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2013/6/30 | 森昌子はその才能を十分開花させたのだろうか |
2013/6/23 | 21〜22歳、演歌歌手・森昌子の誕生? | |
2013/6/7 | 森昌子の歌に共通する”やさしさ” | |
2013/6/4 | 人間として自立していく森昌子 | |
2013/5/28 | 私が森昌子について書いてきたことのまとめ | |
2013/5/26 | ||
2013/5/25 | ||
2013/5/24 | 森昌子の歌手の顔と素顔のギャップ | |
2013/5/19 | ||
2013/5/19 |
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タイトル本文 出張の帰途、森昌子の歌を聴いていて思うのは、これだけ10代ですばらしい歌や歌声をメディアに披露しているのに、ほとんどの人の心に、先生の時のイメージか、越冬つばめの時のきれいな歌声の持ち主としてしか、心に残っていないのはどうしたことだろう。今、私は先生や越冬つばめなどほとんど聞かないし、それがすばらしいとも思わない。他に心に響く曲がたくさんあるからだ。でも、多くの人は、それらの曲を聴かないし、関心もない。
第一、森昌子がすばらしい歌声の持ち主であったことなど知るよしも無い。聞けば、感動がえられるなど、夢想だにしないだろう。 私も、演歌を聴こうとするが、何か心に訴えかけてこない。曲はいいのだが、歌詞が心に届かない。10代もそうなのだが、森昌子の歌う歌詞は押しなべて、つまらない歌詞が多い。港、船、別れ、恋しい、岬、海、涙、・・・こうした歌詞が災いしているのだろうか、名曲として、あるいはいつまでも歌い継がれる歌としては、ほとんどの曲が残っていない。越冬つばめや先生ぐらい? 本当なら、これだけの才能がある人なら、20代でその才能が開花してもいいはずだ。美空ひばりのように、もっと人びとに愛され、歌い継がれる、心に残る曲をヒットさせてもいいはずだ。なのに、心に残る名曲が無い。越冬つばめ?それも人に歌い継がれると言うほどではない。 確かに20代の歌い方は、十代の時に比べ、魅力に乏しくなっているようにも思う。でも、心に響く歌は歌っている。でも、何かが足りない。それは、演歌歌手としての人間の情念のようなものだろうか。あるいは、表現力だろうか。何がたりないのだろう。 僕が思うのは、やはり、高校卒業時、大学で声楽あるいは体育教師になるための、勉強をして欲しかったなと思う。そして人間として一本立ちして、それから歌手として活動すれば、今ある昌子とはぜんぜん違った昌子像を見せてくれそうな気がする。やはり、人間が純真で、幼かったのでしょうか。ただ、越冬つばめ以降、A面では、かなり心に訴えかける曲を歌い始めていました。でも、結婚を控えての引退が迫っていたため、尻切れトンボになってしまった感があります。引退しなければ、それこそ、昌子の底力を発揮し大ヒットを飛ばしていたかもしれません。これほどの素質がありながら、今ある森昌子では、少し物足りません。才能を十分開花させれなかったことがとても残念に思うのです。 ページの先頭へ |
タイトル本文 森昌子が演歌歌手として、認められるようになったのは、やはりポニーキャニオンに移ってからではないのでしょうか。本当のことはよく分かりませんが、それ以前はいくら演歌を歌っていてもアイドル歌手。それが、会社を移ってから、森昌子自身の強い決意で、演歌の世界にのめり込んでいった様な感じがします。それは、時代背景もそうなのでしょう。詳しくは知りませんが、八代亜紀がいて、山口百恵がいて、石川さゆりがいて、色々なニューミュージックなどが盛ん。
会社を移って、最初に出したLPレコードが「旅立ち」。”ためいき橋”と”ふるさと心”のA面曲と”さよならの海”や旅立つ彼(ひと)”などを含んでいます。題名通り、心機一転、ここで歌の転換を図ろうとしています。でも、まだ、青春歌謡と演歌との半々と言う感じですね。 そして、次に出したのがLPレコード「そしてひとり」。これには”信濃路梓川”と”波止場通りなみだ町”というA面を含んでいます。その4ヵ月後にはLPレコード「北寒港」を出しています。このLPにはA面”北寒港”を含んでいます。この2つののLPレコードに共通しているのは、その表紙写真の陰鬱さ。今までの昌子には考えられないような、物思いにふけったような、悲しみをたたえたような、絶望したような顔。穏やかな顔とは違います。ここに、森昌子の並々ならぬ思いが伝わってくるようです。 これらに含まれる曲も、聞けばきくほど大人の味が出るような曲が多くあります。年齢にして、昌子の21〜22歳。この時期に、演歌歌手、森昌子が誕生したと言えるのかも知れません。それは昌子の精神面において特にそう感じますね。歌もA・B面、LP含めて、いい歌が多いです。 A面(B面) ためいき橋(1979,10) (冬の部屋) http://youtu.be/puTDP_1O09U 故郷(ふるさと)ごころ(1980,2) (春日和) http://youtu.be/yJvHJB-OsLk (http://youtu.be/rX_t669jKOI) LPレコード「旅立ち」(1980,3,21才) さよならの海 http://youtu.be/PAOlyUba7Ck 旅立つ彼(ひと) http://youtu.be/sF33gdZ85YA 微笑(わら)い泣き http://youtu.be/vkL5IUKI2u8 A面(B面) 信濃路 梓川(1980,6) (夕焼けの空) http://youtu.be/byfhFE5qCbE (http://youtu.be/Jfeyy3xL4iQ) 波止場通りなみだ町(1980,9) (雨の港町) http://youtu.be/OJ20CXpPE0k (http://youtu.be/hHXpfw-m1T0) LPレコード「そして一人」(1980,11,22才) 雨の糸 http://youtu.be/apJ1ZKB5K6g 別れの季節 http://youtu.be/XR9yGxY1jUg 明日葉の歌 http://youtu.be/2-ChxOEwlBY 愛の白夜 http://youtu.be/iUMw-vfWrZY A面(B面) 北寒港(1981,1) (翼) http://youtu.be/a4LiCDjfIkE (http://youtu.be/OWTA_wG2FPE) LPレコード「北寒港」(1981,4,22才) ひとり相手 http://youtu.be/_YyWeKk2AbQ 雨の再会橋 http://youtu.be/EPXMA-nOqlQ 赤い糸 http://youtu.be/8usc2Ohz3fw ないないづくし http://youtu.be/ng-vypk1hDc ページの先頭へ |
タイトル本文 歌は色々な心模様を描く。歌手はその状況に合わせて、気持ちをこめて歌う。森昌子もそうだろう。でも、歌手の歌には全ての歌に共通する思いがあるのではないだろうか。
森昌子の歌は全体におとなしく、静かだと思う。静寂の中で響く、琴やピアノ、山で聞く小鳥のさえずりや、風のざわめきや沢の水音のような。その声は人に向かって放たれる。それを聞くと、人は優しい声だなと思ったり、あるいはもっと違った感情が思い起こされるかも知れない。でも、僕は全体的には森昌子の歌の根底には”人へのやさしさ”があるように感じる。それが彼女の、10代・20代を含めての共通のものではないだろうか。 彼女の根底にある”人へのやさしさ”とは、いつも聞こえるとは限らない。それは聞く時の心の状態により、微妙に変化する。感じる時もあれば感じない時もある。いつもは感じないのに、今日だけ感じる時もある。でも、僕は押しなべてそのような気持ちがたびたび聞こえる。その声を聞いたとき、僕は感動し、優しい人だなと思う。 youtubeから(”熱唱ひとり舞台”を中心にして) 竹田の子守唄 http://youtu.be/MzLi_4c44R4 お嫁に行きます http://youtu.be/GbNEu425yRo いつまでも愛していたい http://youtu.be/FCSflvikZmA (6/8に本文及び曲を一部修正しました) ページの先頭へ |
タイトル本文 森昌子と言う歌手は、ステージ上ではとても真剣だ。常に全力でぶっつかってくる気迫を感じる。だから、レコード・CDで聞く声より格段にいい声を聞かせてくれることが多い。そして、毎年、そのステージ上で見せる趣向に工夫を凝らす。20歳のステージは”ひとり舞台”(7周年記念リサイタル)だ。つまり、これまで、司会者がいて、司会者の進行に従っていたのを、自分が進行役を勤め、そして歌う。約2時間だ。LPレコード2枚分。
これは昌子自身がステージで述べているが、これまで人に頼って生きてきたが、人に頼らず自立して物事をやろうとして、こういう一人舞台を自分の意思として選んだのだ。20歳になったばかりの女性がだ。 昌子の歌にも現れている。これはこのブログでも取り上げたが、19歳の時のLPレコード”すぐに消えそうな愛なら”(1978,4)だ。これには母親からの自立が主に歌われていた。そして、いつか、いい人を見つけて、お母さんを悲しませた償いをしたいと、決意を述べている。 人間は、誰でもそうなのだろうけど、19から20歳にかけて、一番自立心が芽生えるようだ。昌子がアメリカへ旅だったのも19歳の誕生日前。 そして、レコード会社を変わるのも、21歳の誕生日前。(”ため息橋”の発売が79年10月21歳)これも、たまたまではなくて、昌子の並々ならぬ一大決心、あるいは大いなる意思が感じらられる。10周年記念リサイタルにてこう述べています。「歌手にとってレコード会社を代わることは、サラリーマンが職場を転勤になるのと同じくらい大きなことです」 先生でデビューし、その後十代の名声を形成したのも、ミノルフォンがあってこそ。それを捨てて、新たにキャニオンレコードと契約するのですから、相当な理由が必要でしょう。そういう、理由が彼女の心に、芽生えていたと言うことでしょう。 僕が想像するには、自ら率先して、新しい会社を選んだのではないかと思うのです。ぬるま湯ではない、厳しい状況へ、自分を追い込みたかったような感じがするのです。 それだけ、彼女は人間として成長していたのでしょう。その成長した姿が、21,22才頃から見せる、その女性らしい美しい姿ではないでしょうか。それは、容姿だけでなくて、森昌子が歌いながらも、自分と言うものを常に考え、あるいは自立することを考え続けた結果として、心の中から生じている、本当の美しさかもしれません。 結局、森昌子の声は、疲労の蓄積により、19歳以降衰えが目立ち始めましたが、逆に精神的にはすごく大人になっていった時期かもしれません。その精神的な成長が、”悲しみ本線日本海”のヒットにつながったともいえると思います。また、この歌については、賞を取りたいと、10周年記念リサイタルでも言っていました。逆に、このことはこれまでの森昌子にはない、純真さの喪失とも、精神的な変遷とも言えるわけです。 ページの先頭へ |
タイトル本文 森昌子のことをブログ上で書き続けてきて、色々なことが見えてきたが、孤軍奮闘しながら、猛烈社員のように働き、歌い、また、周囲の期待や失望を一身に背負いながら、けなげに努力を惜しまない、女性の姿だ。それは、何も特別な存在ではない。今で言う、普通のキャリアウーマンだ。与えられた仕事を、的確ここなし、クライアントに非常に喜ばれる、とても優秀な社員の姿だ。
彼女の、その仕事のできばえは、群を抜いており、芸術的だ。だが、それも、19歳から仕事にかげりが出てきた。 その原因は、のどの疲労だ。歌手にとって、最大の試練だ。森昌子は、それを乗り切ったかに見えたが、現実として、以前ほどのすばらしい歌声は、消えうせてしまった。僕に言わせると、普通のきれいな声に変わった。もう感動を呼び起こす声ではない。かといって、22,23才ごろからは元通りではないにしろ、きれいな声は少し戻ってきたようだ。 声の疲労の原因は何か。それはあまりに無茶な、プロダクションかレコード会社による、超過密スケジュールだ。高校を卒業してから、連日、毎日10〜20曲、同じ歌をうたわされ、1日の休みも無く、しかも舞台では座長公演とやらで、1日2回公演で1ヶ月間ほど責任を負わされた。そうした、責任感から来るストレスやのどの酷使により、昌子ののどはつぶれてしまったのだ。 本当にこのことは残念でならない。 なぜ、日本人て、常識が通じなのか。お金のなる木には、少しでも働いてもらって、お金を稼ぎたいのか。休息をとらせる心遣い、のどを守ってやる心使いはないのかといいたい。森昌子のすばらしい歌声をつぶした責任は、非常に大きい。 でも、彼女のいいところはとても努力家のところだろう。のどを自分で守りながら、19、20、21才と山口百恵が大ブレイクしていく中で、常に笑顔を絶やさず、明るく丁寧に心をこめて歌い続けたと思う。ただ、問題は、森昌子自身が歌手と言う仕事が好きで無かったことだ。彼女は、常に歌手を辞めることを考え続け、願い続けた人なのだ。それは、やはり、中学生の時に歌手なり、半面で普通の学生生活を送りたかったことへの、昌子が持つ本質的な願望だろう。 結局、その辞めたいという思いが、森昌子が大歌手に育っていかなかった一因でもあると思う。つまり、自分がどういう歌手になっていきたいのか、何を歌いたいのか、と言う将来への展望が、開けずじまいだったのだ。 しかし、はっきりした展望は開けずとも、努力家であるので、何とかして百恵やさゆりの様に大ヒットを飛ばしたいと言う欲求が高まり、レコード会社を移籍し、また、これまでの笑顔路線をやめて、陰鬱な表情の路線に転回していったのだ。その中で、恩師である阿久悠や遠藤実ではない、浜圭介と言う作曲家とコンビとなって、演歌路線をさらに進めて、悲しみ本線日本海へのヒットとに繋がったように思う。 以上が、これまでのブロブに書いてきたことですが、特筆べきことは、森昌子が21歳ごろから、非常に美人になってきたこと。これは顔もそうですが、しゃべり方とか雰囲気がとても日本人的で、かわいいと言うのではない、美人という範疇に入ってきたこと。本当は3枚目なのに、これでは3枚目の役なんかできそうにない、本当の美人になってしまった。 ずいぶん長くおしゃべりしましたが、今後も森昌子のことを書くつもりです。なぜかって、十代の曲に感動したからです。それが無ければ、書きませんよ。 |
タイトル本文 私は昨日、作曲家・遠藤実と”波止場通りなみだ町”で袂を分かち、それ以降疎遠になったということを書きました。また、LPレコード”そしてひとり”のジャケットの写真の陰鬱な表情からも、並々ならぬ決意のようなものを感じたのでした。
キャニオンレコードに移籍して、LPレコード”旅立ち”も”そしてひとり”も、LPレコードとしてはいい曲を集めていると思います。だから、会社移籍は成功だったと評価できるでしょう。 移籍を機に、長年の付き合いの作詞家・阿久悠と別れ、今回作曲家・遠藤実と分かれたのでした。これは十代との決別、恩師との決別と言う、森昌子にとっての最大のかけであり、転機であったのかもしれません。 ”そしてひとり”というLPレコードのタイトルは、森昌子自身を表す言葉なのかもしれません。しかし、考えようによっては、23歳になって、そして一人、というのはさびしいですね。レコード会社、プロダクションとの相談の上なんでしょうが、何か孤独感を感じますね。 この後、”北寒港”(1981,1,22才)、”悲しみ本線日本海”(1981,7,22才)という曲を発売し、ヒットとなるようです。”悲しみ本線日本海”のヒットは、森昌子にとって、本当にうれしいプレゼントになったようですね。そういうことをどこかで聞いたことがあります。 youtubeの動画から、この当時の昌子の雰囲気を感じたいですね。 北寒港(浜圭介作曲) http://youtu.be/KjzPdUIwyTo(この動画がもっとも22歳の森昌子を映し出しているようです。これを見る限り、欽どこに出ていた3枚目の森昌子とは雰囲気が違ってますね。とても女らしくて,美人になっています。) 10周年記念リサイタルのステージ(声だけ) http://youtu.be/IfnKPx6Qokg その他 http://youtu.be/10m7uwvBYLU 悲しみ本線日本海(浜圭介作曲)http://youtu.be/Ai7kzN-JO8w(プロモーションビデオ?) http://youtu.be/4u1RxBNRezM(森昌子の一連の動画。22〜23才の表情・雰囲気ををよく伝えている。ただ、見飽きた感があり、新鮮さがない) http://youtu.be/0SBNUUL5OCU(作者の熱い思いがこめられた動画) http://youtu.be/MuYyTu7fAJM(再デビュー後の歌?、でも、若々しい) http://youtu.be/zxr8LyAOQHg(音声、口元など不備があるが、大人っぽい昌子の動画) ページの先頭へ |
タイトル本文 森昌子にとって、作曲家遠藤実は本当の恩師だろう。具体的には、どういうことを教えてもらったのか知らないが、デビュー曲の”せんせい”から22歳のLPレコード”そしてひとり”まで、A面及びLP所収の曲の合計が22曲に及んでいる。一人の作曲家がこれほどの曲を1人の歌手にオリジナル曲として提供するのは、多分珍しいことではないだろうか。しかも、国民栄誉賞を受賞した作曲家である。
森昌子と遠藤実のA面の曲をリストアップして見た。 1972/6/25(13) せんせい 1972/10/25(14) 同級生 1973/2/5(14) 中学三年生 1973/5/5/(14)夕顔の雨 1973/8/25(14) 白樺日記 1974/4/20(15) 下町の青い空 1974/9/1(15) おかあさん 1975/12/1(17) あのひとに船行っちゃった 1976/9/1(17) 少年時代 1980/6/21(21) 信濃路梓川 1980/9/21(21) 波止場通りなみだ町 1986/8/21(27) 〜さようなら〜 こう見てみると、10代から20代初めの森昌子は、遠藤実におんぶに抱っこの状態だ。デビュー当時のせんせいから中学三年生、そしてとともきれいな淡い恋を歌った”夕顔の雨”、そして”下町の青い空”から、”おかあさん”。ここら辺りまでとても明るくて素直な良い子の曲が並んでいる。この後、1年後に、”あのひとの船行っちゃた”、でオリジナル曲を作曲しているが、この歌は森昌子の声に合わせて作ったような、秀逸な曲だ。そのあいだ、森昌子は”16歳の演歌”や”17歳の演歌”と言うカバー曲のLPレコード出しているが、これらの曲に遠藤実の曲が多く入っている。その中でも、特にすばらしいのが、他人船だ。このときの歌い方や声は何度でも聞きたくなる。その他、哀愁海峡やお月さんこんばんは、アンコなぜ泣く、など秀逸な作品を歌い、森昌子をすばらしい歌手に育てた。 17歳の後、しばらく歌を供給していないが、多分遠藤実が忙しすぎたのだろう。そして、21歳の時、レコード会社を変わって3曲目に信濃路梓川を作っている。この歌も、森昌子らしい、さわやかで気持ちのいい曲だ。だが次の波止場通りなみだ町はもう少しだった。そして、これを最後に、二人は引退の際の、〜さようなら〜の曲まで、疎遠になっている。 森昌子も22歳になっている。なみだの桟橋以降、彼岸花を除けば、それほどヒットしていなかっただろう。彼岸花も大していい歌ではない。信濃路梓川も、いい歌ながら大ヒットまでは行かなかった。遠藤実も、このあたりで、森昌子に見切りをつけたのかもしれない。それは、森昌子の声が、10代のときのような声ではないからだ。ときめきを覚える声ではないからだ。彼女の声はきれいだ。でも、十代の声とは違う。 遠藤実が、この時期、誰にどのような曲を提供していたのか知りませんが、離れていったのは確かだと思います。でも、それは一方で、森昌子の意志が働いていたのかもしれません。十代の時のような、淡い恋心ではなく、もっと切ない大人の恋心あるいは情念を歌いたいと思うようになったのかもしません。 このあたりが、演歌歌手・森昌子の始まりかもしれません。それが何をきっかけにそう思い始めたのか、それは不明です。裏で、何か事件であったのでしょうか。いや、それは無いでしょう。純真無垢な森昌子は引退まで続いていたと信じたいですね。 LPレコード”そしてひとり”のジャケットに映し出された、森昌子の憂鬱さ。それは何をあらわしているのでしょう。単なるポーズなのでしょうか。あるいは本当に、一人孤独に身を削りながら、前へ進んでいこうとする、決意の表れなのでしょうか。そしてあと1,2年で、大ヒット曲”越冬ツバメ”が生まれてくるのですから、これはポーズでは無く、一つの決心の表れと捉えることが出来るかもしれません。 youtubeから遠藤実の代表曲 ”あのひとの船いっちゃった” http://youtu.be/uq-fDQz3ZZc ”〜さようなら〜” http://youtu.be/Mj_CRNQF6zA ページの先頭へ |
タイトル本文 森昌子と言う歌手は、歌っている時と、バラエティ番組に出ている時のギャップが大きいですね。
昨日、欽ちゃんの欽どこを見ていたら、笑い転げた。森昌子はよく自分ことを美人であるとか、よくもてたとかいって、人を笑わす。今回も百恵と自分の写真を見比べてどちらが美人かと聞いて、人を笑わせる。相当きれいになりたいというか、もてたい欲求が強かったのでしょう。それだけ、自分は美人でなく、もてないことを自覚していたのでしょう。この欽どこの出演は他の人のブログを見ると20才の時らしいです。 欽どこの動画 http://youtu.be/J2VrtshD1z0 20歳と言う年齢は、歌手生活ではあまり恵まれていませんね。彼岸花から銀のライターあたり。丁度21歳の時に、レコード会社を変わることになります。でも、夕子の四季などの動画を見ると、とてもかわいらしく、若さがみなぎっている感じ。歌は演歌への方向を強めているようですが、実際は女の情念とかは正反対の、とても明るくさわやかないい子。それが、一年ぐらい過ぎたら、LPレコード”そしてひとり”のジャケットのようなくらい雰囲気の女の子になっている。どちらが地に近いのか。言うまでも無く、森昌子はとても明るい性格だと思うのです。 そのギャップはどこから、どうして生まれたのか。十代の演歌は坦々と歌っている。それでもとても心を打つ。でも、二十代の演歌はどうなんでしょう。一つの枠に押し込めすぎですね。十代の時のように、もっと自由であってほしかった、と思う。 ページの先頭へ |
タイトル本文 僕は森昌子の声が、19歳の途中からそれまでのような繊細できれいな声が出なくなったと思う。それまでの声は、すばらしかったが、それ以後、その声は戻らなかったのではないだろうか。それでも森昌子は色々努力して、そのハンディを乗り越えたのだろう、と思う。
LPレコード”涙の熱唱”まではきれいな声が出ている。しかし、7周年記念リサイタルのLPレコード”ひとり舞台”では、僕は彼女の声が平凡な声に変わっているなと感じる。その原因は、やはり声の疲れだろう。ほとんど毎日、休み無く歌い続けて、17,18の顔を見ても、表情は笑っていても、目の下あたりは黒く隈(くま)が出来ている。多分、声が限界を超えていたのだろう。 「明日へ」と言う自伝では、19歳の誕生日を迎えた後、1ヶ月間の新宿コマ劇場では1日2回、7時間に及ぶ公演ではのどを守るため、人と話すことを控え「面会謝絶」にし、公演後、温シップと冷シップを欠かさず当てたと言うこと、そのあと、あるコンサートのステージ上で声が出なくなって医者に行ったこと、そして医者からストレス性の発声障害であると言われたこと、その後声が出ない恐怖感から、のどを守ることが最優先事項になったと言っています。 また『高校卒業後は、朝から夜中までずっと、仕事漬けの状態。リハーサルを含めて、そのときの持ち歌を1日に10回も20回も歌わなければなりません。毎日こんな生活を送っていれば、ストレスも溜まるもと言うものです』と自伝に書いています。 森昌子の十代から二十代にかけての、超過密なスケジュール。その結果として、十代のきれいな声が、いつしかなくなってしまったのです。 僕が思うのは、19歳の誕生日前に歌手を続けるかどうかで迷ってアメリカへ渡った際、もう少し長くそこでゆっくりしてもよかったのではと思うのです。将来を考えれば、森昌子をゆっくり休息させてあげれば、もっと違った森昌子になったと思います。 しかし、彼女の18から19歳は一番売れていて、一番忙しかった時でしょう。周囲がほうっておくはずが無い。帰国後、彼女は超過密スケジュールの中でいつしかのどを壊し、のどを守ることに必死になっていたのです。そして結局、僕にいわせれば、その声は十代のようには完全には戻ってこなかったのです。 ページの先頭へ |
タイトル本文LPレコード「そしてひとり」を聞いていると、十代の森昌子の演歌が聞きたくなりました。それで、彼女の十代の代表的な演歌のLPである”17歳の演歌”を聞いてみました。
そして、比べてみて感じるのは21歳の演歌には、大人の演歌が感じられ、17歳の演歌は、声・表現力ともすばらしく感じられました。でも、一部でやや子どもっぽい、単調になるところも感じられます。ですから、それぞれ良いところ、悪いところがあるようです。そうなると、やはり、時と場所、その時の気分次第で、聴く曲を聞き分けたらいいのでしょう。 17歳の演歌 1、連絡船の歌(残念ながら、十代の歌声がyoutubeにありません。50代?の歌声です 動画http://youtu.be/8rnxaJb9Fe4) 2、親子船唄 (レコードhttp://youtu.be/fkHk7EmFwYE) 3、別れの1本杉 (レコードhttp://youtu.be/ryeUKsd81Qc 動画http://youtu.be/lrHHmtUxzUo) 4、あざみの歌(CD? http://youtu.be/T-51tQXaKNk ) 5、月よりの使者(レコード http://youtu.be/5uxBONKjaBs CD? http://youtu.be/LgELibCGYtc) 6、哀愁海峡(レコードhttp://youtu.be/Ut3VjNKwP2E いつのステージかわかりませんが、うまいですhttp://youtu.be/S02DJNzd2Do) 7、ああ上の駅(レコードhttp://youtu.be/vb5p1sX3ozw) 8、お月さんこんばんは(レコードhttp://youtu.be/HuUTn9Bfh0w 動画http://youtu.be/Hh351kp9Z_k) 9、アンコなぜ泣く(レコードhttp://youtu.be/8Hz7fnxBtm4) 10、田舎のバスで(レコードhttp://youtu.be/jlWkoE0hWnk) 11、だから云ったじゃないの(レコードhttp://youtu.be/AcyaIf8I1KM) 12、高原の駅よさようなら(レコードhttp://youtu.be/ux5TJpiuKLI) おまけ 他人船(レコードhttp://youtu.be/Sxyl6r43-ME 動画http://youtu.be/5lg6ruieEN0) ページの先頭へ |
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