今日の朝日新聞、オピニオンページに、ある大学教授が戦後をひとまとめにして考えることが多いが、そういう見方だけではなしに、戦前から戦後も連綿と続いてきたものがある一方、戦後に急激に変化したものがあることを述べていた。
私が幼い頃、周囲は素朴だった。いつしか、急激に都市化し、人間関係も変わっていった感じがする。それは一つには高度経済成長期に入ったからだろう。その断絶は、日本にとって、終戦と同じぐらい、大きな変化だったのかもしれない。教授はそういうことを述べている。
「戦後」と言う言葉で、私たちの多くはひとまとめにしているが、戦前から続いているもの、あるいはそれが戦後の途中から変質して行ったものなど、「戦後」と言う区切りで、収まりきらないものを見る視点も必要だと思う。
例えば、私は森昌子の音楽をよく聞く。彼女の歌う歌謡曲の中で私が最もすばらしいと思うのが、アルバム「古賀メロディーを唄う〜二十一歳の演歌〜」だ。始め聞いたときは、古い曲だな、と言う感想だったのが、いつしかとても聞きやすく、その歌詞やメロディーが心に響いてくるのだ。作曲家古賀政男は、幼い頃テレビでよく見ていたのでなじみのある人だ。その人の作曲だから、戦後の作品だと思っていた。しかし、これら古賀メロディーと呼ばれるものの多くが戦前の、昭和十年前後の作品なのだ。
戦後は美空ひばりの「柔」や「悲しい酒」、その他にもヒットした作品を作曲している。これらの曲に共通しているのは、戦前・戦後で作風がほとんど変化していないことだ。美空ひばりが戦後歌った曲も、藤山一郎が戦前歌った曲も、ほとんど同じだ。つまり戦争前に民衆が口ずさんでいた曲も、戦後の焼け野原で、人々が口ずさんでいた曲も、古賀政男風の明るくて楽しい、人々を勇気付けるような曲で、戦争の影響をほとんど受けずに継承されているのだ。それは『大正ロマン』といわれる大正時代の曲も同じような傾向を持つ。
森昌子は一九七〇〜一九八〇年代に活躍したアイドルだ。そのアイドルが歌う曲と、戦前の曲が直接にはつながっていないが、彼女が歌う古賀メロディーには、精神的な、心でのつながりがあると思う。そこにはよく似た精神性があると思う。美空ひばりらが代表的な戦後の歌謡界は戦前から引き継がれており、一九七〇年半ばぐらいからは、八代亜紀や五木ひろし、都はるみ、森昌子らの『演歌』と言う形で花開いたのではないだろうか。
当時流行した曲は、本質的には、戦前から続く歌謡曲と同じだと思う。メロディーや歌詞において、また、作曲家がいて作詞家がいて歌手がいるというスタイルにおいて。
しかし、今の若者らが歌う歌は多分、そうした流れを少し汲みながら、例えば山口百恵のようなポップな歌を加味しながら、一方でそれらに対峙する、フォークやロック、アメリカのポピュラー音楽をメインにして発展していったのかもしれない。一九八〇年代の終わり頃になると、森昌子が引退し、徐々にアイドルや演歌が衰退し始める。一九九〇年頃になると、バブルが崩壊して仕事の質も変化してきたのかもしれない。
そうして見ていくなら、日本のポピュラー音楽は戦争により断絶はしていなくて、戦後、一九九〇年前後から新しい音楽が芽生え、今の音楽界を席巻していったといえるのではないだろうか。戦前から戦後と続く歌謡曲は、演歌と言う一つの小さな部門に姿を変えて、カラオケを武器にしながら細々と生き伸びているのかもしれない。新しい音楽を引っ張っていったのは、団塊世代の二世たちだろう。そして今は、森昌子らの世代の二世たちが引き継いでいるのではないだろうか。
昭和十年前後の歌を歌う森昌子
アルバム「、古賀メロディーを唄う〜二十一歳の演歌〜」より
「サーカスの唄」(昭和八年、古賀政男作曲) https://youtu.be/KAXhUZm-BYg
「青い背広で」 なし
「青春日記」 https://youtu.be/09FwlBkkn58
「人生劇場」 https://youtu.be/i0KRm7H6gt8 https://youtu.be/g0VZKRmJ5IQ(一九八五年、動画)
森昌子アルバム「十八歳の演歌」より
「長崎物語」(昭和十四年) https://youtu.be/RZPFY1YKp3Q
戦後の古賀メロディー
近江俊郎「湯の町エレジー」(一九四八年) 大川栄策https://youtu.be/c4uPVclzMHI
美空ひばり「柔」(一九六四年) https://youtu.be/lKpfrv7cQb0
美空ひばり「悲しい酒」(一九六六年)https://youtu.be/ZHDRClbBqKc
森昌子https://youtu.be/aJlaklPNDic