廿七年度東大教養学部 理二 六B 1953.5.28           戻る

追思  1p          復刻 by 林尚孝

世界観について     伊藤 幸郎

 現代人は、世界を何より先ず知的に理解しようとする。この際に、人間と現実との距離は、普通に考えられているよりはるかに遠いものである。知的理解ということを要求しなかった昔の時代の人々は、もっと現実に密着し、その中に沈潜していたに違いない。我々が現実を了解しようとするときには、それを全て意味として把握するのだが、これは抽象化によって行われる。我々は現実を、一旦概念と化した後でなければ精神の中に取り入れることができない。先ず抽象化がなければ理解する事ができない。
 過去の歴史や遠い国のことはもとより、我々が現在その中にいる現実すら我々は一旦観念化する。そしてこの観念の世界を統一ある像として組立てようとする。人間に一元性への欲求がある限り、このことは避けられない。かくて世界観は、現代人にとって最も切実な要求である。昔は世界観は必要ではなかった。世界は人間にとって神から与えられたものであり、その中の一切は神の御旨によって行われるものであった。ところが現代の人間は、人間として独立して、自分が理解しうる姿に世界を再構成しようとする。現代人にとっては、現実がそのまま現実ではなくて、現実とはむしろ観念によって再構成されたものである。
 しかし、全ての人間が自分の力で世界観を組立てることはできない。如何なる観念によって世界を思い浮かべたらよいかという事が強烈な願いでありながら、しかもそれを“自分で探求せよ”といわれる程辛いことはない。
 小学生が博物館を見学すると、彼らは先ず説明文を読んで、それから陳列品を眺める。与えられた解釈に従って現実を見るのである。或る者は説明文だけを読んで現実を見ない。小学生から主知主義的理解を要求するからこんなことになる。そしてこのようなことは我々も亦、常時していることではなかろうか。或る観念的な照明によって照らされた光の中に現実を見ること、もしこの観念体系に整合しないものがあればむしろ現実の方を曲げてしまうこと、そういうものは存在しないものであるとして排除してしまうことーーこれは現代におどろくほど普遍的に行われている事実である。
 主知主義の時代においては、与えられた世界観は、異常な力を持つ。これが人間を救う。一たび或る観念体系に入った人は、これに対して忠誠を捧げて服従する。彼は勇気を得、献身し、しかも傲慢になる。その照明の中に浮かび上がったもので解き得ないものはなく、ここに絶対者が得られて、それへの狂信の中に安心する。所詮人間には、精神という不思議なものがあるのである。                  2000/12/25