20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会報告書

 

戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」(座長:西室泰三、座長代理:北岡伸一)がまとめた報告書が8月6日に公開された。
 この報告書は、全体が歴史的な記述であり、内容的には6項目からなり、このうちの1つの項目、20世紀の日本と世界の歩み、が最も歴史認識で重要だと考えたので、この章のみ掲載した。

(全文はネット上でPDFにて公開されている。

www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/pdf/report.pdf )

 

1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験から汲むべき教訓は何か。

(1)20世紀の世界と日本の歩み

ア 帝国主義から国際協調へ

20世紀を振り返るため、少し19世紀に立ち返りたい。19世紀の世界を特徴づけるのは、西洋における技術革新により、欧米が他の地域に対して圧倒的な優位に立ったことである。世界史上、多くの時代で世界最大の国であり、1830年ころにも世界最大の経済大国だった中国が、英国に、しかもアヘン戦争という極めて非道な戦争に敗北してしまったということは、この技術格差の拡大を示す世界史的な大事件だった。

この技術格差を前提に、西洋諸国を中心とする植民地化は世界を覆った。アジアにおいては、植民地化を免れようと近代化を遂げた日本が日清戦争に勝利して台湾を植民地とし(1895年)、アジアに縁の薄かったドイツも、宣教師が殺されたことを理由に、膠州湾を租借して山東省を勢力圏とし(1898年)、さらに、もともと植民地から独立し、それゆえに植民地に反対することが多かった米国も、米西戦争に勝利してフィリピンを植民地として領有することになった(1898年)。

しかし20世紀初めには、その植民地化にブレーキがかかることになった。

1905年、日露戦争で日本が勝利したことは、ロシアの膨張を阻止したのみならず、多くの非西洋の植民地の人々を勇気づけた。のちに1960年前後に独立を果たしたアジア、アフリカのリーダーの中には、父祖から日露戦争について聞き、感激した人が多かった。

植民地化にさらにブレーキをかけたのは第一次世界大戦末期にウィルソン大統領が平和のための14か条のうちの一つとして掲げた「民族自決」の理念だった。民族自決は、元来ヨーロッパに向けた概念だったが、アジアもこれに反応し、朝鮮で三・一事件、中国で五・四運動などが起きるきっかけとなった。

しかし列強の多くは植民地を手放す意思はなく、結果として、これ以上の植民地拡大はしないという大まかな合意が成立した。アジア太平洋では、中国の統一と独立を尊重するという趣旨の9カ国条約が成立した。

一方、技術革新は戦争をますます悲惨で巨大なものとした。19世紀末には、仲裁裁判によって紛争を解決しようとする動きが生じていた。そして、第一次大戦が人類史上未曾有の犠牲をもたらしたことから、国際法上戦争を否定しようとする戦争違法化の動きが一段と強まり、国際連盟規約において加盟国に「戦争に訴えない義務」を課し、1928年には、不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)において、戦争を国策の手段としては認めないと定めた。これと併行して、1922年のワシントン会議と1930年のロンドン会議においては、海軍軍縮が議論され、一定の成果をあげた。

1920年代、列強は軍事的膨張を控え、経済的な行動に力を入れた。日本でも政党政治が発展し、1924年から32年までは政党内閣が続き、1925年には男子普通選挙法が成立している。外交でも、幣原外交の名で知られる列国との協調が主流となった。

ただ、1920年代の安定は、不安定なものだった。世界では、リーダーたるべき米国は国際連盟に参加しなかった。日本では、政党の優位は制度的な裏付けを持たず、軍部は強い独立性を持っていた。国際協調主義者が一応優位を占めていたが、パリ講和会議において人種差別撤廃決議が否決されたこと、1924年に米国議会で日本人が帰化不能外国人とされ、移民枠ゼロとされたことなどは、彼らの影響力を傷つけていた。

イ 大恐慌から第二次世界大戦へ

1929年にアメリカで勃発した大恐慌は世界と日本を大きく変えた。アメリカからの資金の流入に依存していたドイツ経済は崩壊し、ナチスや共産党が台頭した。

アメリカが高関税政策をとったことは、日本の対米輸出に大打撃を与えた。英仏もブロック経済に進んでいった。日本の中の対英米協調派の影響力は低下していった。日本の中では力で膨張するしかないと考える勢力が力を増した。特に陸軍中堅層は、中国ナショナリズムの満州権益への挑戦と、ソ連の軍事強国としての復活を懸念していた。彼らが力によって満州権益を確保するべく、満州事変を起こしたとき、政党政治や国際協調主義者の中に、これを抑える力は残っていなかった。

そのころ、既にイタリアではムッソリーニの独裁が始まっており、ソ連ではスターリンの独裁も確立されていた。ドイツではナチスが議席を伸ばした。もはやリベラル・デモクラシーの時代ではないという観念が広まった。

国内では全体主義的な強力な政治体制を構築し、世界では、英米のような「持てる国」に対して植民地再分配を要求するという路線が、次第に受け入れられるようになった。

こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略(1)を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。

(1 複数の委員より、「侵略」と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった。理由は、@国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、A歴史的に考察しても、満州事変以後を「侵略」と断定する事に異論があること、B他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを「侵略」と断定することに抵抗があるからである)

 

 

 

1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。

なお、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意思決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。アジア解放のために戦った人は勿論いたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。

ウ 第二次世界大戦後

第二次世界大戦は、全世界で何千万人にも及ぶ未曾有の犠牲者を出し、国際社会に深い傷を残した。日本人の間でも約310万人の尊い命が奪われた。20世紀後半、国際社会は、もう二度と巨大な戦争による悲惨な事態を繰り返してはならないとの強い決意の下、新たなシステムの構築を進めた。

国際社会にとり最優先であったのは、戦争の予防と平和の確立であった。第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟の失敗を教訓として、1945年、国際連合が設立された。国際連合は、その憲章第1章第2条で、国際関係における武力行使を原則として禁止し、この規範は、大戦後の世界平和における基軸となった。この点、日本は、戦後、不戦に関する国連憲章の規範をもっとも忠実に守った国であったと言える。憲法9条第1項を有する戦後日本の歴史において、軍事的自己利益追求行動は皆無であった。戦後の日本においては、世界中のいかなる場であれ、力による領土等の変更に常に反対する気持ちが国民の間で広く深く共有されており、政府の政策にも貫かれている。

戦後国際秩序にとってこれと並んで重要だったのが、自由貿易システムの発展だった。第二次世界大戦の要因となった、大恐慌からブロック経済、そして国際貿易体制崩壊という流れを防ぐべく、戦後間もなくブレトン・ウッズ体制が構築され、GATT体制の下、国際自由貿易体制が確立された。この自由貿易体制の下、戦後世界経済は大きく発展し、日本もこの体制の主要なメンバーとして、経済成長を達成した。第二次世界大戦前のような武力による生存圏拡大の考え方を信じる人はほぼ皆無となり、自由貿易により繁栄を追求する人が圧倒的多数となった。そして日本は、この中で、アジア諸国を中心に、平和と経済発展による国家の繁栄モデルを提供してきた。

更に忘れてはならないのは、第一次世界大戦後に生まれた民族自決の動きが、第二次大戦後、多くのアジア・アフリカ諸国において独立、脱植民地化という形で結実したことである。日本も参加した1955年のアジア・アフリカ会議では、植民地主義が糾弾され、基本的人権の尊重を求めるコミュニケが採択された。この流れの中、1950年代から60年代にかけて、アジア・アフリカの多くの国が独立を達成し、第二次世界大戦前に、大国が力によって他国を支配していた時代は終わり、全ての国が平等の権利を持つ世界となった。

エ 20世紀における国際法の発展

以上振り返ってきた激動の20世紀史を象徴するように、国際法の性格も、20世紀前半と後半で大きく変化した。20世紀前半の国際法は、国家間の紛争の概念を明確に限定したうえで、紛争要因を縮減することを目的とした消極的な性格のものであった。そして、その中心的課題は、戦争をどう制御するかということに絞られ、経済社会問題は基本的には各国の国内管轄事項として、国際法の規律の対象外とされていた。戦争の制御については、1919年の国際連盟規約、1928年の不戦条約を通じて、国際法は、戦争放棄の大きな流れを作ることには成功した。しかし、連盟規約は戦争に訴えるための手続きを厳格化したが、戦争に訴えること自体を禁止したものではなく、また不戦条約も禁止の例外となる自衛権の範囲や「戦争に至らない武力の行使」をめぐり、解釈の余地を残した。なお、国際法上の「侵略」の定義については、国連総会の侵略の定義に関する決議(1974年)等もあるが、国際社会が完全な一致点に到達したとは言えないとする指摘もある。

20世紀後半の国際法は、各国の共通利益の実現を促進する積極的な役割を担うものに変貌を遂げた。第二次世界大戦の教訓を基に、国際連合の設立を通し、武力行使を国際社会全体で防ぐ体制が整えられた。また、国際貿易体制の崩壊が第二次世界大戦勃発の要因の一つになったことを踏まえ、国際法によって経済面、社会面における各国の協力を推進し、規範を形成する動きが急速に進んだ。人権や環境についての規範の発展もあった。先の大戦に至る過程において、国際連盟を脱退し、不戦条約の抜け穴を利用しようとして武力行使に踏み切った日本が、大戦後においては、憲法9条1項と共に不戦に関する国連憲章規範をもっとも忠実に守り、また国連を中心とする多様な活動に積極的に貢献する国に生まれ変わったことは前述したとおりである。

(2)20世紀から汲むべき教訓

20世紀から我々が汲むべき教訓とは何だろうか。第一に、国際紛争は力によらず、平和的方法によって解決するという原則の確立である。力による現状変更が許されてはならない。第二に、民主化の推進である。全体主義の国々において、軍部や特定の勢力が国民の人権を蹂躙して暴走した結果戦争に突入した経緯を忘れてはならない。第三に、自由貿易体制である。大恐慌からブロック経済が構築され、国際貿易体制が崩壊したことが第二次世界大戦の要因となったことを踏まえ、20世紀後半の世界経済は、自由貿易体制の下で発展してきた。第四に、民族自決である。大国が力によって他国を支配していた20世紀前半の植民地支配の歴史は終わり、全ての国が平等の権利と誇りをもって国際秩序に参加する世界に生まれ変わった。第五に、これらの誕生間もない国々に対して支援を行い、経済発展を進めることである。貧困は紛争の原因となりやすいからである。このような平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、いずれも20世紀前半の悲劇に学んだものであった。

この世界の歩みは、第二次世界大戦によって焦土と化した日本が、20世紀後半に国際社会の主要メンバーとして発展してきた歩みに重なる。日本は、20世紀の前半はまだ貧しい農業中心の国であり、産業と貿易によって富を築くという考えよりも、領土的膨張によって発展すべきだとする考えが、1930年代には支配的となってしまった。戦前の日本においては、政治システムにも問題があった。明治以来、アジアで初の民主主義国家として発展してきた日本であったが、明治憲法は多元的で統合困難な制度であって、総理大臣の指揮権は軍に及ばず、関東軍が暴発した時、政府はこれをコントロールする手段を持っていなかった。独善的な軍は、戦局が厳しくなるにつれ、国民に対する言論統制を強め、民主主義は機能不全に陥った。そして軍事力によって生存圏を確保しようとする日本に対し、国際的な制裁のシステムは弱く、国際社会は日本を止められなかった。

しかし、20世紀後半、日本は、先の大戦への痛切な反省に基づき、20世紀前半、特に1930年代から40年代前半の姿とは全く異なる国に生まれ変わった。平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、戦後の日本を特徴づけるものであり、それは戦後世界が戦前の悲劇から学んだものをもっともよく体現していると言ってよいのではないだろうか。