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2014/1/19 | |
2014/1/13 | ||
2014/1/12 | 声を論理的に持続させることの重要性(森昌子を例にして | |
2014/1/8 | 森昌子の霧に包まれた演歌 | |
2013/12/31 | 森昌子の女の輝きの時代 | |
2013/12/30 | ||
2013/12/29 | ||
2013/12/28 | ||
2013/12/25 | ||
2013/12/22 | 森昌子が歌う父親 |
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タイトル本文 森昌子の歌はなぜ30年の月日の経過に関わらず生き続けるのだろう。今の私に、森昌子の歌が、何を与え続けてくれているのだろう。逆に、今の私に何がたりなくて、森昌子に歌に頼っているのだろう。
与えてくれたのは、”感動”だった。確かに、これまでの私には感動はなかったと思う。テレビドラマで感動するものもあったが、最近の私にはなかった。この感動する思いが、私に新たに付け加わった感じがする。その原因は、やはり本を読まなくなったり、人と話したり、人と深く付き合ったりしなかったことにあるようにも思う。金を稼ぐだけの毎日。人との関わりも、仕事を通じての表面的なもの。こうした毎日を過ごす中で、いつしか濃密な人間関係がなくなり、精神そのものが浮き草のように軽くなっていたのかもしれない。 こうしてよみがえった感動する心を、再び実社会で、実体あるものするにはどうしたらいいのだろう。再び、同じ様な歌手を探し続けるのか。あるいは、そのような女性を自分の身近に求め、探し続けるのだろうか。感動する心とは何だろう。それは若いときには、そういう言葉を発しなくても、毎日が新鮮であり、期待や不安があり、心ときめいたのだろう。 だが、年を重ねるに従い、そうした毎日の新鮮さが影を潜め、給料の金額ばかりが頭を占める時、心のときめきがなくなったのかもしれない。そうだとするなら、森昌子の歌は、生きるときめきを歌っているともいえる。本人は何も感じなくても、30年の時を隔てて、こちらにその若さのときめきを伝えてくれているのかもしれない。そうした時、喪失した生きるときめきを、別の言葉で、”感動”と言う言葉でよみがえらせたのではないだろうか。 ”感動”とは、生きるときめきなのだろうか。良くわからない。毎日毎日、仕事で、生活で押しつぶされそうだ。仕事にそうときめきはない。よみがえった感動する心を、実社会で実のあるものにしていきたい。心ではそう思うが、身体がついていかない。身体が老いてきているのだろう。でも、それにあらがって生きていこう。 ページの先頭へ |
タイトル本文 僕の一つの課題は、森昌子の”越冬つばめ”がなぜ、はやったのか、という理由を自分なりに解き明かすことだった。今日、岐阜の出張先の宿屋で考えたことは、平凡だが、歌が上手で、気持ちがこもっていて、声が綺麗だということだ。
”燃えて燃えつき冬のツバメよ、なきがらになるならそれもいい、ヒュルリ、ヒュルリララ・・・”このあたりは、森昌子自身の気持ちそのままなのだろう。女として燃えているのだろう。そして気持ちの入れようは、”立待岬”辺りからすごく説得力のある歌い方になっている。力強くもある。声のきれいさは、森昌子独特の息つき(息使い)にあるのだろう。フレイズとフレイズの間がなんとなめらかで、綺麗なのだろう。その綺麗さこそが、この歌をさらに美しくしている。女を考え続け、女になろうとして、女を歌い、現時点で森昌子が考えうる最高の女を表現したのが、”越冬ツバメ”だと考えられる。まさしく、森昌子がずーと望んでいた歌なのだろう。 このCDは、聞いてもそれほど綺麗さはない。だが、動画に見る歌の奇麗さはどうだろう。声が頭の中にすーと入る。森昌子の美しさは、見るものを釘ずけだ。声の美しさ、滑らかさ、表情の優しさ、真剣さ、無垢な女が持つ情愛へのときめき。”越冬つばめ”の歌の美しさは、森昌子のきれいさと同等なのだろう。”越冬つばめ”と森昌子は一心同体に近いのかもしれない。森昌子の女への凄まじい執念が歌のヒットへつながったのかもしれない。 youtubeから 越冬つばめ http://youtu.be/BHQdgqeJJiw ページの先頭へ |
タイトル本文 声と言うのは寝不足とか、その日の体調により微妙に変化するらしい。そのため、歌手は声や体調管理にとても気を使うらしい。
森昌子の動画を見ていて、20代も後半になると、何か声に張りがなくなってきているのでは、と思う歌い方が見られる。女性としてとてもきれいになってきているのだが、何か歌を聴いていても、魅力に乏しくて、感動に乏しい歌い方だ。10代でもそうした歌い方はあるにはあるが、全体的には声に張りがあって、聞くものに感動を与える。 現在、年配の歌手でも声に張りのある歌手もいれば、何かしなびた感じの声の人もいる。これはどうしたためだろう。僕が思うには、声の使い方に問題があるのではと思うのだ。森昌子の場合、10代でかなり無理をした声の使い方をしたのではないだろうか。自然な歌い方から少しずれた、やや微妙な声の振るわせ方とか発声法。だが、人間の声の機能からすると、それは負担のかかるものなのかもしれない。 音楽の声の出し方には、ソプラノやアルトとか良く知らないが、そういう声の出し方があると思う。そうした声の出し方を続けるには、それなりの科学的な論理性と練習が必要だと思う。森昌子と言う生来のとてもきれいな声の持ち主であっても、そのままでは声は続かないのだろう。続けるには、音楽の論理に基づいた知識と練習が欠かせないと思う。歌を歌うほど声に磨きがかかると言うのは、論理的に無理があるのだろう。逆に声をつぶし、生来のきれいな声をつぶす。 歌謡界と言う業界にあって、人気や金儲けが主目的な世界では、きれいな声を保つと言うことは、個人の努力にまかされているのかもしれない。だからこそ、やはり学校に行って、音楽の論理、声の出し方の論理、科学を学ぶことも選択肢であったかもしれない。それは声をいたわり、声の出し方を学ぶことで、自分の声を守ることだ。森昌子の場合、声が消費になっている感じがする。そうではなくて、自分の声を科学的論理性に基づいて持続することだ。いつまでも声に張りを持たせることだ。それが、人びとにいつまでも感動を与えることだし、夢を与え続ける。僕は森昌子の演歌をとてもいいと思うが、それでもやはり10代の続きの声が聞きたいと思う。 話は変わるが、海上自衛官の三宅由佳莉(みやけゆかり)は大学で声楽を勉強したソプラノ歌手らしいが、演歌も歌ってほしい。”ブルーライトヨコハマ”の歌い方は、とてもいい。彼女の雰囲気は森昌子に似ている。 youtubeから 三宅由佳莉 ”ブルーライトヨコハマ” http://youtu.be/jAIeYBNz45o ページの先頭へ |
タイトル本文LPレコード「愛傷歌」(1985,10,27才)のA面は、何か変な歌い方だ。録音の仕方が悪いのか、わざとこんな歌い方をしているのか、それとも曲にあわせると自然とこのような歌い方になったのか、清明な歌があるとするとこれは霧に包まれた、あるいはおぼろげな、あるいは退廃的な演歌、と呼べるものではないか。あまりに歌に味わいを持たせようとしたあまり、人にこの味は何だというよな、怪訝さを感じさせる歌い方になっている。これでは歌手としての輝きは失われる、と思えるのだが(ただ、未練雪は森昌子的な雰囲気も大いにある)。
逆に、B面は少し霧に包まれたような歌い方だが、とても素晴らし曲が並んでいる。似て非なるものだ。 youtubeから A面 二人づれ http://youtu.be/fb-mAUmyq8k 未練雪 http://youtu.be/KUopHKurHww 鎌倉にて・・・秋子 http://youtu.be/npZA7XPAV28 幸せ明かり http://youtu.be/nM6AWVYcs1A ページの先頭へ |
タイトル本文 昌子の演歌も芸術的だといえば言いすぎだろうか。以前、僕は昌子の演歌を大衆的と表現し、10代の後半の歌を芸術的な歌と言ったことがある。そう言った舌の根も乾かぬうちに、今度は昌子の演歌も芸術的だと、今日、一瞬思った。それは”北風は暖かい”を聞いていた時だ。LPレコード「北風は暖かい〜今故郷は・・・」は全体に昌子のすばらしい歌声を聞かせてくれる。この前のLPレコード「立待岬」から、一つの昌子演歌と言うものが確立してきたと感じたのだが、この北風のLPはさらに昌子の歌のうまさ、きれいさを推し進めたものと感じられる。このあと、すぐに”越冬つばめ”の発売だ。この頃の昌子の歌の動画はとても存在感がある。一つの絶頂期なのだろう。”越冬つばめ”のシングルレコードはそれほどではないが、動画を見ると、シングルよりもっときれいな声で歌っている。そしてその表情や立ち居振る舞いは、女の色気を見事に表出している。歌・声のきれいさと女の美しさ。これがこの時代の森昌子のすばらしさではないかと思うのだ。その歌声は、”北風は暖かい”では、詩の内容と相まって、芸術的だと思ったのだ。歌声を聞くにつけ、優しくてきれいで愛情深いな・・・そう感じることは、芸術的といえないだろうか。森昌子が最も女として輝きを放った時代の到来だろう。
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タイトル本文 前回、このLPレコードの演歌について取り上げたが、このLPは演歌だけからなっているのではない。22才ごろからは演歌歌手と呼んでもおかしくないようになってきたが、もともとは演歌歌手ではない。歌謡曲を歌う歌手、ポピュラー歌手だろう。歌謡曲と演歌の違いは何かと言うのはさておき、このLPの中には、とても軽やかな曲(東京ランデブー)や父親を思う温かな曲(季節(とき)に抱かれて)、高音が連続するとてもきれいな曲(美濃赤坂線)が含まれている。10曲のうち半数ぐらいがこのような曲であと残りが演歌。もし演歌ばかりだと、このLPは暗くて聞けないだろう。昌子の歌の傾向としては、完全に演歌にのめりこんでいるわけではなさそうだ。
次回のLPレコード「北風は暖かい」も演歌とも歌謡曲とも言える、中間的なものが大半を占めている。”越冬つばめ”は演歌だろうが、次の次の”ほお紅”は演歌だろうか。森昌子の場合、どうしても港や涙、失恋が似合う女に仕立て上げられた感があるが、”越冬つばめ”以降、それらから遠ざかる傾向にある。”寒椿”、”ほお紅”、”涙雪”、”恋は女の命の華よ”は都会的なセンスあふれる曲だ。 森昌子の演歌は”立待岬”から演歌歌手として花開き、都会的なセンスを歌うことでそれを確実なものしていったのではないだろうか。よく知っている人から見れば、それは違うと言われそうですが。 youtubeから 東京ランデブー(こういう軽快な曲をもっと歌ってほしいな。昌子が歌えばどんな曲でも聞き応えがあるのだから) http://youtu.be/uEfIUKhWbLc 季節(とき)に抱かれて(とても聴きやすい曲ですね。名曲の部類だろう) http://youtu.be/OtM4VIDyrXE 美濃赤坂線(もし十代に歌っていれば、もっと違った歌い方をするだろう。声や発生が演歌に慣れすぎたためか、高音部分に不満が残るが、それでもとてもきれいに歌い上げている) http://youtu.be/d0e8fjLWAps ページの先頭へ |
タイトル本文 森昌子のLPレコード「立待岬〜愛しき人へ」(1982,11,24歳)を2級作品とけなしたが、何度か聞いていると、彼女のこれからの歌の特徴をとてもよく表わしているのがわかった。あるいはこれからの歌の特徴が、このLPレコードに表れているとも言い換えられる。
それは大人の演歌として、大人が聞くに堪えられる歌とも言える。このLPは、人を優しく包み込むような、夜の闇と酒と思い出と切なさが入り混じった、都会の情念や男と女の切ってもきれない関係あるいは異性を求める男と女、年を重ねるにしたがい、きれいさよりも汚さが目に付く人間、そうした、成人が持つ人間臭さのようなものを、昌子独特の優しさ、きれいさで昇華しているともいえる。 昌子の歌はどんな歌でもきれいだ。汚れた歌でもきれいに歌うと思う。”立待岬”はいつまでも好きな人を待っているようだが、””越冬つばめ”は不倫の歌らしい(僕自身、越冬つばめをいくら聞いても不倫の歌には聞こえませんが。きれいな歌としか思いません)。そうした人間の汚れを歌い始めたLPレコードともいえるのではないだろうか。 このLPレコードで昌子の特徴的な演歌を3曲選びました。 ”日暮れ雨” (昌子演歌の特徴を最も表わしているように思う) http://youtu.be/2d-B7mf4TZY http://youtu.be/y-xBBRqD-Us ”思い川”(これも昌子らしい歌いかただし、メロディが頭にこびりつく) http://youtu.be/MSViQX4qNCQ ”思い出めぐり”(これは昌子の声が特にきれいだ。声の調子の良い時に録音したのかもしれない) http://youtu.be/WYEwqayYCYU ページの先頭へ |
タイトル本文 芸術性とはなんだろうと思う。女性の場合、よく美術館とか劇場とかに行って芸術に触れる機会があるだろうが、僕のような人間は、そう触れることはない。でも、森昌子の歌を聴くと、芸術性と言う言葉が頭をかすめる。その根底にあるのは、森昌子の声のきれいさ、声の響きにあるのではと思うのだ。濁った声ではなくて、澄み切った声、それでいてスーッと耳に入る心地よさ、微妙な声の振るえ、そして何より、その人の歌うことの姿勢。歌うことで何を表現しようとしているのか、ということ。昌子の場合、その情景を思い浮かべながら、歌っていると言うことを聞いたことがある。それは普通のことだだろう。でも、それが芸術と呼べるには、もっとハードルが高いと思う。それは歌の世界にまっすぐに向かい合っている姿勢、失恋や片思いに真正面から向き合っている姿勢。そういう姿勢と、声の美しさ、声の振るえ、その調和が感動を呼ぶのかもしれない。その感動に力強さが加わると、芸術的だなと思うのかもしれない。それが、18,19才ごろの歌い方だ。
(この文章は組曲”ほたる子”を聞いてのものです) ページの先頭へ |
タイトル本文 森昌子の歌はパチンコと同じだ。聞くとやめられない。何か聞きたくて聞きたくて仕様がない。聞けば心休まる。パチンコの、手の感触が忘れられないように、その声を聞きたくて、うずうずする。もう中毒症状なのかもしれない。昌子依存症か。そして寝る前に、youtubeで昌子の顔見る。10代や20代の顔を見る。今の顔は生々しくて見ないし、見ると現実に引き戻される。
やはり30年ぐらいの時を隔てているという、安心感か。昌子の歌はもうクラッシックか。クラッシクでもいい。それだけ安心感がある。どれだけのめり込もうが、それはもう過去の話であり、過去の歌だ。でも、過去というのは、それだけで終わらないのだね。今の私を元気付けもすれば、仕事の途中で昌子を聞いてしまう。こうなるともう病気だ。音楽病か、昌子病か。 これからも死ぬまでこの病気は消えないかもしれない。あるいは関心はほかの歌手に移動するかもしれない。でも、これだけ森昌子の歌にのめり込んだというのは、自分自身嬉しくもあり、自分の人生において貴重だし、これだけの歌手がいたということも、人間にとって、人類にとって、誇らしいことではないだろうか。(出張先の岐阜のビジネスホテルで) youtubeから 立待岬 http://youtu.be/7SKSbqz8fPo あなたを待って3年3月 http://youtu.be/_81YB9Jb1m8 ページの先頭へ |
タイトル本文 母親を歌った歌謡曲は多い。でも、父親を歌った曲は少ない。その中で、森昌子の歌には父親を歌った曲が何曲かある。それも、聞き応えのあるいい曲が多い。それで、私の知る限りの、森昌子のオリジナル曲で父親を歌った曲を集めてみた。残念ながら、youtubeにない曲がある。幅ひろい年代で、父親のことを歌っている。父親への温かい愛情が感じられる。
”父娘草(おやこそう)”(1978,3,19才、A面、山口あかり作詞、八角朋子作曲) http://youtu.be/N8cekpyOGCw http://youtu.be/TE0jHyZv61U ”父と娘”(LPレコード”そしてひとり”(1980,11,22才)所収、いではく作詞、遠藤実作曲) youtubeに無し ”季節に抱かれて”(1982,11,24才、LPレコード立待岬所収鈴木智子作詞、岩城一生作曲) http://youtu.be/OtM4VIDyrXE ”古都の春”(1984,4,25才、寒椿のB面、伊藤アキラ作詞、森田公一作曲) http://youtu.be/jpd_udrrt-8 ”初秋”(”〜さようなら〜”(1986,8,27才)のB面、遠藤実作曲、阿久悠作詞) http://youtu.be/0QuVs4qiovw ページの先頭へ |
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