廿七年度東大教養学部 理二 六B 1953.5.28           戻る

追思  30p          復刻 by 林尚孝

<紀行>
車中にて
松井 豊

 つい先頃、といっても昨年の暮のことだが、一人で帰郷するため上野から六0一号列車とか言うのに乗った。炭労ストによる列車制限もどうやらその日から緩和されるというので、案外空いているのではないかとの予想も見事に裏切られて、結局相当な混雑ぶり、驚いた事に、指定席の処まで割込んでくる仕末。僕が一度汽車に乗れば少くとも三人の友達が出来る事になっている。つまり座席の向側二人と隣一人というわけ。何も見合いするというわけぢゃあるまいし、長い車中の時間を、そうぽつんと上品ぶってる必要はさらにない。だから誰でも掴まえて、失礼ですがどちらまで?とか何とか話しかければそれでよい。一等や二等に乗っている連中は、一応はすましこんでいるから余り滅多な事も言えないし、退屈なことだろう。三等だと思うからこの連中は軽蔑したくなるのかも知れないが、これを移動的社交場だと思ったらどんなものでしょう。発車まで未だ相当な時間があった為か自分が車に乗り込んだ時は未だ一人で座席を占領したような格好だった。こんな場合“さてどんな人が向いに座るかなあ”と考えると一寸たのしいものだ。退屈まぎれにいろんな事を考えてみるからね。そんなわけで新しい             2001/1/2

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友達が三人出来ることになった。このうち一人は田舎の伯父の所へ遊びに行くという慶応中学部の生徒、残りの二人はT女子大の学生、白状するがこの二人が向いに坐った時はうれしかったね。僕らの年頃ぢゃ誰だって五・六十のお婆さんよりも、鳥打帽のをぢさんよりも、そんな人との方が、旅が心たのしいに決まっているからね。大体車中なんかで出て来る話というものはどうも少し大げさな事が多いようだ。だから相手の目の色を見て、少し割引して聞かなくてはとんでもない事を信じこまされる。僕はどっちかと言えば、口をきくのが嫌いな方だ。特に女の子なんてのは??だ、何となくこう------ね、まだ純真なんだな。それでもいろんな話が出て来た。教授の悪口、映画の話、試験の事、クリスマス・パーティに行って新しい靴下に孔のあくほど踊ったとか、「きっと安物だったんだな」、「あら!失礼ねえ」といった調子、そのうちに彼女等二人の間でこんな事を言い出した。
 “ねえ、この頃紀美子さんとお会いになった?”
 “ううーうん、私ねえ、あの人と絶交しちゃったの”。
 “まあー、どうして?あんなに仲良しだったのにさ”。
 “この頃はねえ、教室で顔を合わせても口もきかないの”。
 “そうー、でもをかしいわね、あなた達親友だったのじゃないの?”。
 “ええ、でもねあの人ったらね、お友達って交際する以上は、お互いにそこに何か得る事が無くちゃ意味ないと思うの、人格の向上とか、人間を深くするとかってね、それなのに私達の交際は少しも生産的でないでしょう、だからもうお別れにしたいと思うの、ごめんなさいね。ってこういうのよ”。
 “まあ、ちゃっかりしてるわねえ”。
 “あたしって未だ子供なのね、未だそこまで物事をつきつめて考えようという気がしないの”云々。
 はっきりとは覚えていないが、大体こんな会話が取り交わされてようだ、たったこれだけの理由で親友から一八0度回転なんて、わからないねえ女の子は、どうしてこう友達問題まで竹を割るように割りきらねば気が済まないのだろう。
 大体近頃は、世相の為とは言え、少し必要以上に神経質で、理屈っぽくなっているのではないかな。誰かが、最近の人にはユーモアが解せないのだろうか、と嘆いていた様だがもっともである。学問的な事柄とならば別だが、何もかも理論で押し通そうとする心意気は良いけれど、徒らに理屈ばってみても神経をとがらす事がおちで、それでなくとも住み難いこの世を益々居づらいものにしてしまうことが多いように思える。どうも人間は一度こうと言いだしたら、あとにひくのが嫌いらしく、だからいろいろ話がこじれて面白くない。調和がなくなり妙にごてごて意地っぽくなる。僕もそうだが、大体若い人というものは理屈が好きで、情熱的で、一筋に物を煎じつ             2001/1/2

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めようとする。勿論それだからこそ、青年様々といわれるのであろうが、それも見方をかえれば欠点にもなる。それだから自分の考え通り行かなくなると、今度はひどくがっかりしたりあわてたり、憤慨したりして、とんでもないことをしでかす。逃避とか反抗とか言うが、いづれにしても危ない事だ。こんなに愛し合う二人が何故に一緒になれぬのか、と心中してみたり、「税金泥棒ー」とばかり交番を襲ったり、理屈が好きなくせに、自分の考えが他人の共鳴を得るか否かも余り考えないで、自分の考えを他人に押しつけたがる。だから今の青年は唯理論だけに空転している、とか何とか悪口も聞かねばならなくなるのだろう。もっとゆったりと、のびのびとした気持ちだけは持っていたいものだ。
 勝手な事を考えていると、いつの間にか高原に来たらしく列車は雪の中を走っていた。相当な積雪だから、もう清水トンネルを越えたんだろう。
 僕が物心ついた頃は母が年老い、姉は嫁いでしまていた。だから僕は女の子のする事なす事全部が物珍しい。肩をふるわせて泣くのまでがだ。そんなわけで上野から三つほど向うの席に坐っている御婦人の帽子についているかすみ網の切れっ端が気になって仕方がない。誰かヴェールだといった。ヴェールか。ふーん、どうも田舎者のぼくには、何のためにあんなものを頭にかぶるのだおるかと不思議でたまらぬ。第一、つけている本人の目の衛生上よくない。僕なんか目先にクモの糸一本ちらついても目障りなのに、かすみ網をかぶった目には、道もうかうか歩けやしないだろう。そんな不便なものにはみかんでも入れて汽車の棚にぶら下げた方が実用的でよろしい。顔をかくすのが目的だろうか、そうなら目の玉二つの面でもつけた方が、もっと能率的だ。??ると、適当に顔をかくして相手の注意をひこうとするからか?それぢゃストリップの国旗じゃないか----わからない。----顔に変化を与える、引き立たせる----それならほっぺたに墨でも塗った方が安あがりだし、目も疲れないというものだ。あれをつけなければ美しくないという人は、初めから大したことのない人だろう。或る人に似合ったから私もー。そもそもこの物真似根性がいけないのだ。すべてに於てもしかり。ただ、高いお金を払って手に入れたのだから虚栄の虫だけはおさまるだろうが。----幸い、とある駅で彼女は降りていった。でも、もう少しつづけよう。
 大体近頃はすべてに派手すぎる。すべてにだ。嫁入道具が三百万円だったり、なにかにつけてはすぐ宴会を開いたり、あーだと云ってはお祝い、こうだと云っては贈り物。終戦時の真剣な気持ちはどうしたのだろう。せめてすぐ隣には、今なを戦火に慄く人のある事を忘れないでほしい。どなた様のお気に入りか知らないが、赤インクをこぼしたような爪をしてみたり、まつげをつけ足してみたり、              2001/1/2

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少しあくどすぎるではないか、日本固有の美しさ、生花のような奥床しさの方はどうしたのだろう。母国のもの、自分のものを捨てた人に何が出来るというのだ。鼻もちならぬ物真似だけではないか。首飾り、ブローチ、イヤリングとか何とか、この調子では今に、牛のように鼻環をつけるのが流行するかも知れない。
 “ちょっとちょっと、あの人の鼻環五万円もするのよ、すごいわねえー。”よせやいだ。日暮の野の、路傍にふと見つけて心躍る一輪の野菊、黒ずんで来る雑草の中にあって、なほその清らかさ、純白さを誇らうあの野菊に似た人に会えないものだろうか。多くとは言わぬが、もう少し自然に、素朴に還って欲しいものだ。
 あたりの人は皆眠ってしまったようだ。一人で嘆いたり、さわいでみてもはじまらない。えい、眠ってやれ。