廿七年度東大教養学部 理二 六B 1953.5.28           戻る

追思  91p          復刻 by 林尚孝

遍歴
 林 尚孝
 洋子さん、お茶の水大学英文科合格お目出とう。この日の来るのを僕は心待ちに待っていたのです。あの逆境に挫けることなくよく頑張り通しましたね。貴女の実力は充分認めていたのですが、やはり一抹の不安があったことは事実です。僕は貴女の前に新しい世界が開けたことを心から祝福します。それと共に進退に窮した男の為に新しい事態に直面する機会が開けた事を神に感謝します。この言廻しの不自然さに、洋子さんは本能的に何かを感じて一寸警戒の気持ちを持たれたことでしょうね。
 昨年の八月以来僕は貴女に対する激励の手紙を何通か書きました。僕は全然感情を交えることなく激励の文を綴ったつもりですが、多分貴女は鋭い感覚により行間に滲んだ私の感情に気づかれた事と思います。私は貴女が大学に入られるのを指折り数へて待っていたのです。というのは、私の理性と感情の葛藤を自己の力で解決することが出来ず、貴女の力をお借りしようと半年も前より考へていたからです。
 何故半年も待ったのかと不思議に思はれることと思いますが、貴女の受験勉強への影響を重大視したからです。これまで書けば私が何を書こうとしているのか貴女にはお分かりのことと思います。これ以上私は今までの状態を続ける事は出来ません。高校三年以来一人で悩みつづけた                         2000/12/26

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この問題も、もう壁に突き当り、そしてこのままに止めることも感情が許さないのです。貴女に大きなショックを与える罪は重々お詫びします。私がこの様な手紙を書くに到った心境の遍歴を以下に書き綴ってみようと思います。

 高校二年の三学期僕は数学部部長に選ばれた。そして一年生のために解(一)グループを作り講義をした。解(一)グループの中に洋子さんの名前もあった。貴女の家と僕の家との交際により何となく貴女に対して好意を持ってはいたがそれ以上の感情は持っていなかった。数学部の部員の人達と親しく口をきくようになった頃、私個人の都合から部長を辞任してしまった。この時以来貴女に対して好意或はそれ以上のものを感ずるようになった。やがて高校三年になり、一応東大を受けるつもりであった私は勉強を始めた。学校で洋子さんの姿を見ると何となく心にほのぼのとしたものを感じた。昭和廿六年の夏も終わろうとする時だった。貴女が東京の学校へ転向するという噂と共に、貴女の姿がぷっつりS校より見えなくなった。僕は非常なさびしさに襲はれ、心にぽっかりと穴があいた様な気がした。この時始めて好意が愛情という形に変化していたのを知った。二週間後に突然洋子さんの姿をS校で見た時、思はず叫び声を挙げそうになった。あの時貴女が転向したままだったら、私の現在の悩みも或は姿を消していたのかかも知れない。

 九月中旬の事だった。親友のN君と塩尻まで葡萄を食べに行った。その帰途N君の家に立ち寄った。彼の家で私の心を揺り動かし理性の眼を曇らせる写真を見てしまった。貴女の琴の会の写真だった。この日まで貴女に琴をする様な面があるとは知らなかった。それ迄は貴女の優れた頭脳や、家事を切り廻すような面に感心していた。女らしさと清く澄んだ美しさの溢れる写真を見た時、私は何か体ごとぶちつけたいような衝動にかられた。私の初恋とも云うべき強烈な感情が盛り上がった。あらゆる障害をけちらして燃え拡がろうとする感情の前に理性はひれ伏した。東大受験という大きな試練を控えていたのに、習慣的に机に向かっても、いつとはなしに方針状態で空中に洋子さんの面影を描いている自分に気がつくのが常だった。夜は布団に入っても眠ることが出来ず、三時間も四時間も煩悶を続け、疲れきって浅いねむりに落ちても夢になやまされた。大事な受験勉強も忘れ、無限の彼方に輝く星を眺め貴女の家の前をうろついた事もあった。然し見掛け倒しの私の弱い心は、今一歩の所でためらって了うのが常だった。学校で貴女に会はないと一日中落ち着かなかった。そのくせ一目貴女を見ただけで心は異様な鼓動をした。心の乱れを他人に知られまいと横を向いたり下を向いたりして廊下で貴女とすれ違った。  2000/12/26

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 秋もたけなわになり、緑の山々も紅葉しようとしていた。未だ夏の面影を残す白雲はきらきらと輝き、太陽は諏訪湖の水の上でゆるやかに踊った。余りにも乱れた心の収拾に困難を感じた私は、独りで考へてみようと思い立ち、正午頃湖の岸辺に座った。波は岸辺に近づくにつれて褐色を増し足下で飛沫をあげて砕けた。来る波も来る波も同じような飛沫をあげた。私の思いは受験の事と貴女の事との間をとめどなく動いた。太陽が赤々とした最後の光を投げて山稜の彼方に去った時、私は泣けて仕方がなかった。貴女に対しても積極的な行動を示すことが出来ず、そうかと云って受験勉強にも手がつかず、毎日を無為にすごしている自己に、私は嫌悪を感じた。こうして座っている間にも太陽は一日の去ったのを告げた。又貴重な一日がすぎたのだ。私はこの瞬間に東大突破に全力を捧げようと決意した。このようにして私は貴女を抱きしめたいような衝動に別離を告げた。あくまで一時の別離を。
 昭和廿七年三月廿七日。東大突破。あれ程この日を待っていたのに、遂に私はこの機会にも、私の思いを貴女に打ち明けることなくして上京した。あの時の焦燥。憧れの東大生活は破防法反対運動に始まった。四月廿八日、六月十日、六月十七日とストライキがつづいた。六月十日の早大に於ける大会には僕も参加し、夜は渋谷で署名を取った。この夜始めて警察予備隊の出動を見た。この日東大生に相当数の怪我人も出た。国会へも請願に行った。国民の国会を青兜が占領していた。早大事件の暴虐ぶりにも目をみはった。田舎から東京に出てきた僕は全く驚いた。田舎で読んだ新聞と、この目で見た事実のあのような大きな懸隔、今迄に僕の築いてきた知識は一片の反古にすぎなかった。世の中の矛盾がパノラマの様に目に写った。恐るべき死の商人は、未だ戦塵の収まらぬ内に早くも次の金儲けを企てていたのです。僕らの先輩が叫んだ「わだつみの声」を又僕等に叫ばせ、ケロイドに苦しむ人々を又産み出そうとしているのです。すべての矛盾が、社会機構の矛盾に結びついているのではないかと疑問を持った。然し私の力は余りにも惨めである事に気がついた。あれ程の全国民挙げての反対にも拘わらず破防法は成立し、代議士は民主主義を謳歌していた。田舎者の私には、どうしていいのか分からなかった。又人間の醜さのみが眼に映った。一体何を信じろと云うのだろう。如何に人生を歩めば正しいのだろう。私は部が夢中の内に夏休みを迎へた。貴女に対する強烈な感情も、刺激の連続のために心の一隅を占めるにすぎなかった。

 夏休みに田舎へ帰った僕はやっと余裕を取戻した。コンパの夜、思いがけなく貴女にお会いした。ずっと女らしさを増した洋子さんに再び心のすべてが奪われた。七月下旬、貴女はお母さんと二人で蓼の海に引越されてし          2000/12/25

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まった。家庭的な破綻からだという噂を聞いた。逆境への同情と共に、私の心はますます荒れ狂った。
 ちょうどそんな時だった。八月一日私は貴女に会うために蓼の海にのぼった。ぎらぎらと照りつける太陽、むくむくと山から顔を出した真白な入道雲、水も滴るような木々の緑と、真青に澄んだ空、その空の下を一歩一歩汗を拭きながら真白い土煙をあげる山道を登っていった。二里近い道を辿って蓼の海に着いた。青々とした水が私の眼を楽しませた。人里より離れた山中に、お母さんと二人で親類の家に厄介になっている貴女の気持ちを考へた時、私は同情の念と共に悲しくなった。夏の登山客と冬のスケート客のための旅館が二軒ぽつんと池の傍にある景色、その景色を未だに忘れることが出来ない。三時頃蓼の海に着いたのだが、貴女は町に行ったとのことで会へなかった。五時頃失望して帰途に着いた。山道で洋子さんにばったり出逢った。あの時の私の狼狽。然し貴女は冷静に挨拶すると身をひるがへして、いつものように静かに遠ざかって行った。後ろ姿が見えなくなる迄、ぼんやり立っていた。どぎまぎして一瞬の内に、一年半近く待っていた好機を失ってしまった。山を下りる私の足は鉛のように重かった。いつの間にか夜のとばりは下り空には一番星が輝き、やがて無数の星が出た。諏訪市が足下に見える所まで来た。夜の諏訪湖は対岸の光を写し美しかった。今日も相変わらずネオンサインが点滅していた。無数の電灯の光、その下で人間の営みが行はれているのだと思った。突然涙で光がぼんやりとかすんだ。

 私は洋子さんの冷静な態度に大きなショックを受けた。この日まで僕の理性は眠りつづけていた。今迄の行動は衝動的感情によっていた。感情に対抗して理性が立ち上がったのは、この日からであった。東大に入ってから僕は惨めだった。人間的にも頭脳的にも数段すぐれた人々を見るにつけ劣等感をかくすべき術もなかった。理性が働き出してからは更に加速度的に劣等感を持った。貴女を愛しているのは僕だけではなかった。貴女に好意以上の感情を持っている人達を僕は知っていた。僕は果たしてこの人達よりすぐれているのかどうかを考へた。貴女の面影と共に、私の欠点が次から次へと瞼に浮かぶのだった。この欠点を持つ私は、貴女を愛してはならないと考へた。貴女を本当に愛するという事は、貴女を幸福にすることなのだと気がついた。僕の様な人間にとっては、貴女の前より姿を消すのが、一番貴女を愛する事なのだと思った。もし僕がこの資本主義社会の矛盾と闘うならば、絶対貴女を、いや女性を愛してはならないと考へた。今はどんな人生を歩むつもりかはっきりしないが、弾圧を覚悟せねばならぬ生活には、十分気をつけなければならないと思った。又再軍備、徴兵が確実になりそうな気配を感ずるにつけ、いつ姿をこの世から消すようになるかと                     2000/12/31

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不安に思った。「また逢う日まで」の悲劇も予期せねばならぬとも考へた。このような事を飽かずに考えて行く時、自分と云う存在の惨めさを十分悟った。人間というものの惨めさであるのかも知れぬ。私の理性は悲しいが、清い思い出としてこの恋を終わらせる事を要求した。

 高校時代の友達H君が私を訪ねてくれた。毎日ぼんやりと考え込んでいた私は、彼と一緒に霧ヶ峰に登った。バスから降りると、うだるような下界に比べ、冷涼な感じがした。なだらかなスロープの短い草の上に仰向けに寝て静かに流れる夏雲を見た。明るい気持ちになり彼と色々な話をした。車山・釜ヶ池・鷲ヶ峰と歩きながら、僕の悩みについて話し合った。帰りは歩いたから十五キロほど歩き廻った事になる。彼は僕が必要以上に自分を卑下していると言ってくれた。僕の感情は味方を得た想いで勢いを盛りかえした。僕の理性と感情は、彼一人の意見に頼ることが出来ないと言った。それからの僕は馬鹿のように友達の意見を聞いて歩いた。??K君。C君。それからU先生。皆僕の感情に同意し、僕の消極性を非難した。U先生だけが、僕の慎重さに敬意を払うと言って下さった。又洋子さんの受験勉強を妨げないように注意するようと忠告して下さった。然し僕の理性は、これらの意見を率直に受け入れることなく、却って頑固に貴女を愛してはならぬ理由を数えたてた。丁度この頃T君より貰った「死の影の下に」を読んだ。この中の文章の一節に次の様な文句があった。「一体、吉田嬢も、木梨嬢も、そして又旗野も、それが時間の彼方で一片の夢と化してしまった以上、今の私をこれ程悩ましていた広川嬢への想いも、いつの日にか夢と変ることがあるかも知れない。ともすれば、そもそも私にとって真の現実とは何だろう?私を押して幾変転、?輪廻りもさせるに至るその情熱−対象如何により犬となり魚となるとも私を内部より支えている大きな生命の焔−だけが実在なのかも知れない。然しその焔もいつしか虚無の底に尾を曳き乍らもえつきる時がある。然もそれは一瞬間の後であるかも知れない。-----」
 くりかへしくりかへし、実感をもって読んだ。貴女への情熱もいつしか夢に化してしまうのか分からないと考えた。いつ僕の生命の焔が燃えつきるか分らないのだ。僕の理性は貴女の前から姿を消すことを要求した。懇願した。貴女を愛するが故に、又永遠に僕の心に貴女の面影を清く美しく残すために、理性の要求に従うことを私は決意した。
 僕はこの決心を文字通り忠実に守るべきだったかも知れぬ。然し進適で失敗したH君や、東大を落ちたY君、M君の姿を見ている僕にとって、この決心を忠実に守ることは出来なかった。彼等は入試での失敗から自分の能           2000/12/31

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力に疑問を持ち、あの良い性格をも否定し、自暴自棄になりそうな言を洩らしていた。貴女にこのような経験を味わせたくなかった。入試に備えて勉強していた最中、東大の先輩I兄は僕によく激励のはがきをくれた。絶望の泥沼に喘いでいた時、一枚のはがきにどんなに元気づけられたか分らない。あくまで一人の先輩として感情を交えないことを条件として、理性もこれを許した。
 八月三十一日、僕は????施行した東大学力コンクールの問題を持って、貴女を激励するために再び蓼の海に登った。深くたたえられた碧い水に、向岸の落葉松の林が逆に影を写し、真白い雲が揺れていた蓼の海の岸辺で貴女と話をした事は未だ覚えていられるでしょうね。僕は貴女の美しい声に感心しながら色々な話を伺った。貴女は草を抜いてはちぎっていましたね。あの時の有様が、それからそれへと懐かしく想い出されます。
 それ以後僕は貴女に何通かの激励文を感情を混ぜることなく、却って棘のある言葉を綴って出した。然しこんな手紙を書けば書くほど、又貴女からの感情を交えぬ返事を貰う度に、私の心は動揺の度を加えていった。貴女の手紙の行間に匂う僕への好意を感じた。僕の感情はささやいた。「お前は一人で何を悩んでいるのだ。洋子さんも僕を愛しているのではないか。洋子さんの気持ちを聞かないでいいのか。この様な情熱を捧げ得る女性が他にいるというのか。------」理性と感情はお互いに譲ることをしない。両方が後ろへは一歩も引かないのです。昨年の十月以来、この状態が続いて来たのです。私は貴女の受験のことを考え、今日まで解決の糸口をもつかむことなく延ばして来ました。然しこれ以上このままにして置いて時が解決をする迄待つことは出来ないのです。

 今日貴女の合格を聞き、早速ペンを取りました。貴女に私の思いを打ち明けようとした事が、これ迄に少なくとも三回はあります。然しあの時打ち明けていたならば、お互いに傷付いたかも知れません。然し今迄の内では、今が少なくとも一番適当な時であると思います。
 大学生活への準備に忙しい貴女にとって、この手紙はあまりにも打撃が大きすぎるかも知れません。この罪をば僕が真面目に考え抜いた末に、この手紙を書いた事を以てお許し下さい。
 僕はこれから、どのような人生を送ってよいか、考えつづけています。社会の幸福の為に一命を投げ出すようになるかも知れません。一生平凡な生活に終始するかも知れません。僕の命は第三次世界大戦により一閃の光と共に終るのかも知れません。然し僕は今この手紙を書かざるを得ないのです。今迄の遍歴により、僕は人間として得た所が大であると思います。僕も貴女も未だ若す                2000/12/31

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ぎて、こんな事を語る資格はないのかも知れません。然しこのような不安な世界にあっても私は、自分を一歩でもより完全にしたいと考えています。どんな事態が起っても、貴女が不幸にならない立場で、僕を向上させて下されば幸いです。
 最後に僕は、あくまで貴女を傷つけたくないと考えています。それ故お母さんにもこの手紙を見せられると共に慎重な態度をとられる事を心から希望します。乱筆乱文にて申訳ありません。
 昭和廿八年三月三十日
       石野 健太郎拝
 藤本 洋子様
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