廿七年度東大教養学部 理二 六B 1953.5.28           戻る

追思  67p          復刻 by 林尚孝

音楽ディレッタントの戯言
小野莞爾

 クラス雑誌の原稿ぐらい直ぐに書けるだろうとたかをくっていたのであるが、いざ原稿用紙に向かってみると、仲々大変な仕事であることに気が付く。一貫した主義主張も持たず思考能力にも欠ける小生などは、いくら偉そうな事を書いた所で、結局寝言か戯言になってしまうのである。
 僕が音楽をきくことに興味を持ち始めたのは、高校三年の時である。美しい音楽はあゝいった無味乾燥な受験生活に幾分かのうるおいを与えて呉れた様な気がする。
 僕の或る友人の説によると、大抵の人の音楽の嗜好は先ずカルメン等の歌劇の序曲の様に俗受けする華かさと持ったものから、バッハ、モーツァルト、ひいてはベートーベン等の均斉の取れた、然も作曲者の心情の吐露されたもの、次に浪漫派といわれる形式に促われない一連のもの、それに満足出来なくなるといわゆる印象主義、象徴主義に基くドビッシー以後の現代音楽というように四つの段階を経て変態して行くのが普通なのだそうである。この説が全く正しいとはちっとも思わないし、誰にも当てはまるものでないことは確かであるが、此れによれば

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僕はさしづめ第二の段階という所である。僕位の程度の、生っかじりの音楽ディレッタントは近来非常に増えてきていると思う。此れらは全て物質文明の所産なのである。
 現代は物質文明の世の中である。従って現代は昔に較べて生活が便利になった事は確かであるが、生活が物質的に便利になるという事は同時に精神的に生活を皮相化することである。此れが全ての精神的運動例えば、芸術、哲学、宗教の活動を今日薄弱化している所以である。此れはアメリカに於いて最も顕著に見られる傾向だと思う。近来レコード、ラジオという音楽の享楽に便利な器具が物質文明の御陰で吾々の間にもたらされ、それらによって吾々は何時、如何なる場合でも自分の好きな音楽が聴けるようになった。この様にして可成多くの人々の間に音楽が普及されて行けば、それだけ真の音楽愛好家を作ることは疑うまでもないが、それだけ音楽の半可通をこしらえる機会を提供していることにもなるのである。昔は人々が下手ながら音楽を自ら演じたことが彼らの音楽への感興を一層深からしめた事であろう。今日では手を下さなくても如何なる音楽でもその妙演が自由自在にきける。楽器は我が国などに於いては、上流家庭の親たちが、自分の子供に特技を覚えさせて、自分たちの夢や見栄を満足させようとする材料になりつゝある。昔は音楽上の満足を得る為に毎日音楽会に行く訳には行かないから、音楽を要求する場合否でも応でも自ら手を下さねばならなかったのである。各家庭では丁度我々の間でラジオや電蓄が設備されると同様に楽器が備えられた。そのため十九世紀ではピアノが物凄い勢いで流布したそうである。事実如何に下手でも自ら苦労して音楽を奏している方が、ラジオや電蓄によるバッハやベートーヴェンよりも遥かに内容の深い音楽境地に達することが出来るであろう事は容易に想像出来る。現代人は音楽の最高境地を知らず知らずの中に忘却しようとしている。私は、こゝに物質文明と精神活動、就中芸術との悲しむべき矛盾の一つを見ることが出来るように思う。
 今年も暖かくなる頃から、外国の著名演奏家が新聞社や放送局の招聘で来日するらしい。演奏会の音楽は、レコードの音楽とは違った新鮮な感慨があるものである。缶詰ばかりのレコードファンも、偶には生の音楽を聴いて栄養を摂らなくてはいけない。しかし外国演奏家の演奏会の入場料は何としても高過ぎる。吾々貧乏学生やプロレタリア人生観を貫こうとする人たちにはとても手のでない高さである。だがあの高い切符が、あっと云う間に売り切れてしまうと云うんだから、どうにも文句の持って行き所がないんだが、見栄や功名心に駆られたブルジョアの子弟が随分聴きに行っていることだろうと思うと癪にも障って来る。音楽はブルジョアの専有物になってはいけない。モーツァルトやベートーヴェンもブ

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ルジョアの為の音楽を作ったのではないだろう。ブルジョアの慰みにしては、あの音楽は余りにも美し過ぎるからだ。
                              2003/1/25