廿七年度東大教養学部 理二 六B 1953.5.28           戻る

追思  24p          復刻 by 林尚孝

好奇心の産物
  −人相学によせて−
 〜退屈者読むべし〜
服部 光雄

 先の見えぬ者が集って、激論をとばしていると「俺?は先が見える」と言う奴が出て来る。どうせ????っても人間の事だ。でもそれに便乗する奴が居る。このゆな連中で、でっちあがられたのが人相学である。
 所謂、科学的予言の流行する世の中だから、占いのうちで、最も合理的?と思われる人相学が八卦よりはやらないのはなぜだろう。
 その一つの答えはこうである。例えば、或人が顔の一部を指されて、「貴兄はこの部分が発達しているからどうこうだ」などと云われて見給え、何だか自分のプライドを傷つけられたような気もするし、八卦にくらべて、直接的で物足りない。
 ところが、手の筋八卦という奴は、わけの解らぬ曲線群を対象とするだけに、より神秘的な力をもっている。ここで知らない人の為に述べると(間違っていたらご免なさい)人相学の発生は、ゲーテと同時代、かの山師ラ             2000/12/31

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ファーテルによるものである。彼等一派によれば、人の性質は脳の各葉の発達工合で解るとしている。
 諸君よ、大脳の機能局在説の出現前のこの冒険を笑ってはいけません。
 今だって、脳の重さだけで、その人の徳をしのぶ人がいますよ。はかる物差のない時には誰しも目分量であて推量といくのが人情の常。これだって東洋人の直感の神秘に比べたら物の数ではない。ここまで読めば、「何を、服部と云う奴は物ずきな」と思う人が多いでしょう。しかし、少し待ちなさい。
 1+1=2が近代精神のスタート台だとするならば、我々がおよそ、現代の合理性を信ずる事が出来ないような事実が、現実には何と多い事でしょう。天体の運行から亀の甲の占い-------人相と進んで来た所謂フレノロジーという奴の経過を見てさえ、人間の頭の無器用さがしのばれようというもの。それが誰でもない、我々と同じ頭がやって来た無数の間違い、更にその間違いにしがみつく感情という奴まで--------。
 そんな不愉快な感情でなくても、本当に重大なものが未だ外にある。無器用な頭の大群を小器用な頭が引きづる時に、本当にすぐれた人にまで味はせる幻滅というもの------。
 諸君がドーデーのフランスの仙女の嘆きに、共感を持たれるか如何か知らないが。
 合理に圧しつぶされる人間のあはれさ、合理が人間からはなれて動き出した時代の恐ろしさ、そんなものを身にしみて感じているのは我々ではないのかと云うわけ。
 僕が人相学という「陽の当らない場所」に想いをいたして、そこから言わんとするものは、未だに人間の集団を蒙昧が支配しているという事。更に天才の言葉を半解して、おとなしい民衆を引きづる実行力のある人々の一群があるという事。
 現代には人相見がはんらんしている。小は株の相場師から、大は言わなくても解るはず。
 僕は言いたい。「現代から憶測を放逐せよ」と。          2001/1/1