廿七年度東大教養学部 理二 六B 1953.5.28           戻る

追思  2p          復刻 by 林尚孝

『猿』
      塚原 仲晃

 おまえの通過が迅速であればある程、僕の眼は余計にお前に貪欲であるべきだ。お前の逃亡が慌?ただしいほどお前の抱きしめは火急であるべきだ。どうして一瞬の恋人でしかない僕が、持ち続けないと知るものを上の空で抱きしめるわけがあろうか?変わりやすい魂よ、急げ!知るがよい。世にも美しい花は同時に世にも涸れやすい花であると。疾くその花に身を寄せて匂いを嗅げ。涸れない貝殻草には匂いがない。−−−−−−−−−
 そうだ。若き日の魂の純粋性。これこそ、我々の唯一の持ち物であり、青春の象徴である。政治を、社会を、人間を論ずるとき、我々はそこに少しの不純さをも容赦はしない。これをもつかぎりにおいて青春でありうる。この我々の宝が、我々の情熱が、真赤な焔を出して燃えているとき、それでなくても燃えつきてやがては白い灰となりカサカサとくずれ落ちるものなのに。これに水をかけられ、永久にその焔が消されてしまうことがよくある。何物といえども、これを消す権利はない。我々が守らねばならぬものがあるとするなら、この焔こそ正しくそれである。
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 F君、お手紙有難う。丁度昨日のことだった。例の癖でポケットに本をしのばせてブラリと家を出た。上野でおりて、動物園にいった。あちらこちらを見ていると、猿(多分台湾猿のオリの前だったと思うが)が丁度物欲しげに手を出していた。今まで猿の顔などゆっくり見る機会がなかったせいか、その、人間に似ているには驚いた。例のXX先生を思い出したよ。いや先生だけではない。あの動作のすみずみにまで我々のそれをほうふつさせるものがある。サルトルの『嘔吐』の主人公アントツーヌ・ロカンタンではないけれど、急に何か心を打つものがあったのだ。猿と殆ど等しい肢体を持ちながら彼らをこのオリに入れ見せ物にしている人間とは何だろう?ハイデッカーの『死への存在』なのだ。死は観念である。そして思想らしい思想は死の立場から生まれる。『不条理の哲学』をもってよばれるカミユの哲学も、この立場から出発していることは君の周知のことだ。君の相当前の手紙に『異邦人』を読んだといったね。主人公が死を掴える。人間は死が待ちうけているが故に明日はない。何ものも重要ではなかった。他人の死、母の愛、そんなものが何だろう。幻もひかりも不意に表れた宇宙の中で人は自分が異邦人であることを知る−−−君はこの小説に結論らしきものは見出せないといったね。それでよいのだ。キェルケゴールやニイチェの哲学は一見小説や詩のように思われる。ここでは結論が与えられるとすればパラドックス的形式でのみ与えられる。実存的真理は、     2000/12/25
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客観的、非人称的に妥当するのではなく、魂?の歴史に於て生起してくるもので、このために、この様な主体的真理を浮上らすために物語的手法とられるのだし、また実存的真理は永遠の真理、可能的真理ではない。魂自らがかかる真理になる以前は一般的命題として提出することはできない。従って、パラドックス、謎?、暗号の前に人々の魂を導き、彼をして自らそれを解決せしめるより外に道はない。いや解決より決断、選択である。あれかこれかの選択であり、決断であり、飛躍である。この飛躍によって、質的に新たなもの、全く思いがけぬものが出現するのである。そこには解決を与える命題はなく、むしろ決断を迫る命令があるだけである。所謂思惟が条理と逆説との前に挫折して実存的現実にとうめんせざるを得なくなるとき、実存的真理は思いがけなく生起する。思惟は自らの解決し得ないパラドックスの前に挫折し没落することによって、魂は無限の深?の上を飛躍するのである。従ってあの本を読むときにうける非常なショック、これのみがすべてであり、彼は君自身にかかっている。カミユが実存主義者であることは明らかであり、実存哲学に一般な暗いものが彼の作品に漂っていることは否めない。異邦人・ペスト・誤解・正義の人々----僕の読んだものだけの作品にその暗さは共通している。だが実存とは人間の本来の在り方を意味し、それが現代(Les Temps Modernesサルトル主宰の実存主義機関誌の名もここに由来すると思うが)歪められ失われているとすれば、実存を回復するために、実存哲学が、現在における様々の倒錯、頽廃、腐敗をえぐり出し露出させ、分析するのは当然であろう。実存哲学は人間そのものの革命を想?するが故に現代における暗き面、浅ましき面を容赦なく摘発する。サルトルの水入らず、夢?、エロストラート、----におけるが如く。
 だが実存哲学の夜の面はもっと深いところからきている。この不安は、実存の根底は無であることに由来する死への存在である。だが君、誤解しないでくれたまえ。だからといってニヒルになったり絶望ばかりしているのじゃない。大切なものは無の深淵に臨んでの絶望的な決断により常に新たに反復して、超越が行われ、その都度有(Sein)が捉えられることである------
 君に是非読んでもらいたい本がある。多分読まれたことかとは思うが、『悪魔と神』(サルトル)だ。話の筋はともかくとして、感激的な台詞がある。
ゲッツ『----ただおれがあるのみだったのだ。おれ一人で悪?を決定した。おれ一人で善を発案した。----』おれ、つまり人間だ。もし神が存在するなら人間は虚無だ。もし人間が存在するならば----神はない=と神の不在を宣言するシーンだ。これはサルトルの哲学の出発点だ。『もし神が存在していなかったならば、どんなことも可能であろう』とはドストイエフスキーの言葉だ。出発的                2000/12/25

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であると同時にその中核をもなすものである。では神の存在を否定した時人間は−従ってその本来の姿としての実存は−いかなるものと考えられるであろうか。実存主義が先ず打ち立てるものは、実存は本質に先立つ、ということだったね。人間に於て、神は存在せず、イデアの世界もないとすれば人間の存在には彼に先立つ本質はない。彼は無であり、無から存在し来たり、立ち現れたのであろう。即ち人間は本質からでなく無から現れ、しかるに彼に自らを限定し、定義し、自らに本質を与えたのであろう。これが人間の姿であり存在が本質に先行する実存の姿である。人間は神に思惟されることによって創造されるのではない。人間は彼自身を実存せしめている。だから人間とは彼自身を造るものであり人間とは彼が彼自ら造り出されたものに外ならない。人間は自らの在り方を計画する。自らの在り方を選びとる。ところが自己自ら選びとる以上、その責任は彼自らにあるであろう。彼は彼の選びとった自己の在り方、自己の個性に対して責任がある。それは自己の個性に対する全き責任の意識であると共に全人類に対する責任の意識である。ここにキエルケゴールが我々が全人類を代表するものとして罪を負うて神の前に立つと述べたその同じ考えが潜んでいる。がサルトルには神がない。してみればサルトルにおいては我々は神の前にそれぞれ全人類の代表として立つのではなく、ただ自己が自己を選ぶことによって全人類を選ぶのである。全人類の責任を負うことにより具体的にいえば全人類の在り方に捲き込まれ、連帯し、連累する。その責任??をただ自己一人に負うのである。従って人間は人間であり、人間の??????????、人類的主体性を超越することは不可能である。-------------------
 ここでキャラメルを出して食った。前の猿に二つばかりやると上手に紙包をむいて食べた。いかにものんびりしている。
 さて、猿公には憂いは、苦しみはない。ところが人間には、自己を選択し同時に全人類を選択するが故に(自己の特定の在り方を選ぶことは同時に全人類がその?な在り方をし、行動することを認めることであるから)従って全人類に対して深い全体的責任を感ぜしめざるを得ないであろう。しかしその責任とて我々は担?い得るか?その正当性はどこにあるか?サルトルによれば、これは『ノン』である。しかも我々は人類の責任を負わねばならない。そこに我々の不安がある。人間には不安があるのだ。
 サルトルにおいては神はない。又カントにおける存在に先立つ先天的な人間の本性はなく、又それにもとずく至上命令はない。人間はその行動に関し、何ものによっても決定されているのではない。又なにをなすことも許されているのであり自由なのである。否、じゆうであるべ                          2000/12/25

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く呪われているのである。全く寄辺なきdeleicissment?(頼りなき)状態にある。人間は要するに頼りなさから脱し得ないと共に、それが人間の真の姿なのである。サルトルの頼りなさとは人は常にただ自己自身のみから自己を選ばねばならぬ頼りなさであり、即ちその自由である。君の今読んでいる『自由への道』では「意気地のない者も勇気あるものになり得ることであり、英雄も自らを英雄にすることによって初めて英雄になるのである。----」ということが大体描かれているのだったね。人間は自らの中にも、自らの外にも頼るべきものはないであろう。しかも人間は行動せねばならず、即ち自己を世の中にまき込み世の中を自己の中に捲き込まねばならないであろう。けだし行動の外に実存はなく自己の生命はないからである。この頼りなさにおいて、しかも行動を決意し、連累を決意することは、despair(絶望)に外ならないであろう。それは絶望に徹しての行動なのである。-------------------
 知らぬ間に火鉢の火が燃えきっている。指先きが冷たくなってきた。今日はこれでペンをおきます。君の健康を祈ります。
 “君は自由だ、選びたまえ、即ち発?明したまえ
              −サルトル−”
 『註』これはサルトルの哲学の概略である。ポケットの本がどんな本であったか、諸君の想像におまかせする。が若き日の魂の遍歴の一迷路として、僕のようにこの袋路に迷いこまれる方が一人でも多い様にと、こんな固苦しいことを選んだことをかんべんねがいたい。