても、北向き離陸は直線上昇とし、川西の奥地にコ−スを作っておいたほうがよかったな、そのほうが騒音に巻き込まれる住民の数は、はるかに少なかった筈だ。」というのが今の実感である。
今ならジェット機の専門家は多く、騒音の研究も進んでおり、このような事態が予測できるから失敗は起こらないであろう。


7

騒音問題の亡霊

他の一般的公害問題と共に、航空機に関する公害対策への要求が強かったのは、昭和の40年代前半からの約十年であった。  その頃は、伊丹を始めとする各空港の住民対策や、低騒音機の購入検討の仕事に追いまくられて、胃の痛くなる思いであった。
その時に得た技術的な知識や計算手法は、既に書いたものがあるので、再度は省略するとして、「公害だ!控えよ」と言えば、泣く子も黙り、誰もが遠慮する雰囲気が、今でも残っているように思える。
羽田空港は二年前に沖合に移転した。 滑走路は、ご承知の通り、羽田の住宅地より数キロ沖合にあり、移転と共に24時間発着可能になると思っていた。 少なくとも二十数年前の大田区や品川区を交えての移転計画検討時には。
ところが、最近も夜ll時を過ぎると、発着を認めないとの空港事務所の厳命があるらしい。 一体、なにが理由なのか。
無論、この様な運航規制は、騒音が大きいこと、また、それを被った住民からの苦情により、.空港当局が設定するものである。
ところが、沖合に移った羽田空港からは、昔からある住宅地に騒音が届く筈はない。
地上付近の空気が冷え込み、いわゆる逆転層ができた場合等は、意外に響くこともあるが、それも「聞こえはしないか」と、おかしな期待?をもっていれば聞こえる程度で、とても公害と言える程のものではない。
まして、着陸時の出力を絞った音など、聞こえる筈などまったく無いから、深夜の到着機まで制限する理由はどう考えても判らない。
強いて想像すれぱ、過去の住民とのやりとりを、状況の変化も考慮せず、前任者からの引き継ぎ事項として、守っているだけではないのか。
かっての伊丹の空港でも、低騒音機の導入、便数の制限、防音工事、そして新空港の開港が見えてきた時、周辺市の態度はすでに逆転し、増便の要請や9時以降への遅延便の容認へと、本音が軟化しているのに、それに気付かず、航空会社に対し、以前にも増して厳しい態度をとる空港の長もいた。
また、空港当局ばかりを責めるわけにいかない事情として、航空会社も当局に反論するとか、直接、住民側の意見を確認した上で規制の再検討を求める努力をしなかった恨みがある。


8

市内チェックイン方式への憧れ

新空港を計画すると、必ずと言ってよいほど出てくるのが、市内チェックイン方式の提案である。 出所は大抵、地元の商工会議所あたり、たまには運輸当局からと言うことであるが、航空会社はそれに対し、冷たい態度をとるのが通常だ。
と言うのは、かれこれ30年ほど前に、パリやアムステルダムを中心に市内チェックインをやったことがあるのだが、タクシ一や自家用車で直接、空港へ向かう旅行者が多く、経費倒れになってしまい、殆どの空港で廃止されたのである。
市内チェックイン構想に共通なのは、海外へ出掛ける場合、空港へ行く前に市内のタ一ミナルで荷物をあずけ、自分のチェックインはもちろん、出国手続きも終える事が出来、空港に着けぱ、何もしないで機内にはいれる、一方、海外から到着すると、入国手続き後、市内タ−ミナルまで出て来た後に、荷物の受取り税関検査をうける、という方式と、入国手続きも手荷物検査もすべて市内タ一ミナルで...という変形方式、等々の考え方である。
 このような方式は、利用者にとっては確かに便利なものだと思われる。 20年ほど前であったろうか、パリのコンコルド広場の近くに、エア フランス運営の市内ターミナルがあり、そこで手荷物を預けてバスに乗り込むと、ほっとしたものである。
とはいうものの、「出入国の手続きをすべて市内でやってしまえ」という論法には賛成し難いものがある。
これは国の代弁にもなることであるが、「市内で出入国の手続きをしても、空港との間で本人が消え去れば何の意味もなくなる事、また、ピストルや麻薬の持ち込みも、空港から市内の間でいくらでも他人に渡すことが出来る」わけで、私は現在の日本政府がとっている取締り体制を正しいと思っている。
ヨ一ロッパみたいに地続きで出入の取締りが実質的に不可能なのとは違うから、たとえ「島国根性」とか、「国際化に乗り遅れ」と言われようとも、この治安のよさは維持してもらいたい。
多分、今後も空港集中の取締り方式が続けられるであろう。
というわけで、市内チェックイン方式は、採用されても、本人と手荷物だけになろうし、旅慣れてくると、「わざわざ市内へ寄らなくても..」とか、「市内ターミナル迄後戻りするのは面倒くさいし..」ということになり、さびれていったのが実態であった。
関空においても、最初は神戸、大阪、京都の関係者より、強い設置要望があり、特定の航空会社が止むを得ずチェックインのシステムを各拠点に設けたのであるが、この一年の成績は、諸外国における前例と同じ結果である。  やはり、空港に対し、需要地が片方に十分偏っており、その地域からみて、空港の方向で、しかも近くにターミナルが作れるという、余程の好条件で無いかぎり、成功は望めないものであろう。
国内外の実例からみて、あまり勧められる構想ではない。


9

手荷物搬送設備の難しさ

ここで触れたい搬送設備とは、旅客タ−ミナル内部の手荷物用のものである。
関西空港計画が会社組織と共に動きだした、ほんの初期の頃、私の先輩であり、長い間、IATAの空港計画グループで仕事をしていた方から、「変なバゲハンを作ったら命取りだよ。」と忠告を受けていたが、今、開港後一年余り、ほっとすると共に、当時はそんなに重く受け取らなかったその言葉が浮かんでくる。
デンバ一新空港は、今年二月末、確か五度目の正直でやっと開港した。 4回の開港宣言と延期により、一年数カ月の遅れと関係者の訴訟沙汰を招きながら、である。
原因は、最新式、かつ大規模の手荷物自動搬送設備(オートマチック バゲッジハンリング システム)の不調と、その開発/実用部門間の責任のなすり合いにある。
コンピュ−タ一でのシミュレーション類はやったらしいが、大規模で複雑なものへの実用化実験を怠ったのが原因らしい。  現在は、自動ではない原始的なコンベアベルトを補助的につけて、旅客タ−ミナルが動いている。

十年前、関空の埋め立てが始まると共に、旅客タ一ミナルの基本構想の議論が始められた。 いろいろの案の最後に出てきて決定されたのが、フランス空港公団の提示による、現在のサンドイッチ式旅客ターミナルビルである。
このビルは、最上階が国際線出発旅客用、中間階に国内線出到着旅客用と売店類、最下の階に国際線到着旅客用と、それぞれの施設が設けられることになったが、上下の国際線施設の間に国内線のそれを挟んだことから、「サンドイッチ」構造と呼ばれる。
最上階(4F)でチェックインされた手荷物は、中間階(3&2F)である二つの層を貫いて、地上階の手荷物荷扱場(バゲージソ一テイングェリァ)に送られねばならないが、その大きな高低差を、通常の斜めのベルトで処理しようとすれば、中間階の貴重な空間が大きく殺される。
そこで、いろいろの垂直型搬送システムを探し求めた結果、スパイラルベルトを採用して地上階まで下ろし、ここで自動の仕分けシステムに乗せることにした。
この構想が決まった段階は、日米摩擦の火花が散っている最中でもあり、国際入札の標的になっていた。  五つの製造グル−プが応募したが、その中に今回のデンバーの設備を手掛けた会社があり、某米国航空会社もこれに肩入れして、激しい議論が交わされたものである。デンバー方式のプロトタイプは、某航空会社の基地空港で採用されている、コンピュ−タ制御の自走カ−ト方式のもので、中規模程度までなら、なかなか調子よく動いているように見受けられた。
入札の結果は、日米独のJVによる、現在のスパイラルベルト&皿型ソータ一の採用となり、殆ど問題なく動いている。その成功の主因は、JVの中で有機的に仕事をし、全体をまとめあげた日本のメ−カーの努力にあるのだが、関空会社の中で議論した時には、デンバー方式の危なかしさを予知してはおらず、また決定されたメーカ一が特に優れていると意識していた訳ではなかった。
デンバーの失敗を知り、今頃になってヒヤリとしている次第である。
もう一度、バゲハンを選ぶ立場になったら、経験を尊重する保守派になるであろう。

 


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