2−3、芸術を楽しむ


歌謡曲に芸術性というとやや大げさに感じるが、森昌子の歌に芸術性を感じる時がある。それは十八歳前後のライブだ。ライブ録音はその数が限られているが、特に一九七七年八月の「新歌舞伎座特別公演ライブ 涙の熱唱」は、その舞台に張り詰めた緊張感や声の素晴らしさから聴衆が感動を受けているのが感じられる。また、一九七七年三月の「演歌に涙と青春を 浅草国際新春公演ライブ」は、声が素晴らしくて、声そのものに完成されたものを感じる。

 これらのライブ録音以外にも、森昌子のライブ(舞台)録音では歌謡曲を超えた、芸術に近い歌声に多くの人々が感動している様子がうかがえる。


ブログ18.森昌子、高校3年生のアルバムから(その2)

前回、高校三年生と言うことで二枚のアルバムを取り上げた。今回も二枚のアルバムを取り上げたい。十八歳の高校三年生のライブアルバム「森昌子 五周年記念 青春の熱唱、歌舞伎座特別公演」(一九七六年十一月)と、同じく「演歌に涙と青春を 浅草国際新春公演ライブ」(一九七七年三月)だ。

ライブアルバム「五周年記念 歌舞伎座特別公演」の方は、組曲「おかあさん」の中で歌った「母に手紙を書くときは」がすばらしい。多分観客の多くが涙したのではないか。それだけ、心に訴えかけるものがある。でも、アルバム全体を聞くと、緊張感に乏しい、間延びした舞台のような感じがする。司会者が久米宏で、昌子の歌の紹介に、熱が入っていない。昌子に高校三年生の日常生活や異性のことなど質問して雰囲気を盛り上げればいいのに、ただ機械的に舞台を回していて、観客も昌子も、舞台に集中できていない。ヒットメドレーなどきれいな声で歌っているのだけれど、心に訴えかけてこない。

YouTubeから

 (この舞台の動画が最近、一部アップロードされている。このアルバムに含まれていないが、舞台で歌った曲として「ひばりメドレー」や「涙の連絡船」がある。アルバムの順番に曲を紹介しています)

1、口上 http://youtu.be/hUTkxaY3k_A 

2、あなたを待って三年三月 http://youtu.be/KtzUHsJgQ_c 

3、今日も笑顔でこんにちは http://youtu.be/z9LOOtX9pm4 

4、下町の青い空 https://youtu.be/eftt6ROeuVI 

5、おばさん https://youtu.be/4uczR7V3wQI  

6、面影の君 https://youtu.be/7gSieEhFNXE 

7、夕笛の丘 https://youtu.be/fyd4Mq6zT2M 

8、ひばりメロディー(アルバムに含まれていない)https://youtu.be/EpuUGtafPAY

9、涙の連絡船(アルバムに含まれていない)https://youtu.be/kqscaw_5fLk

10、母に手紙を書く時は https://youtu.be/sdesuGljs2E  http://youtu.be/2iNbFlHEm8c(アルバムより)

11、あの人の船行っちゃった https://youtu.be/PHFRj03NVw8 

一方、アルバム「演歌に涙と青春を 浅草国際新春公演ライブ」は、玉置宏が司会をしており、落ち着いた雰囲気の中での熱唱だ。すべての曲を丁寧に美しく情感をこめて歌い上げており、観客も酔いしれるような最高のステージだ。レコードで聞く声よりはるかにきれいな声で、心に訴えかけてくる。特に、「面影の君」はこんな声は聞いたことないというような、透きとおった、情感をこめた歌い方だ。「夕笛の丘」、「涙の連絡船」、「潮来の花嫁さん」も絶品だ。その他すべて曲をきれいに歌っている。昌子のアルバムの中で「涙の熱唱」と同じかそれ以上の最高のアルバムだ。


YouTubeから 

SIDE1

1、お江戸日本橋 http://youtu.be/isrLvYy5dKA (このアルバムではありません)

2、恋ひとつ雪景色 https://youtu.be/P3SS_THy3fg  

3、おかあさんhttp://youtu.be/o7b76vy68K4 (一九八一年) https://youtu.be/OXm9nEfDD4s https://youtu.be/sO3reU63u1k (このアルバムではありません)

4、せんせい http://youtu.be/A8bSuHnO48k https://youtu.be/sO3reU63u1k https://youtu.be/VIEXkYHXzzY (このアルバムではありません)

5、小雨の下宿屋http://youtu.be/xvN0Pzq1Z8I  https://youtu.be/tym6RAVkuaM (一九七七年三月) 

6、夕笛の丘 http://youtu.be/A3P-a2krlZE(このアルバムではありません) 

7、面影の君 https://youtu.be/_6C6KrMFytM   

8、あなたを待って三年三月 https://youtu.be/5VXgkp2i4Yc (レコード)

SIDE2

9、涙の連絡船 https://youtu.be/hC_YnExJ8qI   (このアルバムではありません)

10、潮来の花嫁さん

http://youtu.be/PYntSt8gliI (ライブ版) https://youtu.be/LV5Za8MxPig (一九七七年) 

11、他人船 http://youtu.be/5lg6ruieEN0 (一九七五年)  https://youtu.be/wPQJF7eqZEA 

12、思い出をください http://youtu.be/xPAbm6vwenA (ライブ版) 

13、あの人の船行っちゃった http://youtu.be/1tUAJapVIu0 (ライブ版ではないが、力強い歌い方)



ブログ19.森昌子の「新歌舞伎座特別公演ライブ、涙の熱唱」(1977年8月録音)

好きな歌手の歌は、虜(とりこ)にされたら、一年や二年は離れられないのだろう。多分恋人との関係も、そういう腐れ縁的なものがあって、別れるのに一年や二年、それ以上かかるのだろう。私も森昌子の歌に虜にされて、あと四ヶ月ほどで丸二年だ。ほとんど毎日聞いている。それでも、色々新しい発見や感動が呼び起こされる。これは、やはり、YouTubeの影響が大きいのか。多分、これが流布する前なら、森昌子は、三十年前のファーンの心の奥底にしまわれた思い出にとどまっていたことだろう。たとえCDが発売されていて、その歌声を聴いたにせよ。というのは、彼女の歌声はすばらしい。しかし、その動画に映し出される表情のすばらしさが無ければ、私をこんなに虜にするはずが無い。顔の表情と歌声、それを三十数年の時を隔てて、今の私に感動をもたらすのだ。  

西洋の音楽にクラシックがあり、その中の一つの部門に交響楽があり、ベートーヴェンやモーツアルトの曲を聴いて多くの人々が感動するように、私も、昨日森昌子の三十五年前の「新歌舞伎座特別公演ライブ、涙の熱唱」(一九七七年八月録音)のレコードを聴いて感動した。初めて聞いたレコードだ。三十五年前に逆戻りした?いや、私は今の私だ。今の私が感動しているのだ。もし三十五年前に戻っても、その当時の私なら森昌子に感動しなくて、岩崎宏美の方が好きだっただろう。クラシックに感動する人々が今であり、森昌子に感動する私が、今の人間なのだ。過去の私が、懐かしみ感動しているのではない。

このことは大事だ。ベートーヴェンが今タクトを振るわなくとも、その曲は生き続けている。森昌子が今その歌を歌わなくても、その曲は生き続けているのだ。だから、映像も、音源も大事にして欲しい。それは、再び評価され、西洋のクラシックと同じように蘇り、人々を感動させるかもしれないのだから。

 


ブログ20.森昌子の歌が最も芸術的であった時(2014/9/21)

森昌子の一八歳のアルバム「新歌舞伎座特別公演ライブ 涙の熱唱」(一九七七年八月二十七日録音)は芸術とは何かを考えさせる、すばらしいライブの録音アルバムだ。僕はこのアルバムを聞くたび、芸術性と大衆性という言葉が浮かび出る。大衆性とはまさしく森昌子の二十代の歌だ。なぜ、これほど芸術的な歌声を披露した人が、こうも大衆的な歌声へと変節していったのかと。あるいは、この芸術性は一過性のものだったのだろうか、と。

このアルバムのどこに芸術性があるのだろうか。あるいは芸術性とは何なのかと言うことが問題になる。まず、このアルバムを聞いてみよう。そこには劇場に張り詰めた緊張感がある。何に緊張しているのか。それはまさしく森昌子の声に緊張している。その完成された歌声、メリハリの聴いた強弱、ミスのない音程、透きとおった、繊細な、張りのある歌声。観客誰一人身動きせず、集中して歌手の歌声に聞き入っているようだ。それは静寂の中の緊張感だ。一曲一曲に、観客は感動し、それを抑えられなくなる。

芸術とはこういうものだと思う。それは完成度の高いものへの賞賛だ。緊張して身震いしながら聞く。こうしたことがこのアルバムからは、いつも感じ取れるのだ。それほど森昌子の声の完成度は高い。

 例えば、このアルバムの「なみだの桟橋」は圧倒的な森昌子の感情にどうしようもない感動がこちらに呼び覚まされる。森昌子が何に感動しているのかわからないが、それは歌詞の内容ではなくて、もっと個人的な森昌子が悩んでいる事柄だろう。森昌子が歌に、これほど感情をぶつけられるのはこの歌だけだ。この時期、彼女の中に、強い感情が湧き出る、精神的な事象が生じていたのだろう。

この「なみだの熱唱」を境に、森昌子の芸術性は消滅していく。それに代わり、大衆性が頭をもたげてくる。

YouTubeから

アルバム「森昌子 新歌舞伎座特別公演ライブ 涙の熱唱」 SIDEA

あの人の船行っちゃった 下町の青い空 面影の君 あなたを待って三年三月 おかあさん

おばさん 夕笛の丘 

宵待草 https://youtu.be/PFTsQ4Dx1j8 (このアルバムとは違います)

カチューシャの唄 http://youtu.be/aZhCftV2M9k (このアルバムとは違います)

ゴンドラの唄 http://youtu.be/Cgi6gPZMCI0 (このアルバムとは違います)

篭の鳥 http://youtu.be/LBRconuzHzc (このアルバムの歌声)

城ヶ島の雨http://youtu.be/fUat66RYcK4  (このアルバムとは違います)

波浮の港 YouTubeなし  https://youtu.be/CUcFazKVbMM (小川明子)

SIDEB

出船 http://youtu.be/yH9PiTVvKFY (7周年ライブの音声?)

船頭小唄 http://youtu.be/EjsGZzkeuuo (このアルバムの歌声)

そうるお国めぐり 小雨の下宿屋 港のまつり なみだの桟橋 この胸の幸せを

 

なお、YouTubeに同じ時期の映像と思われるのがありますので、参考に掲載しました。

せんせい http://youtu.be/A8bSuHnO48k なみだの桟橋 http://youtu.be/u0E-nLiM208 

この胸の幸せを http://youtu.be/hWBoGU8u-e4 


ログ21.森昌子「あの人の船行っちゃた」の感想

ブログを書くことが、歌謡曲への信頼に繋がるのか、あるいは歌謡曲そのものに信頼出来る何かを秘めているのか。あるいは、人は音を聞く能力を一体として持って生まれているのか。

これまで、歌謡曲を聴いて、きれいな、と言う感覚は無かった。気持ちに寄り添ってくれたり、同じ気持ちに同感したり、喜んだり悲しんだり、メロディーが口に出てきたり。しかし、森昌子のライブ「涙の熱唱」のオープニング曲の「あの人の船行っちゃった」を聞いていたら、まず口から出るのが、きれいだな、と言う言葉だ。

なんときれいなんだ、こんな声がよく出るもんだ。そういう感想だ。そして、歌っていうものが、とても信頼できるものだな、と言う信頼感が出てくる。歌に信頼感?変な表現だが、確かに歌と言うものに信頼感が蘇る。あまり他の歌手はよく知らないが、そういう歌手もたくさんいるのだろう。でも、歌謡曲が、単なる言葉遊びや、メロディーだけなら、信頼感は生まれないと思う。

 歌に信頼感?不思議な感覚だが、例えば、『この声は今まで聞いたことがない声だぞ、でも何かを刺激する、この力強さ、繊細さは何だ』とでも言っているような。もしかして、ピアノやヴァイオリンで名曲を聴いたとき、すばらしい、と連発している感覚と同じかもしれない。

 歌に信頼感。森昌子にして、初めて持った感覚だ。

 
YouTubeから   

あの人の船行っちゃった https://youtu.be/PHFRj03NVw8 (一年前の歌舞伎座のライブ映像)
YouTubeから   


ブログ22.森昌子の歌に感動する理由を考える

時たま人のブログを見て、森昌子の歌にはまってしまったという文章を見る。私もそうなのだが、森昌子の歌のどこにはまり、感動するのかを考えてみた。森昌子の歌は大きく分けて、二段階に別れると思う。十代の歌と二十代。そして感動するのは十代の歌だ。

では、十代の歌のどこに感動するのだろう。僕が思うには、歌へのその姿勢だと思う。十代の歌い方はそれほど感情をこめていない。感情をこめていないが、歌へのゆるぎない信頼感、あるいは歌を通じて人びとに感動を与えたいという強い思い、あるいは自分の心の思いを歌を通じて人にぶつけたい気持ち、そうした歌への真摯な、素直な強い気持ちがこちらに伝わってきて、感動するのではないかなと考えたりする。

歌に感動するというのは、とても珍しいことだ。尾崎豊のアウトロー的な曲も良かったが、森昌子の歌は全体を通じて感動する曲が多い。高石ともやとザ・ナターシャセブンの歌も全体的にいい歌が多いが、ここまでのめりこまない。もしかして、自分の年齢や環境と大いに関係しているのかもしれない。年齢や環境が、森昌子の十代の歌と波長が合うのだ。でも、おかしな話だ。時は四十年が過ぎ、歌は十代の少女の幼い恋心を歌っているのに、そのギャップはどうなのだろう、と言う疑問も沸く。

そして、なぜ、今なのかと言う問いもある。それへの解答は、多分インターネットの普及だろうと思う。ネットが普及して、簡単に昔の画像を見、歌を聞くことができるようになった。私が森昌子の歌を聞き始めたのも、YouTubeの動画を見てからだ。YouTubeにより、これまで知らなかった森昌子の歌の世界を知ることができるようになったのだ。森昌子と言う歌手は、多くの人に「せんせい」や「越冬つばめ」の印象しか残っていないと思う。十代の歌にこれほどの感動が潜んでいるとは、誰が想像できただろう。

でも、時は過ぎ、歌は過去の十代の歌だ。今更と思う。アグネスや岩崎宏美や山口百恵の十代の歌を聞きたいとは思わない。でも、森昌子の十代の歌は感動する。それは多分、一九七〇年代と言う時代性ではなくて、歌そのものの持つ、時代を超越した、芸術性のようなものではないかなと思う。

そのことは、大正時代の歌や、昭和初期の歌、古賀メロディーにも共通する、今の人の心にも訴えかける普遍的な歌謡曲の芸術性ではないだろうか。絵画や古い建築物、仏像、装飾品、童謡、クラシック…多くのものが、それを作った人の強い思い入れで創造されている。それは即席ではできない、忍耐や強い信念、それと秀でた芸術性が必要ではなかったのだろうか。

森昌子の歌の感動には、彼女自身の生まれ持った声、それと歌への真摯な取り組み、そして作詞・作曲者との共同作業において初めて芸術的な創造性が形成され、時を隔てて今、この社会の中に身を置く人々に、生きる勇気を与えているのではないだろうか。森昌子の十代の動画の中で、NHKビッグショーの動画が最もこのことを言いえているように思う。

YouTubeから

この胸の幸せを http://youtu.be/hWBoGU8u-e4

(彼女のオリジナル曲の中では最も社会性のある歌だろう)

せんせい http://youtu.be/A8bSuHnO48k

なみだの桟橋 http://youtu.be/u0E-nLiM208  

(ただただすごいとしか言いようのない歌い方だ)


ブログ23.森昌子「熱唱ひとり舞台」(1978年9月21日帝国劇場)

「熱唱ひとり舞台」、もうすぐ二十歳の森昌子の変換期の舞台だ。全力で二時間歌いきり、思いのたけをぶっつけた舞台だ。

「いつまでも愛していたい」。

この最後の歌と同じ心境で歌っている。ひしひしと伝わってくる。でも、目標が定まらないためか、誰への歌なのか、よくわからなくなってくる。ファーンが拡散しているため、演歌あり、民謡あり、歌謡曲あり、宝塚のような歌劇ありで、焦点がぼやけている。やはり、自分自身にも迷いがあるのだろう。聞いている私も迷ってくる。歌が上手なのか、下手なのか、どれも、並以上なのだけれど、感動まで行かない。その物足りなさ。

一方で、私はこのステージで、彼女の温かさを感じた。軟らかく包み込んでくれるような、いつまでもそばにいて離れたくないような。森昌子の歌の本質は、十六、七才頃の歌でも感じられた、人への共感性、信頼性のようなものでないかと思う。僕は、彼女の片思いの曲が好きなのだけれど、このステージでの組曲「ほたる子」でも、恋する人を強く思い、共に死んでいく物語は、彼女にとって、そう架空でもないような気がする。

でも、彼女も大人になった。大人になればこその悩みなのだろう。若者にも、おばさんにも、お父さんにも気を配りながら歌う。一度、やはり、この時点で歌手を辞めて、大学に入り、もう一度人生を見つめなおして、そして再度歌手を目指しても悪くなかったのかな、とも思う。そうすれば、一回りも二回りも大きな歌手に成長できたかも。「越冬つばめ」や「悲しみ本線日本海」で終わらない、もっと多くの日本人の心を打つ、大歌手に育ったかも、と少し思う。

また、このステージを聞いて思うのは、低い声が少し違って感じられて、とても魅力的になっていることだ。どの歌がと言うことは、はっきりしないが、年齢と共に高い声よりも低い声に、つやが出てきたのかもしれない。こうした、低い声を使った歌を歌えば、違った森昌子の歌に出会えたかもしれないと思う。

十代がすばらしいだけに、二十歳代の歌を聞くにつけ、もう少し違った展開があってもいいのになあ、と残念に思ったりする。

YouTubeから

このステージでよかったなと思う曲(二〜三曲を除いてこのステージ上での歌ではありません)

・22才の別れ http://youtu.be/s5cW4CtP9qo 

・無縁坂 http://youtu.be/fD9i1GNJdxM 

・なみだの桟橋 http://youtu.be/d5ah0YVrEpE 

・竹田の子守唄 http://youtu.be/MzLi_4c44R4 (ステージでの曲?)

・南国土佐を後にして http://youtu.be/Io0pI-xJM0o https://youtu.be/SOlQ5Bd6rRY 

・組曲「ほたる子」(次のブログで取り上げています)

・父娘草(おやこそう) http://youtu.be/N8cekpyOGCw 

・お嫁に行きます http://youtu.be/GbNEu425yRo 

・彼岸花 https://youtu.be/LVjKuCqfFUE  https://youtu.be/Js-wc4ksIMU 

https://youtu.be/oe2pHTMmQaY https://youtu.be/4GsCAZvM1BA  https://youtu.be/KiBfoUlA_4w     

・津和野ひとり http://youtu.be/ymMytaJ-wLc  、http://youtu.be/48RRNV_8AI8 

https://youtu.be/Fcc6IJVdySk (1981年) https://youtu.be/_85BIgFF4EE 

・いつまでも愛していたい http://youtu.be/FCSflvikZmA (ステージでの曲です) 


ブログ24.生きることの尊さを訴える組曲「ほたる子」


岐阜県への出張中、限られたCDを何度も聞いていると、森昌子の曲も飽きがくる。それで、今日大阪への帰り道は、彼女のライブのCDを聞いた。二十歳前のライブアルバム「熱唱、ひとり舞台」だ。十八歳のときの「涙の熱唱」より声の張りが落ちている感じがするが、それでも、生の昌子の声や冗談やしゃべりを聞いていると、彼女の人柄が伝わって来て、こちらも気持ちよくなる。十九から二十歳にかけて、彼女の顔が徐々に細くなってきているようだ。それまで子豚のようなふっくらしていた顔が細く険しさを持つようになってきている。でも、ライブの声はまさしく森昌子であり、温かだ。
 その中で、組曲「ほたる子」はすばらしい。とても感動的で、人びとを勇気付ける言葉に満ちている。その言葉は、それぞれの境遇により、違った言葉に、意味にとらえられるだろう。そしてそれぞれに深い感動を与えると思う。貧しくて結婚に踏み切れない男女、東北で地震や津波にあい、苦しんだ人、生きることに悩んでいる人、あるいはふと自分の境遇につらさを感じるような人に。
 多分、こんな言葉など必要ないだろう。組曲「ほたる子」を一度聞いて欲しい。聞けば、ほたる子の生き様と自分の境遇が相対化されて、感動が湧き上がるだろう。そして時空を越えた、音楽の美しい世界に引きずり込まれ、生きることの尊さ・美しさが感じられるはずだ。

YouTubeから
オリジナル組曲「ほたる子」
 娘の名はほたる子
 ほたる野の伝説
 恋唄
 生きて下さい 愛して下さい https://youtu.be/lY0QeselUn4 
 ほたる子のテーマ


ブログ25.作詞家・杉紀彦と森昌子2013/7/29

 

今日も福井に来ています。大雨警報が出て、仕事は中止。ビジネスホテルに戻って、パソコンを開いて、森昌子の歌を聞いています。

今日も、車の中でアルバム「デビュー七周年記念リサイタル ひとり舞台」中の組曲「ほたる子」を聞きました。やはり感動しますね。その中でも「恋唄」はいいですね。恋人ができた嬉しさ・不安感を気持ちを込めて表現しています。その他の歌も、ほんとうに歌詞と声と曲がマッチしています。この作詞家が杉紀彦という人。彼はこれまでも、昌子の舞台でのエンディングテーマなど作って、舞台の最終場面を盛り上げてきました。例えば、国際劇場での「思い出をください」、新歌舞伎座特別講演ライブ「涙の熱唱」の「この胸の幸せを」、この七周年記念リサイタルでも「組曲」のほか、「いつまでも愛していたい」も作詞しています。レコードのA面では、「なみだの桟橋」や「春の岬」、「ため息橋」がこの人の作詞。

  以前私は、作詞家「阿久悠」を変態おじさんと名付けたのですが、果たして杉紀彦という人はどういう人なのでしょうか。アルバム「北風は暖かい〜今、故郷は…〜」はすべてこの人の作詞ですね。私はこのアルバムを持っていないのですが、「花追いびと」や「ふるさと日和」などを聞いていると、いい感じの人だなとは思います。

  歌手というのは、自分一人で出来る仕事ではないのですね。歌手の気持ちを理解した上で作詞するもの、そして歌手の声域や声の特徴を理解した上で曲にまとめるもの、それをアレンジするもの。これらの協力者があって、初めて歌手の気持ちにあった歌が出来上がるのですね。杉紀彦と市川昭介や服部克久という作曲家が協力して、森昌子の良さの一面を引き出してきたのですね。

YouTubeから

思い出をください http://youtu.be/xPAbm6vwenA 

この胸の幸せを http://youtu.be/hWBoGU8u-e4 

いつまでも愛していたい http://youtu.be/FCSflvikZmA


ブログ26.森昌子の歌から考えたことー生きるときめき

森昌子の歌はなぜ三年の月日の経過に関わらず生き続けるのだろう。今の私に、森昌子の歌が、何を与え続けてくれているのだろう。逆に、今の私に何がたりなくて、森昌子に歌に頼っているのだろう。

与えてくれたのは、「感動」だった。確かに、これまでの私には感動はなかったと思う。テレビドラマで感動するものもあったが、最近の私にはなかった。この感動する思いが、私に新たに付け加わった感じがする。その原因は、やはり本を読まなくなったり、人と話したり、人と深く付き合ったりしなくなったことにあるようにも思う。金を稼ぐだけの毎日。人との関わりも、仕事を通じての表面的なもの。こうした毎日を過ごす中で、いつしか濃密な人間関係がなくなり、精神そのものが浮き草のように軽くなっていったのかもしれない。

こうしてよみがえった感動する心を、再び実社会で、実体あるものするにはどうしたらいいのだろう。再び、同じ様な歌手を探し続けるのか。あるいは、そのような女性を自分の身近に求め、探し続けるのだろうか。感動する心とは何だろう。それは若いときには、そういう言葉を発しなくても、毎日が新鮮であり、期待や不安があり、心ときめいたのだろう。

だが、年を重ねるに従い、そうした毎日の新鮮さが影を潜め、給料の金額ばかりが頭を占める時、心のときめきがなくなったのかもしれない。そうだとするなら、森昌子の歌は、生きるときめきを歌っているともいえる。本人は何も感じなくても、三年の時を隔てて、こちらにその若さのときめきを伝えてくれているのかもしれない。そうした時、喪失した生きるときめきを、別の言葉で、「感動」と言う言葉でよみがえらせたのではないだろうか。

「感動」とは、生きるときめきなのだろうか。良くわからない。毎日毎日、仕事で、生活で押しつぶされそうだ。仕事にそれほどときめきはない。よみがえった感動する心を、実社会で実のあるものにしていきたい。心ではそう思うが、身体がついていかない。身体が老いてきているのだろう。でも、それにあらがって生きていこう。


ブログ27.森昌子の歌に共通する『やさしさ』

歌は色々な心模様を描く。歌手はその状況に合わせて、気持ちをこめて歌う。森昌子もそうだろう。でも、歌手の歌には全ての歌に共通する思いがあるのではないだろうか。

森昌子の歌は全体におとなしく、静かだと思う。静寂の中で響く、琴やピアノ、山で聞く小鳥のさえずりや、風のざわめきや沢の水音のような。その声は人に向かって放たれる。それを聞くと、人は優しい声だなと思ったり、あるいはもっと違った感情が思い起こされるかも知れない。でも、私は全体的には森昌子の歌の根底には「人へのやさしさ」があるように感じる。それが彼女の、十代、二十代を含めての共通のものではないだろうか。

彼女の根底にある「人へのやさしさ」とは、いつも聞こえるとは限らない。それは聞く時の心の状態により、微妙に変化する。感じる時もあれば感じない時もある。いつもは感じないのに、今日だけ感じる時もある。でも、僕は押しなべてそのような気持ちがたびたび聞こえる。その声を聞いたとき、僕は感動し、優しい人だなと思う。

YouTubeから

「熱唱ひとり舞台」を中心にして

竹田の子守唄 http://youtu.be/MzLi_4c44R4 

お嫁に行きます http://youtu.be/GbNEu425yRo 

いつまでも愛していたい http://youtu.be/FCSflvikZmA 


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