廿七年度東大教養学部 理二 六B 1953.5.28           戻る

追思  39p          復刻 by 林尚孝

富士登山
   浅見 恵司
 一昨年の七月十四日、私は弟と憧れの富士登山を試みた。前日まで雨天続きの空も、当日は幸運に恵まれ、すっかり晴れ渡り、登山には絶好であった。馬込から五合目までのコースは、私の想像通り富士としての雰囲気は格別であった。途中から見る山頂は手にとれるほど間近にあり、三時間もすれば楽に征服出来るものと意気盛んであった。然しいざ登ってみると、全く予想に反し、五合目から七合目の間だけで、約二時間半を費やし、山小屋に着いた時は夜は十時にならんとしていた。人生航路も恐らく斯くの如く、見る目は易く、実際は峻厳なものであるに違いなかろう。五合目よりのコースは、道と云うべき道は全くなく、只、火山特有のがさついた斜面を登るのは単調であり、然も私のような登山の経験のない者には少々困難であった。と云うのは気圧気温の低下による呼吸の苦しさと、寒さとは、激しい上昇運動により大きな負担となり、これが八合目、九合目と高くなるにつけ幾何級数的に増すからである。最も小さい小学生が平気で登り、或る屈強な若者が僅か三時間で、富士吉田から出発して頂上に着くと云うから、私の方が人一倍この様な事には不慣れなのかも知れない。七合目の山小屋に着いて、一枚の、真にお粗末なふとんに入ったが、一向に寝つかれなかった。それもその筈、この薄いせんべい布団では、この低温を凌ぐのには、余りにも貧弱すぎ、背中がごつごつして、これで熟睡出来たら余程無神経な男であるに違いない。その上元気のいい若者が後からどやどや入って来て、酒を飲み、大声で歌を歌い始めたのだから堪るものではない。私はこんな????????し、彼等に少々静かにするようにと、無愛想に云ってやった。然し彼等は私の忠告など全く意に介せず、却って益々騒ぎ出すので終いには寝る事は断念し、彼等の不作法を何故善意に汲み取ってやれなかったのかと??歯がゆく思はれるおうにさへなった。それから??夜具を                                 2001/1/1

40p
経つと私の肩をたたく者がいるので一寸ふりむくと驚いた事に一人の少女が英語で I can't sleep, can you? と話しかけて来た。よく見ると金髪の女の子である。今の今まで、私の隣にアメリカの美人が寝ていようとは全く気がついていなかった。いや驚きというか、失礼だったと云うか、いや驚きと云うか、失礼だったと云うか、これほど狼狽した事はなかった。彼女は毛布を頭からかぶっていたので、少しも分らなかったのである。そこで私も片言の英語で彼女と富士山についての感想、果ては日本人、アメリカ人の国民性について話し合った。話し始めると予想外によく話せるものである。私は内心少々得意になっていた。やがて十二時頃になると彼女は I am sleepy, I am sleepy. と連発していたが何時とはなしに寝込んでしまった。さてそうなると私が如何に心臓が強くとも、彼女の脇に寝るほどの無頼漢ではない。小屋の番人に云って別の所に床を敷いて貰った。五十畳敷以上もありそうな所で、こんな事が起るのも偶然とは云えぬかも知れない。私は翌朝三時、真暗な中に出発の身仕度を備え出掛けようとすると、例の金髪娘は母親と共に起き出し、これ又出掛けるから、暫く私に待ってくれるように話し掛けた。私は彼女等と共に行けば、相当の負担になる事は百も承知の上で同意した。出発の前、宿賃一人分金二百五十円をとられた。彼女はたどたどしい日本語で、いくらですかと番人に尋ねるとツーハンドレッドフィフティ(two hundred fifty) と答えた。主客転倒である。それから懐中電灯を頼りに登山を続けたが、お蔭で非常な負担となったものの、実に楽しい、思い出深い登山となった。その時の委しい内容については皆の想像に委せることにして、今はこの辺で私の登山日記の一片を披露した事にしよう。