フランスとイギリスの夏 2005年

                         鶴丸27会   生駒 隆

花の都パリに旅装をといて、此処を拠点にあちこちに、足を延ばしてみたかった。92年末から四年半にわたって、旧仏領アフリカのガボンで、フランス語に不自由をしながら暮らした。 年に数回は業務出張、休暇帰国のため、パリを訪れる機会があり、パリには充分になじんでいた。だが、年毎に老いゆく我が身と、細りゆく財布の中身を考えると、この様なパリ暮らしは見込み薄と、自ら判断を下していた。 然し、ガボンで知り合った友人が、自分の持ち物である、パリ郊外のアパートが、偶々この夏場に空くので、これを使っても良いがとのことで、私は渡りに船とこれに飛び乗った。年齢を考えて自動車は敬遠し、交通は専ら鉄道、やむを得ぬ時はバスに頼る事にし、2/3冊の旅行案内書と、トーマスクック社発行の全欧州鉄道列車時刻表(四半期毎に発行、丸善で購入可)を購入した。そして、割安のホンコン経由パリ往復航空券と、当日乗り放題で便利な、フランスレイル 14日分、ブリチッシュレイル 8日分を手にした。 パリでも、日本食が中心になると看て、必要な目方の軽い調味料など、家内は色々算段していた。贅沢を言わなければ、ジャポニカ米はじめ、パリにない物などない。従って荷物は至って軽装だった。友人のアパートはパリ郊外とは言え、地下鉄中央線の終点、ラ デファンス(新凱旋門)から歩ける便利な場所で、20階建てフラットの、16階にあった。 そして、天気の良い日には、屡々きれいな日没がみられた。

私の夏期旅行の開始は、7月7日、終了は9月1日、この間7月22日から30日迄は、英国に滞在した。 私と妻は、お互いに努力をしながらも、ともかくこの間ずっと同一行動をとった。 私がパリから外に出ていった実績を纏めてみると、別記の10項目となる。

見れば分かるように、今回は期間が長期、かつ移動範囲も広範なため、文章が冗漫になる事を恐れる。個々の解説は従って、旅の印象をざっくばらんに述べるに止め、文章の簡略を期したい。

1 ミデイ ピレーネ 7月11/13日 11日 ルールド 12日 ペルピニアン泊

カトリック最大の巡礼地ルールド、1858年14歳の少女ベルナドッテに奇蹟が現れた後、世界の信者に此処の聖なる泉は、奇蹟の水を供給し続けてきた。 

昼間はどうしても俗っぽいが、3/10月の間(復活祭から十月末まで)、聖域内の通路

では、信じられぬ程多数の、傷病者、看護人、付添人・親族、神父、シスターが、賛美歌とお祈りを口にしながら、ミサに参加している。このローソク行列は、夜9時から約T時間催され、極めて厳粛なものだが、参加者には重病人が多くて、見ていて少し気の毒な気もする。 然し、カトリック信者でなくても一見の価値あり。この街は、医療施設が整い、宿泊施設も良い。今では170の国から年間600万人が参詣する。 近くのベタラン洞窟にはバスで行ったが、天井が何と80メートルと、極めて規模が大きい。翌日はユネスコ世界遺産の、カルカッソンヌ城塞と、旧市街を観光。ここの城塞は、二重の堅固さをもって聞こえている。13世紀頃から、カトリック教カタリ派として、ローマ法王庁に異端視され、十字軍の攻撃にさらされた。一説には100万人が、虐殺されたとされる。いまは、観光客で城内は混雑していた。 ペルピニアンも歴史の街で、天守閣から国境のピレーネ山脈が望めた。ここは、城塞、大聖堂、運河が売り物で、最近までスペインに属していた。

2.ブリターニュ半島にケルトの匂いを求めて 7月16/18日 キブロンに 連泊 

キブロンから、フェリーでベルイル島にわたり、港湾、侵食断崖、海賊船時代(大航海時代)の海城を見学。夜のキブロン海岸では、ケルト衣装の婦人、子供が民族演芸会を開帳し、その側では名物の鰯の丸焼きで、ビールパーテイーだった。この辺一帯に色は白、サイズは普通の古代石造構造物が、散在している。いわゆるカルナック巨石群である。現在のケルト族には、この遺跡についての伝承派ない。古代の墓か、天体観測所か、謎である。ヴァンヌの城塞、旧市街も落ち着いて良かった。

3・南フランス 太陽海岸とプロヴァンス 8月7/11日 ニース泊 7/8 マルセーユ 9/10泊

ニースを基点にモナコ(大公宮殿、モンテカルロ)、鷲の巣村エズ、映画の祭典で有名なカンヌ海岸(日本の関係では唯一、黒沢監督の手形のタイルがあった)をみた。ニースの海水浴場の砂浜は、砂ではなくピンポン球より大、むしろテニスボール程の巨大さ、とても裸足では歩けない。これに対し、カンヌの方は細かい普通の砂浜だった。ニースでは旧市街、城塞、港湾をみた。 エズはニースと、モナコの中間にあり、小高い山城跡から、地中海を広く遠く鳥瞰していた。マルセーユから、電車でエスアンプロヴァンスへ行き、画家セザンヌの生家、古い泉、旧市街など見物した。夜はマルセーユ名物料理、ブイヤベースなる、雑魚のごった煮を試したが、意外に乙な塩味で、私の口にあった。だが、あんなものは、ここでは観光客だけのもの、地元の人間はこれを、漁師の食べ物として敬遠している、とホテルマンは私に呟いていた。連絡船で、マルセーユ港外にあるイフ島を訪問、モンテクリスト伯ゆかりの、説明板を見せられた。これは初めは要塞として建築され、後に牢獄になった。さる財閥の放蕩息子が、ここに収容されていた事実も有った。此処でレントカーして、ニース、アルル、アビジャンを回った。あちこちローマ時代の遺跡、中世の宗教建造物、芸術家の作品があった。アルルで見たゴッホの跳ね橋、古代劇場跡、闘牛場、ゴッホとゴーギャンが一緒に下宿した黄色い家、アビニャンで見た童謡にある、サンベネゼ橋、ローマ法王庁跡、ローマ古代水道橋遺跡、この2000年前の水道橋ポンヂュガールは、ここでは高さ80メートル、長さ500メートルだが50キロメートル先のニームまで、生活用水を運んでいた。

4,ローヌアルプ  シャモニからモンブランを望む  シャモニ泊 8月15/17日

パリ発特急の終点アヌシーで下車、綺麗な町並みと湖畔の公園、氷河湖を遊覧、夕刻目的地に着いた。 翌16日は天候に恵まれ、冬の服装でロープウェーを登った3,842メートルのエギュイユデユミデイの展望台から、モンブランの山肌は山頂まで、くっきりと見えた。展望は全方向に拓け、遙か下方にシャモニーの街も望見された。ただ、急激に高所に到達したため、私はすこし高山病になった。 パリへの帰路、リヨンに数時間立ち寄り、ユネスコ世界遺産の宮殿、教会、旧市街、ローヌ川とソーヌ川の川べりを散策した。

5.フォンテンブローとバビルゾン   シテイラマ社による半日バスツアー 8月3日

古城、庭園、画家の村いずれも期待通り、駆け足で見たミレーの家は真に貧しい物だった。

6.モンサミッシエル大寺院  鉄道、バスで日帰り訪問  8月13日

ノルマンヂーの西端にあり、パリから遠い上に、交通不便な所にある。パリからバスツアーが、組まれている。これを除けば、鉄道とバスの組み合わせになるが、鉄道の乗り継ぎは、レンヌが特急停車駅で最も便利、他にも2/3方法がある。700年代から、此処に修道院が建てられ、寺院、要塞、時には牢獄、また普段は巡礼宿として、信者を惹きつけて来た。嘗ては、建物は平らかな林の中に、聳えていたが、中世の頃、津波が襲い寺院は、陸から島になった。、この辺一帯は世界的に、潮の干満の差の大きいところである。干満それぞれの時刻表が、張り出されていたので、他の観光客と一緒に、潮のくるのを待った。観光客の総てが思い詰めた顔で、皆一様に沖の方を、長い間見つめていた。然し、私は間もなく疲れて、待つのをやめた。  此処の昼食は、名物の巨大オムレツだが、値段がそれなりに高い。 これもトライする価値が有ると思う。  何処でも同じだが、この様に混雑している場所では、盗難に用心が欠かせない。 特に体格の小柄な、色の浅黒い女性の掏摸にご用心、一般にジプシーと言う言葉は禁句、東欧州系らしい婦人と呼んでいる。

7.ロワール河 古城巡り 鉄路ツール 後はタクシー 8月19日 日帰り

沢山ある城の中で、最も便利かつ有名な二つの城を選んだ。6人の女の城シュノンソー城

と、レオナルドダウインチの墓と、新教徒の大虐殺で聞こえた、アンボワーズ城である。

パリから特急列車でT時間でツールに着くので、好きな城が選べるので、便利である。  8.クロードモネの睡蓮の庭園  8月20日 電車でウェルノン駅乗り換えバス40分 

画家モネが40歳代から、晩年まで暮らした、木造の家屋で今では、かなり古びている。睡蓮の池だけでなく、庭は広い花畑になっており、日本から寄贈された、柿の苗木が大きく育っていた。 家屋には、モネの作品、彼が所蔵していた浮世絵や他の印象派の作品、

当時使われていた生活用具までもが、財団の手で大事に保存されている。

9.英仏海峡の奇観 エトルタ侵食海岸 8月26日 日帰り、ルアーヴルからバス40分 巨人が青い大西洋に向かって黄色い肩を突き出し、その腕の下を白い波が洗っている。干潮の時には、土のトンネルの直ぐ近くまで、歩いて近づける。 神はこの様な奇観を、人間によく与えたものである。  正面の海岸の幅は2キロメートルもない、狭い砂浜だが、その先は右も左も、大きな穴の空いた、100メートルは有りそうな一寸した絶壁である。モネをはじめ、印象派の画家が此処を、良く画材にした。

海に向かって左は、崖の上には何もない荒れ地。反対の右側には、崖の上に小さな教会と、ここを最後に、大西洋に消息を絶った、成功すればリンドバーグに勝つはずだった、フランス人の冒険飛行家を記念する、石造りの飛行機とこの壮挙を、記念する博物館がある。

10.英国訪問 7月22/30日 パリ北駅・ロンドンウオータールー駅(海底トンネル) トライスターにて往復

9日間でロンドンからスコットランド、湖水地方と、反時計回りに、一応英国を一周した。先ず、正午発のロンドン発長距離列車で、エデインバラに行き夕刻には、城、宮殿、聖堂、旧市街をみた。 翌日は、インバネスを日帰りで訪問、ネス湖の湖畔の古城などを遊覧した。  その次は、グラスゴーを経由して(途中カーライルから横道して、ローマ遺跡の万里の長城に立ち寄るか、さんざん迷った末、結局これを見送り)湖水地方に入った。ウインダミア湖を遊覧し、湖畔で一泊後、シュトラットフォードアポンエイボンに、シェイクスピアーの生家を訪ねた。途中バーミンガムでの、列車の乗り換えに失敗、二時間以上時間を、無駄にした。英国内の鉄路は複雑、列車の運行も路線別に、経営が分かれていて、判りにくい。次の夜は、当日乗り放題切符のため、足を延ばして、英仏海峡沿いに、かなりに西に偏った、プリマスに泊まった。大航海時代の軍港で、今でも英海軍の基地がある。干満調整の為の、閘門の付いた港の入り口に、メイフラワー号の出帆を、記念する桟橋があり、観光客がカメラを構えていた。本当はもう少し先の、半島突端のペンサンスまで行きたかったが、これには時間的余裕が無かった。その次は、大きく引き返して、ローマ時代からの温泉地バースを訪ね、急ぎ足で温泉博物館を見物し、次にソルスベリーを経由、バスで約40分、漸く待望のストーンヘンジに到達した。   バースの温泉は、ローマ時代以来の大がかりな物で、今でも60度の温水が、少しずつしみ出している。珍しいので観光客で大混雑だった。  ストーンヘンジは、謎の古代遺跡で、直径80メートルの範囲に、最大で4トンの重量を含む、巨石が屯している。 今でも土地の人達は、定期的な儀式を、夏至の頃に行っている。西暦紀元前15/16世紀に、ほぼ現在の形が出来た様だが、総ては謎に満ちている。 巨石は200キロメートルも、離れた石切場から運んだらしいが、誰がどの様に運んだのか。 ブリタニアの、カルナックで見て歩いた、巨石群よりも一見大規模だが、私の目にはこちらの方が、新しいようだった。この日の午後遅く、ロンドンに戻った。 足場の良い、適当な宿屋に3泊し、二階建ての市バスで、市内を駆けめぐった。 バッキンガム宮殿、ウエストミンスター寺院、ビッグベン、大英博物館、国立美術館、トラファーガル広場、ピカデリーサーカス、セントポール大寺院、ロンドン塔などだった。

フランスと異なり、イギリスでは積み残しが多く出た。大学都市のケンブリッヂ、オクスフォードの何れかには行きたっかたし、英仏海峡のドーヴァー、英国教会総本山カンタベリー等々、、、

フランスの人口は日本の半分、国土の広さは1.5倍フランスの方が広い。フランスの人口密度は、日本の三分の一程度だが、パリ、その他の大都市を除けば、真に人がすくない。今では、TGV特急列車が、至る所に組み込まれており、便利この上ない。かって、ローカル線を乗り継いでしか行けなっかったルールド、エビアン、シャモニー、ペルピニアンなど5時間で、パリと結ばれている。いつでも特急列車は無人の野を行くが如く、土地は畑や牧場に、よく利用されている物の、建物が無く、おおよそ人間が目に入らないのは、不思議だった。私がロンドンに着いた前日、バス爆破テロ事件が発生していた。従って英国では、何処にに行くにも、充分な警戒態勢がとられていた。パリでは最近になって、アフリカ系の若年失業者の、騒擾事件が伝えられたが、私のいた頃は全くこの様な、気配はなかった。尤も、あやふきには近寄らぬのが、私の旅行姿勢でもある。