2−11、「昌子哀愁」を楽しむ

森昌子が二歳の時に出したアルバム「昌子哀愁」(一九七九年七月)は全編が阿久悠作詞で、作曲は市川昭介や平尾昌晃ら五〜六人が分担している。アルバム全体を貫く統一性が不明瞭で、一体何を歌っているのか、誰のことを歌っているのか、恋愛なのか失恋なのか、人生の苦しさなのか喜びなのか、よく分からない。「昌子哀愁」といいながら、全く哀愁を感じさせないさっぱりした舌触りなのだ。だから、多くの人は一度聞けば、すぐに放り捨てて置くアルバムだと思う。当時、このアルバムは売れなかったと思う。あるいは売れても、買った人は騙されたと思った人が多いのではないだろうか。

 しかし、不思議なアルバムでもあるのだ。何度か聞いているうちに、少しずつ味が出てくるのだ。若い男の話なのかそれとも酒場の女の話なのかと思い描きながら、一体何の話なのだと考えながら、森昌子の綺麗な声と情感に惹きつけられて、よくわからない世界に連れてこられるのだ。アルバム一曲すべてがなにか取り留めがないのだが、とりとめのない良さというのか、分解した思考というのか、言葉そのものに連関性が乏しく、それぞれがバラバラに存在しながらもやはり繋がっているのだ。そのつながりを作るのが森昌子のきれいな歌声なのだ。そういう不思議なアルバムだ。


ブログ76.森昌子「昌子 哀愁」を楽しむ

ひさしぶりに森昌子の二十歳時のアルバム「昌子 哀愁」(一九七九年七月)を聞きました。以前に何度か聞いて、その歌のつまらなさに聴くのを止めてしまったのですが、昌子の歌の全体像がわかってきた今、何か別の側面を見たくて、聞きなおしました。今回、カーオーディオから流れる曲は、以前と同じように歌はつまらないのですが、声がとてもきれいでした。二歳以降、演歌を歌う声は、きれいとか美しいとか、そういう感動はないのですが、このアルバムの声はまだ、大衆に媚びたような声ではなくて、代のはつらつとしたのびやかな声を維持していました。そして、僕はその声に、昌子の唇を想像してしまいました。声と唇が一体として聞こえるのです。昌子の柔らかな唇が、耳元でささやいているように聞こえるのです。代は声(あるいはのど)で歌っていましたが、この歌は唇で歌っている感じなのです。少女が女になってきたのでしょうか。

 このことはアルバム「二十歳の演歌」でも、少し聞こえたりします。他の人はこのアルバムから昌子の唇が浮かんでくるでしょうか。もしかして、私が勝手に想像していることなのでしょうか。


YouTube
から

お茶の水時代 http://youtu.be/ECQ3CxiGMiw  

風の旅路 (YouTubeに無し、声がきれいで曲も印象深い) 

夢の重さ https://youtu.be/JU_JN6Gfv-8 (この曲もとてもいい)

紅差し指 http://youtu.be/ai0xkrxrDY8

夏草の二人 http://youtu.be/-1zbfDLhKLM  

若狭の海 http://youtu.be/yylEhS-00dg

駅前物語  http://youtu.be/cdpa5gqRYDo  

酒場の鯉のぼり  http://youtu.be/W4R2w2t9cYk (この曲は味わい深い)

川のほとりで  http://youtu.be/a1pd6Mrfqz0  

遠く離れて http://youtu.be/rlYsdNi7qIM 

真夏の夜の子守唄 YouTubeに無し 



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